パンデミック雑感11 その知はなんのために

ここのところ、アメリカの作家や研究者の本を読む機会が多い。ソルニット、ホックシールド、フレッド・ピアス、いま読み進めている途中のケイト・マン、それから、スロビックにビヴァリー・ラファエル。

たまたま、関心傾向を追っていたらアメリカの作家が重なったというだけなのだけれど、読んでいると、その論理の明晰さと、無駄のない著述、下調べの豊富さなど、その鮮やかさに唸るようなものばかりだ。あらため考えてみると、若い頃から私が読んできた本のなかには、アメリカの作家や研究者のものがほとんどないことに気が付く。大学では、映画論の講義を取っていたことがあるので、その関係で創成期のハリウッドなどについては授業で若干勉強した記憶はあるけれど、それ以外のアメリカ文学にせよ社会学にせよ、ほとんど読んだ記憶がない。関心傾向が、ヨーロッパの特にフランスや若干のドイツ系に偏っていたこと、卒業してからは日本の古典や歴史に絞って読んでいたことが理由ではあるけれど、いまさらながら、アメリカの知識人層の見識の高さや貪欲なまでの研究意欲が十分すぎるほど感じられる書物を読んで、目を丸くしている。確かに、世界を牽引する知がそこにあるのだといまさらながら実感している。

と同時に、読めば読むほど、これほどの知の厚みがありながら、なぜ、アメリカ社会はああなってしまったのか、との疑問が大きく膨らんでくる。ホックシールドの『壁の向こうの住人たち』は、その問いに対して答えを得るべく、著者がフィールドワークを行ったこれまた素晴らしい記述で、そこに、なぜアメリカ社会がこうなったのか、という問いに対する答えの一部となるようなことは描かれているのだが、それでもなお釈然としない。その釈然としなさは、ホックシールドの明晰すぎるほどの見識と分析、そして研究への情熱をもちつつも、それらが、現実に対して(フィールドワークを行い、現実を分析し描き出すという点を除けば)ほぼ無力であるということに起因するのかもしれない。もちろん、学術知は、社会運動とは異なるし、また必ずしも社会変革を目的とするものではないという意見はそのとおりであるとは思うのだが、一方で、「知」だけが凄まじいまでに高度化する一方で、それが多くの人にとっては、ほぼなんの力も及ぼさない状況に対して、ひずみのようなアンバランスさをどうしても感じてしまうのだった。それは、アメリカという国が世界で最高峰の医療技術をもちながらも、大多数の国民は、保険制度の問題等によって、その恩恵に預かることができない、ということと軌を一つにしているように思える。

知が、ごくごく一部の知識人の占有する恩恵にすぎないものとなっているときに、果たしてその「知」の存在価値とはなんなのだろうか。社会にほぼ還元されることがなくなれば、どれほど高度な素晴らしい知であっても、それは限られた知識人のなかでの延々と循環し、ただ知のための知を再生産していくだけの存在にすぎなくなるのではないのだろうか。昨今のアメリカをはじめとする世界中で「ポピュリズム」が吹き荒れていると言われているが、その背景には、知識人層に対する不信や嫌悪が広まっているようにも思われる。しばしば、「左派リベラル」が槍玉としてあげられるが、一般的に、知識人層には左派リベラル傾向の人が多いため、批判的に「左派リベラル」と言われるときには、政治的志向性よりも、むしろ知識人層を総称しているのではないか、と感じることが多い。結局、それは、社会に還元されることのない知を占有し、内輪でしか通じないジャーゴンの議論を繰り返し、それがあたかもなにか社会にとって価値あるものであるかのように振る舞う、そうしたことに対する嫌悪と不信の反映なのではないか、とも感じる。

「知」は、それを所有する人間にとっては、視野を広げ、思考の自由を広げるものである、と一般的には(教科書的には)みなされることになっている。だが、社会全般においては、しばしば知を所有することそのものが、それをもたない(と感じる)人々にとっては、抑圧的、威圧的な振る舞いとなる。ときおり自覚的に知をひけらかし、威圧的に振る舞う人も目にするが(知的スノビズム)、そのような振る舞いを取らずとも、ただそれだけで、持たざる者に対しては抑圧的、威圧的になりうるのだ。それは、人間が「知」を社会を支配するための道具として使ってきたことと表裏一体であろう。知を所有し、支配下に置く者だけが、社会の支配者となることができた。潜在的な抑圧者、支配者として社会に存在しながら、一方で、その知を社会に対して還元しようとしない。そうした「知」の存在意義とは果たしてなんなのだろうか。

(この項、気が向けば、続く。)