(読書メモ)『災害の襲うとき』 住まいを失うこと

『災害の襲うとき』のなかでは、一章を「立ち退き・仮住まい・再定着」に費やしている。これが大きなストレス要因になるからだ。住まいから離れる/失うことに関してのストレス要因について、ラファエルは次のようにリスト化している。

⒈ 人間の尊厳性の喪失と他者への依存
⒉ 不慣れで不便な臨時の住居
⒊ なじみのない近隣と住み場所
⒋ 近隣関係と社会的ネットワークの喪失
⒌ 公共サービスの欠如
⒍ 住居・住所の恒常性への不安
⒎ 復旧段階での行政・官僚との軋轢
⒏ 接死・臨死体験、生き残り、悲嘆など災害性心傷による持続的な精神ストレス
⒐ 被災・立ち退きによる仕事、余暇、教育その他日常的な多様な変化
10. 上記のすべてに起因する持続的または新たな家族内の緊張
(209ページ)

これらすべて東日本大震災原発事故の避難でも問題としてもちあがったことだ。とりわけ、最初に「尊厳性の喪失」が指摘されているところに目を惹かれる。

どのような文化・社会形態にもせよ、各個人にはそれぞれ人間としての自己認識と、男としてまたは女としての自分のアイデンティティに寄与している役割、私有物、それに行動パターンがある。その所属する社会が複雑であればあるほど、人間はみずからのイメージ保持のために、このような役割、私有物、行動パターンに頼ることになろう。これらのものが災害によって奪われたり破壊された場合には、この自我像も傷つくことになる。この意味で災害は人間を均一化する。…だから災害は「グレート・イーコライザー(大がかりな人間平準化)」などと呼ばれるのである。しかしながら、ほとんどの社会が階層化している現実のなかで、このような「裸のままの人間」に降格されることは、男女ともに容易には受け入れたくない不快なことなのであるう。
(210ページ)

いくつものことが頭をよぎる。ひとつめには、「グレート・イーコライザー」について。災害が既存社会秩序を揺るがし、一時的な人間の平準化をもたらすことは、今回のコロナウィルス・パンデミックに関連しても、しばしば耳にしたが、これらが起きるのは、既存のものが「奪われたり破壊された場合」に限定されるだろう、ということ。既存秩序が温存されるのであれば、当然ながら、グレート・イーコライザーは発動しない。今回のコロナウィルス・パンデミックは、quarantine といい、cofinement といい、既存秩序をより強化する形で温存するものであるから、平準化がまずおきないであろう、と予測させる。

もうひとつは、ソルニット『災害ユートピア』にうっすらと感じていた違和感が明確になったということ。ソルニットの著書の中では、この災害後の既存の役割や自画像が失われるなかで起きる自然発生的な利他的、他愛的な活動を非常にポジティブに評価する。ただ、そのポジティブさかげんに、私はどうにも疑念が拭えなかった。確かに、利他的で他愛的で自然発生的な助け合い活動は、被災地におきたし、その活動は大いに励みになったし、また現実的な力にもなった。だが、そこまでいいものだろうか、という点だ。助け合うことによって、人間のすばらしさのようなものは確かに感じたが、一方で、そこには助けられる側が抱いたであろう、複雑な感情を過小評価しているようにも思えたからだ。おおよその人間は、もともとの自己イメージを失ったことに対して、なにかの衝撃を受けている。目の前に助け合わなくてはならないことがあるから、笑顔で、また、必死に動きはするだろうが、それは失った自画像を埋め合わせるためのものでもある。人間は、秩序を求める欲求を根源的なものとして持つ。ソルニットがアナーキズムとして評価する自然発生的なコミュニティによる利他的行為も、権威主義的な見当違いの支援も、ともに秩序を求める動きの姿を変えたものに過ぎないのではないか、という印象はずっと抱いていた。

自立している大人として、これまで自力で調達できた生活必需品を、他者からもらわねばならないのは、つらいことである。それはまるで自分が子供に退行したような気持ちを起こさせ、かなりのフラストレーションと怒りを生むことが多い。被災者は他者からの援助すべてに感謝すべきものと期待されているので、このような気持ちは外には表わせないのだが、当人は他からの恩恵と、それを受けねばならない自分自身い対して、ひどく恨めしい気持ちかもしれない。(211ページ)

この屈辱感と、それに対する「怒り」の感情は、被災地に充満していたと思う。とりわけ、原子力被災地では、放射線知識を上から教えられることによって子供扱いされているとの感覚を強く抱かせることになり、そのことが、さらに怒りとフラストレーションを抱かせることとなった。だが、これらは原発事故に対する怒り、また原発事故を起こした専門家や政府に対する怒りと同一視されてしまったため、これまで指摘されたことはほとんどないと思う。私の『海を撃つ』のなかにも書いたエピソードなのだが(222ページ)、放射線測定をはじめる前の説明会のときに、一人の男性に言われたことがある。「ベクレルだのシーベルトだの、学者先生を連れてこられてお勉強させられても困るんだよ。俺たちにとって重要なのは、この数値を使って、この先ここでどうやって暮らすかなんだよ」 この言葉は、とても含蓄深いもので、強く印象に残っている。いくつもの要素がある。私は、彼はプライドを傷つけられている、と感じた。具体的にはなにによってプライドを傷つけられたのか。おそらく自分の自立した生活を損なわれたこと。もうひとつには、「子供扱い」されることだ。突然、生活に入り込んだ放射能、それへの知識がないばかりに、突然あらわれた赤の他人である「専門家」に、あたかも一人前の判断ができないかのように扱われる、また自分自身でもなにが適切な対処方法なのかわからない、そのことがひどく彼の自尊心を傷つけたのだと思う。だが、それは、彼だけではない。だれもがそうであったはずだ。自分自身の力の足りなさに対するフラストレーションもある。「子供扱い」されることは、どのような大人にとっても屈辱的なことだ。だが、大抵の人は、ラファエルが指摘するように、支援には「感謝すべきものと期待されている」から、それを表に表さないで、笑顔でやり過ごし、澱のように不信と不満が溜まってゆく。私は、このとき「お勉強させられても困るんだよ」とはっきりといってくれた彼には 、とても感謝をしている。自分がなにを望んでいるのか、なにを必要としていないのか、明確に語ってくれる住民は、ほとんどいないのだ。「違う」と思うと、それなりの距離を取られるだけで、支援する側はその原因がよくわからない、というのは日常の光景だ。

末続の場合は、一時的な避難で済んだので、暮らしを回復することによって、人間の尊厳を回復することも可能となった。暮らしと尊厳は密接に結びついた重要な問題なのだが、このことが復興の施策において重要問題として提示されたことは、皆無ではないかと感じている。だから、ラファエルが住居の問題の指摘において、これを最初に出していたことに、うれしい驚きを感じたのだった。