「風評」をめぐる世論と報道の共犯関係

もはや聞き飽きるほど耳にしている「風評被害」の経済的側面の実態については、いくつかの信頼できる調査によって、その実態の輪郭線がおおよそ見えてきたように思う。(https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/takakusyu/pdf/012_03_02.pdf や https://www.maff.go.jp/j/shokusan/ryutu/190329.html )

川下である消費者の福島県産品忌避よりも流通経路での消費者の忌避心理を過剰に読み取った流通経路での忌避がより大きな要因として存在する可能性、また、震災後に流通ルートが他産地に置き換えられたことによる販売ルートの減少が大きいことが示唆されている。

さて、ここで話題にしたいのは経済被害としての風評ではなく、イメージとしての「風評」、福島への悪印象についてだ。これについては、報道に責任を帰する論調がもっぱらで、もちろん初期の報道の影響は極めて大きいものだとは思うのだが、報道だけが原因であるとは私は思っていない。というのは、どのような報道もそうだが、ただマスメディアが伝えただけでは世論は反応しないことが少なくないからだ。いくら報道が焚きつけても、世論が反応しないことは多いし、どれだけ報道がしつこく報じようとも世論が飽きれば一過性の盛り上がりで終わる。福島の原発事故で、嵐のような報道が吹き荒れ、それに世論が激しく同調したのは、そうした報道を世論が求めていたからこそではないか。つまり、一方的に報道の論調に煽られ世論が福島に悪印象を抱くことになったのではなく、世論が求めていた印象にぴったりと合致する情報が次々に報じられたことによって、事故後の福島のイメージは作り上げられていったのだと感じている。ここでは、世論は受け身の存在ではなく、報道の共犯者である。

そんなことを考えたのは、福島に対して、県外の大多数は既に無関心であるということを強く感じるからだ。県外に対しても発信することを続けていると、多くの人びとが反応するのは、自分の抱くイメージに合致した情報の時だけであることに気づく。自分が抱いたイメージに合致しない情報は、(大抵の場合は無意識の)取捨選択の上、採用しない。そして、その選択のプロセスさえ、意識しない。だから、世の求めない情報を発信し続けると、砂漠に水を撒くか、虚空に吠えるがごとくの手ごたえのなさを感じることとなる。

そんなことを考えたのは、今日参加してきたシンポジウムのパネルトークで県外の高校生が、一般的に「福島の復興は終わっている」と思われているから、もっと終わっていないことを伝えた方がいい、と言っていたのを聞いたからだった。これは、私の個人的な経験とも一致していて、福島にも原発にも放射能にも格別関心をもたない私の西日本の親戚などに、福島の様子はどうか、と尋ねられて、だいたいは落ち着いているけれど、まだ避難区域があると伝えると、「まだ避難しとる人おるんじゃ」と驚かれることが普通である。関心の薄れとともに、時間も経ったし、もうあの出来事は終わったんだし、なんとなく大丈夫なんだろう、と大多数の人はみなすようになり、ごく一部の強い関心を持った人だけが残り続ける。ごく一部の関心のなかには、強い忌避感を持つ人も含まれるから、その人たちが自然と目立つことになる。だが、世の大多数は実はもうとっくに関心など失っているのだ。それに気づかないで、ごく一部の強い関心を持った人の反応を頼りに情報を発信し続けると、一般にはさらに届かない情報となっていく。関心をもたない人は、わざわざ「関心を持っていない」と表明もしないから、その姿が見えることはない。

福島県内では、福島は悪印象を持たれているという感覚が、県外での実態よりも強いのではないかとはずっと思っている。実は、県外では「なんとも思っていない」人の方が大多数であり、その「なんとも思っていない」なかにはいくつもの誤解も含まれたままではあるが、その誤解が意識にさえのぼらないほどには、関心を持たれていない。なにかの折にはその誤解が表面化することもあるだろうが、関心をもたないことには世論は反応しないから、いくら報道が伝えようともこの先は世論が大きく動くことはないだろうと思っている。だから、悪印象を払拭することを報道に求めるのは、あまり効果的とも思えないというのが私の最近の見立てである。