パンデミック雑感 ー10年目を目前に、安全と安心の狭間で

 震災から10年目を目前にしての過日の福島県地震は、記念日報道が増えていることと相乗して、震災後の騒然とした記憶を呼び覚ましたかのような気配がどことなく流れているように感じられる。

 ともなって、廃炉作業中の福島第一原発の原子炉格納容器の亀裂が広がったようで、冷却用の水位低下、格納容器内の圧力低下に、東電による地震計の故障放置による計測不可などが報告され、また、長く基準値超えが見つかっていなかった漁業でもクロソイから500Bq/kg が見つかるなど、5年ほど前を思い起こすような流れとなっている。

 クロソイは、ネットが設置され通常は外海に出ないようにされている福島第一原発港湾内から泳ぎ出たものではないかとも推測されているが、実際はわからない。ただ、これまでの測定結果を見ても、このレベルの検出はほぼ港湾内に限られるので、例えば、地震の揺れでネットのどこかに隙間が出来、そこから泳ぎ出た可能性もあるのではないかと、素人頭で推理したりもする。何れにしても、これまではほぼ不検出でずっときていたなかでの、たった一匹であるから、報道するにあたってもこれまでの測定の積み上げを同時に伝えて(何千回、何万回と測定してきた中の1匹にすぎない)、規模感がわかるようにしていただきたい。と同時に、「水」の問題も解決しないなかで、漁業関係者の心痛はいかばかりかと思う。

 しばしば、科学的リスクについて語るときに、「安全は客観的で安心は心理的なもの」と言われるが、実際は、安全についても価値判断から免れることはできない。安全基準を定めるにあたっては、どこかで、「えいや」と線を引かざるを得ないのだが、その線を引く作業は、それがどのようなものであっても価値判断によるものにしかならないからだ。先日、リスク学の講義を聞く機会があって、大いに勉強になった。(急遽頼まれて、某大学の環境社会学の集中講義を6時間分講義したのだけれど、その同じ講義内の別先生がリスク学の講義だったため、聞く機会があった。)

 この内容については、村上道夫ほか『基準値のからくり』(2014年、講談社ブルーバックス)にあるので、科学リスクについて興味のある方にはぜひご一読をお勧めしたい。実は、2014年に出てすぐに著者から頂戴していたのだけれど、当時は、書籍を読む精神的余裕がなく、部分的には読んだものの全編は読んでおらず、改めて勉強になった。

 放射能の安全基準には、しきい値なし直線仮説というモデルが採用されている。これは、原爆被爆者の追跡調査等によって確証されている200mSv以上の右肩上がりの直線を、100mSv以下でも適用し、外挿しして使っているものだ。100mSv以下の放射線リスクについては、合意を得られるほどの科学的証拠は得られていない。なんども書いているが、低線量の被曝からの人体影響を観測するにあたって、他のリスク要因からの影響を免れることはできない。その観測の難しさから考えると、100mSv以下の被曝リスクに決定的な結論が出ることは、近い将来にはないであろうと思われる。

 とは言っても、そういう状況の中でも、なんらかの安全管理基準がなくては、安全管理ができない。だから、証拠のある200mSv以上の右肩上がりの直線を100mSv以下でも適用すれば、当たらずとも遠からずというところで管理できるだろう、そういう判断に基づいて採用されている。安全管理の指標は、科学的知見だけで定められるものではなく(そもそも放射線のように原理的に不可能な場合も少なくない)、実用性や社会的な判断、つまり一定の価値判断によって最終的には決められることが一般的となる。

 リスク学において「安全」の定義は、しばしば、「危険のない状態であると感じられる状態」「受け入れられないリスクのない状態」という否定形によって定義されている、というのは、非常に示唆的である。つまり、あらゆる場面で適用できる、客観的な安全は定義することができないのだ。

 こうした価値判断を孕むリスクの取り扱いで非常に難しいのは、それを社会的に判断する場合だ。個々人の判断であれば、最終的には、人それぞれ、というところ以外には落ち着けようがない。一方、社会生活を営む以上、社会としてなんらかの決定をしなくてはならなくなる。もともとあるリスク要因については、明示化されずとも社会的ななんとなくの合意がある。しばしば、交通事故のリスクについては数値化すれば、放射能のリスクよりも遥かに高いなどと語られることがあるが、この程度のリスクであれば自動車の使用を受け入れるという、なんとなくの社会的合意があるから、可能となっている。それは、私たちの社会にとって、自動車が馴染んでいて、リスクの程度も推し量ることができるし、またそのリスクに対する対処方法もある(と思える)などの条件が揃っているからだろう。たんに、便利さをとった、というだけの話ではない。そもそも、自動車のリスク感は、段階的な技術発展と社会への普及に従って、漸次、醸成されてきたものであって、数ヶ月、数年で醸成されたものでもない。

 これに対して、未知のリスクについては、社会的な合意を得ることがとても難しくなる。未知のリスクは、その科学的な意味でのリスク規模がそもそもわからないわけだから、その上で行われる社会的な価値判断はさらなる大混乱となることはやむを得ないことでもある。

 リスクの価値判断に社会的合意の醸成ができていない段階でも、それでも決めねばならないことは多々ある。(今回のコロナも然り。) その際に、その判断に対する社会的な正統性を担保するものは、「信頼」だけになる。正当とみなされる知見に基づいて、正当と見なされる手続きによって、正当と見なされる人びとが決定したということだけが、その判断の正統性を担保する。この場合、何をもって「正当」と見なすかは、社会によって、時代によって大きく変わるだろうが、最終的に、信頼の問題に帰結するところは同様だろう。

 社会的な合意醸成ができていない事柄に対する価値判断の難しさは、それが「価値」の問題であるから、それぞれが折り合う意思を持たなければ、それぞれが言いっぱなしになり、社会の亀裂が深まっていく一方となることだ。なぜならば、価値観は信念や信仰のようなそれぞれの内面に帰するものであり、本人の意思によってしか変えられないものだからだ。これが、外的要因に規定されるものであるならば、その条件が変わることによって、自ずと妥協することも可能となるが、価値観の問題は極めて妥協が難しい。

 ここで起きる価値観の衝突に対応するためには、さらに上位の枠組みを設定する必要がある。つまり、目標設定である。この価値判断をなんのために行うのか、どのようなことを目指してその価値判断を行うのか、ということだ。これは、すなわち、どのような社会を目指したいのか、どのような社会であることを求めるのかということでもある。現代社会において、価値の衝突が起きるのは、社会のありようについて目指すところを共有することが難しくなっているところが要因として大きいように思える。目指すべきところが共有できれば、価値観を変えることは不可能であったとしても、一時的に、あるいは部分的に、現実対処として折り合うことは不可能ではない。社会格差が分断の引き金であると言われるが、格差が問題となるのは、階層の断絶化によってありうべき社会像を共有することがまず困難となるからではないだろうか、と思っている。

(このあたりの考えは、吉田徹『アフター・リベラル』(2020、講談社現代新書) にヒントを得ている。)

 いずれにせよ、私たちが生きていくのは、社会の内側でしかあり得ない以上、いかに困難とはいえ、まずは、どのような社会を目指すのか、そこから話をはじめるしかないのではないか、と、SNS上の果てることのない「科学」にまつわる論争を見ながら思っている。