国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり

見るだけで気力が萎えてしまう言葉があって、ここのところは「ゆるせない」がその筆頭になる。あちらこちらで、いろんな人の「ゆるせない」を聞きすぎたせいだろうと思う。震災後最初に聞いてよく覚えているのは、東京でのとある飲み会だった。初対面の福島出身で東京在住だという女性は、お酒のせいもあったのだろう、私がそれまでほとんど見たことがない調子で激高していた。東京の知人たちが、事故の起きた郷里福島をまるで汚れた場所のように言うことに、怒っていた。ざっけんじゃねえよ。どことなく愛らしさのある、整った身なりには不釣り合いな激しい調子で吐き出した。私は、事故後の混乱した福島での暮らしの中でも、ここまで激高した人は見たことがなかった。それは、彼女の孤立感がそうさせたのかもしれない。

オレはね、謝って欲しかったよ。頼むから謝りに来てくれと思った。でもあいつらとうとう来なかった。近くに住んでたんだし、それまでも何度も行き会ってるし、互いにしらないどうしじゃねえ。なのにあいつら避難所に謝りに来なかったんだよ。それで、オレはゆるせなくなった。もうゆるせねぇな。

東電の第一原発のすぐ近くに住んでいた人が、伏し目がちに感情を押し殺すように、静かにそう語った。彼が見せてくれた彼の友人のビデオの映像を覚えている。山のように煙草の箱を抱えてカメラに向かってその人は喋る。

見てくれ、この煙草の量を、オレは煙草を手放せなくなっちまった、吸わずにはいられねぇ。いまは一日5箱だ。事故前は一箱も吸わなかったのに。

泣いているわけではない。悲鳴を上げているわけでもない。けれど、見終えた後の記憶では、まるで泣きながら悲鳴をあげているようだった。もう六十は超えた、恰幅のいい男性が。

こいつ、死んじまったよ。と映像を見せながらポツリとこぼした。なぜ彼は私たちにあの映像を見せたのだろう。尋ねても答えは返ってこない気がする。彼自身にもわからないかもしれない。ただなんとなく見せたくなったのか。

事故後のいろんな立場の人が、それぞれでそれぞれに「ゆるせない」を抱えていて、それを広言する人もいれば、しない人もいる。そして、大きな声で「ゆるせない」を訴えて、多くの味方を手に入れた人が勝ちなのだ。
なんて空疎な勝利。

ゆるせない、ゆるせない、ゆるせない、が積もったときには、ふと呟く。

天にまします我らの父よ。
我らに罪を犯す者を我らが許すがごとく、我らの罪をも許したまえ。

年を取るごとに迷信深くなるというのは、本当のことだ。

そう、あなたもゆるせなくなってしまったの。ご同輩。