Men explains things to me

冒頭のエピソードだけ読んで積ん読本になっているのだが、レベッカ・ソルニットに『説教したがる男たち』という著書がある。たまたま同席した初対面の男性が著者ソルニット(女性)に対して、最近読んだ興味深い本の解説を、まさにその本の著者本人であるソルニットに対して始める、というのが有名な冒頭のエピソードであり、この本のタイトルになっている。この著書のおかげで、男性が女性に説教したがる古くからある現象を名付けた言葉「マンスプレイニング」は大きく広がったとのことだ。

私は、それに近い領野についてはちょいかじりで学ぶことは多かったのだが、「フェミニズム」についてはほぼ関心が向かず、関連する書籍を読むことはなかった。せいぜいが、概説書に触れられているジェンダー/セクシュアリティの違いを知っている程度だった。理由は、関心に任せた読書をしているので、たんに興味が向かなかったというだけのことなのだが、女性ならではの嫌な経験をしたと感じることが少なかったせいもあるのだろう。気づいていなかっただけなのかもしれないが、就職もしておらず、家族関係においてそう感じさせる状況もあまりなければそんなものかもしれない。

ただ、自分がそれまでいた狭い世界から一歩出てみると、なるほど「フェミニズム」という領野が存在する理由が得心いくことが、多々ある。たとえば、ひとつの行動に対して引っかかることがあった時、男性に対しては前提として「きっと考えがあるに違いない」という態度であるのに、女性に対してはまったく同じことをしていても「その間違った了見を正してやらねばならない」と前のめりで説教されることは、実に多い。女性は劣った考えをしがちであり、それを正してやらねばならない存在だ、という前提の男性は(実は、女性のなかにも少なくないのだが)とても多いのだ、と遅まきながら、近頃ようやく気づいた。それはこれまで社会に出ることのなかった自分が、ようやく社会に出たせいなのだが、そうした立ち位置にならなければ経験をすることもなく、気づくこともなかったのではないかと思っている。おそらくは、女性は劣った考えをするものである、という認識に従った立ち居振る舞いをしていれば、こうした前のめりの説教に抵抗を覚えることもなかったのだろう。(最近、政治家の稲田朋美氏が同じような趣旨のことをインタビューで語っていて、驚きとともに共感して読んだ。) なるほど、この現象が普遍的現象として「マンスプレイニング」と名付けられている理由がよくわかる今日この頃である。

ついでにいえば、そんなこんなで、さして関心もなかったフェミストになってもいいなとも思っている今日この頃である。