ワクチンについて誤った情報への対応について考える

コロナウィルスのワクチンの接種が進むにつれ、誤った情報も広く拡散するようになっているようだ。若年層になるほど副反応も強く出ると言われているので、この先、接種が若年層に広がるに連れ、不安感も広まるのではないかと予測している。

今回のコロナ対策については、リスク・コミュニケーションのチームが機能しているように見えるので、当局の担当者は、ぜひそちらの助言をしっかり聞いていただきたいと思っている。

(ただ、いかに優秀なリスク・コミュニケーション戦略があったとしても、ガバナンスと戦略がめちゃくちゃな日本の当局では、できることは自ずと限界があるし、また、ワクチン問題はコロナ以前から難しい状況にあり、元々のハードルが高い課題なので、100%の成功を望まない方がいい。多少の忌避や混乱は想定の範囲内にしておくべきだろう。)

その上で、長年のSNSにおける放射能論争の渦中に置かれていた経験から、気をつけたほうがいいと思うことをいくつか書いておく。誰かの参考になれば幸いである。

・初期においては、サイレント・マジョリティは「どちらを信じればいいのかわからない」状態にある。

 状況の変化が大きく、情報が氾濫している状況に置かれた時、大多数の人たちは、不安や混乱の中におかれ、「何を信じればいいのかわからない」という状況になる。その時に、自然に選ぶのは、自分の馴染みのある事柄、価値観、人に沿った選択だ。とりわけ重要な要素になるのは、情報発信者が信頼できそうかどうか、と言う点になる。情報発信者が信頼できないとみなされれば、その情報が選択されることはない。やたらに攻撃的であったり、嘘をついているように見えたり、不誠実であったり、思いやりがなさそうであったり、無能であったりするように見える人は信頼されない。自分の振る舞いが信頼に値するものかどうか、情報発信をする人は、厳に心がけて欲しい。

・「こと」は批判しても、「人」は批判しない。

 不正確な情報を発信する人を名指しして批判する動きも大きいが、名指し批判は、SNS時代はとりわけ避けるべきであると思う。誰でもそうであるが、名指しで大勢の前で批判されることは、単に内容の議論に止まらない、強い感情的反応(屈辱感)を引き起こす。そうなると、さらなる強い感情的な反発が起きるのは必定となる。その後、建設的な応答になることはなく、相互の感情的応酬が続き、私怨が積もるだけになる。放射能案件は、もはや私怨しか残っておらず、建設的な議論はあらゆる場面で困難になっている。このような状況になるのは、絶対に避けるべきであり、そのためには、個人を名指しで批判するのは避けるべきだろう。名前を出さずに、内容について事実を示しながら冷静に反応するのは、重要であるし、必要なことであると思う。
 個人名を出して批判することは、その個人に対してシンパシーを抱いている人に対しても、感情的な反応を引き起こすことも留意すべきだろう。

・悪魔化しない。

 わからない相手のことは、とりわけ何らかの悪意や敵意があって行動しているように見える。だが、実際のところ、大抵の場合は、非常に簡単な誤解や行き違いや価値観や生活条件の違いの結果、選択がそうなってしまっているだけで、そこに敵意や悪意が潜んでいることは稀だ。扇動しているように見える人であっても、そうかもしれない。だからと言って、相手の主張を肯定する必要もないが(相手が尊重されるのと同様に、自分も尊重されるべきだと思うからだ)、悪意や敵意のないところに、それを見出して悪魔化するのは問題を難しくしこそすれ、解決へ向かうことはない。
 特に、相手をレッテル貼りして糾弾するようなことは、厳に避けるべきだ。福島の場合は、研究者を含めたインフルエンサーが「福島の敵」と名指しを始めたところから、急速に事態が悪化した。レッテル貼りされた方は、その屈辱感と敵意を生涯忘れることはないし、これを行うと、生きている間に相互の信頼関係は、二度と回復できると思わない方がいい。全面戦争をして相手を物理的に殲滅したいとでも言うなら話は別だが、平和な社会を保ちたいと思うなら禁じ手だ。
 だから、「公衆衛生の敵」などと相手を糾弾するのは厳に避けるべきだ。大抵の人は、公衆衛生や社会を破壊しようと思っているわけではない。自分なりの価値観とやり方で、自分や家族の身を守ろうとしているだけだ。

・全体像を示しつつ、不利な情報も伝える。

 新しい、馴染みのない状況というのは、視界のない知らない場所に放り込まれたのと同じような状態だ。それだけで、不安感が募る。そこで最も重要なのは、全体像を示すことだ。もちろん、状況は流動的であるから、不確定の状況もある。だが、可能な限りの現状の全体像と方向性を提示し、わかっていないことは「わかっていない」と説明する必要がある。どこまでがわかっていて、どこまでがわかっていないかがはっきりするだけで、状況は一つクリアになるからだ。
 日本は、とりわけ、細かな情報にはこだわるのに、全体像を伝えるのが極めて下手くそだ。おそらく、担当者にも全体像が見えていないからなのだろうが、ここは改善が必須とされるところだろう。見知らぬ土地で、先行きのわからないバスに安心して乗り込む乗客はいない。
 もうひとつ重要なのは、この時に不利な情報がある場合は、きちんと伝えるだと言うことだ。小さな不利情報を殊更に大きく伝える必要はないし、悲観的に伝える必要もないが、こうした不利な情報もあるが、このように対応を考えている、などの対策も合わせて言うことが重要ではないかと思う。

・大切なことは繰り返し伝える。

 社会の構成員の隅々にまで情報を行き渡らせるのは、とても大変な作業だ。発信者は「まだこんなこともわかっていないのか」と言いたくなりがちだが、その情報に触れたことがない人が社会では大多数であり、その人にとっては「初見」の情報であると言うことは覚えておいた方がいいだろう。関心のあることしか、人間は認識しないような認識構造になっているので、聞いているようでも素通りしている例も非常に多い。重要なことは、何度でも繰り返し伝えるし、尋ねられれば「またか」と言うような素振りは見せないで、丁寧に伝えることも重要だ。なぜならば、尋ねると言うことは、「関心を持った」と言うことに他ならず、情報を伝える絶好の機会になるからだ。この時に、「またか」「まだそんなことを聞くのか」と言う対応をとってしまうと、せっかくのチャンスをフイにしてしまうどころか、その人は二度と話を聞いてくれなくなってしまうだろう。

取り急ぎ、思いつくことを書いた。情報発信は、タイミングも非常に重要だ。タイミングを逸すれば、ほとんど無意味か、害悪になることさえある。放射能問題は、ここを完璧に失敗している。今回は、タイミングを逃さず、適切な情報を発信してもらえることを願っている。

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