2020/04/10 パンデミック雑感4 花冷え

noteにつらつらとなにかを書いては、下書き保存ばかりしているものだから、下書きフォルダばかりが増えていく。最初から公開するつもりなく、後から自分で読み返そうと思って書いているものも多いのだけれど、書いてみてわざわざ公開するほどのものでもないな、と思い直して、でも書いた作業がもったいない気もして、「下書き保存」ボタンを押す。

少し前にテレビを買い換えたら、YouTube 視聴機能もついていて、感動しながら使っている。YouTubeで英語でニュースを流している外国の通信社も多く、英語の勉強もかねて、最近はもっぱら外国各社の英語ニュースを見比べている。最近は、もちろんどこもコロナニュース。国によってそれぞれ特色があるのは面白い。各国、行政当局が連日、詳細な記者会見をしている様子も報じられ、日本とは彼我の差だと眺めている。(欧米圏だけでなく、シンガポールでも) 当局が連日詳細な説明をすれば、それだけでまったく安心感は違うのだけれど、ただ、対応の方針が定まらなければ、詳細な説明をすればするほど矛盾が露呈して混乱が深まるので、方針さえ定まっていない日本でできないのはやむを得ないだろうとも思う。それはすなわち混乱が拡大していくことを意味するのではあるのだけれど。

(ただし、アメリカは別。日本の状況にあーあ、と思いながらアメリカのニュースを見ると、それが吹っ飛ぶような話が大統領発で次々に出てきて、日本マシかも、と思い直す。)

日本の統治機構は、縦割り省庁の上に政治が乗っている形になる。昨今、官邸の一極支配が進んだとか、政治主導が進んだとか言われるけれど、根本的には変わっていない。縦割りの枠組みのなかで(忖度しながら)考えた施策を上にあげて、上でそれをいいとか悪いとかいうのが基本だと思う。省庁をこえた横断的な対応は出てこないし、仮に横断的な施策の指示を上が出したとしても、調整そのものは省庁の縦割りのなかで行うので、謎の縦割りルールに配慮した謎案が出てくる。「謎」とは書いたけれど、一部は役所の縄張り意識とかことなかれ主義とか前例踏襲主義とか意識の問題であるものの、他には行政は法で規定された職務しかできないという制約もある。この制約は変化を阻害する志向性を持つから、平時でも改善の方向性を制度のなかに位置づけておかないと、ひたすら硬直化の方向性に進むし、横断的に迅速な対応が求められる緊急時にはさらに機能しなくなる。これは、法治官僚国家では歴史的、世界的に共通の問題だろうと思う。

一方、非常時でも日頃から備えのある、省庁の枠のなかに収まるものについては、それなりに機能する。こういう非常時の意志決定をどう行っていくかは、政治家の個別の能力や資質も多少はあるにせよ、国家のような大きな組織が短時間に遅滞なく動くためには、平時から組織的対応を練っておかなければ大抵はうまくいかない。だいたい、非常時には瞬時に判断せねばならない事柄が大量に出てくる。あらゆる領野の多事を瞬時に判断できる超人など普通はいないので、組織としてどう役割を配分するか、どうプロセスや意志決定を共有するかといった部分がとても重要になる。こうした組織的な整備ができていないのが日本という国家なのだと痛感している。

これらは、原発事故のあとに明らかになったと思うのだけれど、そう思っていたのはごく少数だったんだろう。ここ何年もの論調を見ていると、なんでもかんでも、現政権の個人的問題にしてしまうか、マスコミと左翼と風評のせいにしてしまっていて、本来なにが問題であったかはきれいさっぱり忘れ去られてしまった。これもまた、国民性なんだろう。

今年も庭のしだれ桜が咲き始めた。春の光を受けて、花が揺れているのを見ると心がなごむ。もともと人が少ないから、この先感染拡大して外出自粛要請が出ても、外に出ることを自粛する必要もない。(歩いていて人に会うことがまれ) こういう楽しみのない都市部の外出自粛は難儀なことだろう。