パンデミック雑感 ーコロナと原発事故

パンデミックについては、あまり賢しらに書くのもどうかと思ってしばらく書かないでいたのだけれど、友人に、コロナと原発事故の異同について気になっている人は多いと思うよ、と言われたので、久しぶりに書いてみることにする。

コロナと原発事故の共通点はなにか、と言われれば、目に見えず五感で感じることのできない危険な闖入者があらたに社会に多大な影響を及ぼすこととなり、「科学知識」を用いて、政治・行政が差配しながら対応しなくてはならなくなった、ということだろう。そこで発生する心理的反応や、統治機構の対応も自然、似通ったものになる。

違いは何か、と言われると、ウィルスは伝染する、増える、ただちに影響があらわれるということで、放射能は環境中に残存して社会に大きな影響をもたらす一方、増えないし、移らない、身体への影響は相対的に低く、(あったとしても)すぐにはあらわれない。とりわけ大きく影響を及ぼす違いが、感染だ。ウィルスによっても大きく異なるのだろうが、今回の新型コロナウィルスの場合は、指数関数的な増加速度となる。

この感染速度は、対応を非常に難しくしている。原発事故の時と同じキャッチフレーズを用いて「経済か、命か」としばしば言われるが、この感染速度を考えると、そのバーターは成立しない。なぜならば、発病者の増加により病院機能が停止し、社会が混乱に陥ることを抑えようとするならば、社会活動に長期にわたってかなり強めの制限をかけて、相当程度低いレベルで感染者数を抑え込む必要があるからだ。指数関数的増加というのはそういうことで、ほどほどのところで感染者を維持する、という選択肢は存在しない。極小で抑えるか、制御不能に増加するかの二択しか存在しない。それは、現在の日本の状況をみれば明らかだろう。コロナの危険性を過度に見積もりすぎだから、経済への制限をかける必要はないと言う意見も散見するが、病院機能が崩壊した状態で、たとえば、急病人が救急搬送される余地もなく放置される、重病になっても治療を受けられない、あるいは遺体となってそのまま寝室に置いておかれるという状況が常態化したなかで、社会が混乱なく経済を回し続けられる世界というのは私には想定できない。ニューヨークでの第一波の時には、休みなく入る救急要請に応じて出動する救急隊員が行く先、行く先、もはや遺体となっているか、手の施しようがない患者ばかりだった、という報道を読んだが、こうした状態で、インフルエンザと変わらないから放置すればいい、あるいは、経済活動を優先すべきだ、という主張はまずもって成立しないと考える。

長期にわたって社会活動に抑制をかけるとすると、経済的には、少なくともある特定の業種については、壊滅的な影響を受けざるを得なくなる。そこの影響を最小化するための政策的対応をいかに取るかという点は問われるべきだろうが、その打撃を完全になくすことは不可能であろうと思われる。したがって、最初から経済は一定程度打撃を受けることを織り込まざるをえず、ここで「経済か、命か」という単純なバーターは成立しなくなる。経済はいずれにせよ影響を大きく受けるのだ。

どうしてこんな禅問答のようなことをつらつらと書いてみることにしたかというと、「経済を優先しろ」という、主として政府方面の主張の背景には、原発事故のときの対応が暗に影響を及ぼしているのではないかと感じられるからだ。

つまり、放射能の被害を過大に見積もり、過剰対応をしたために、取り返し不可能な多大なる損失を得ることになったと思っていることが、今回のコロナにおける強気の対応に背景としてつながっているのではないかと感じるのだ。確かに、原発事故の、とりわけ避難指示の及ぼした影響は大きく、それは今後長期にわたって回復不可能だろう。だが、それは、専門的知見を生かしつつ、長期的な戦略的対応を取るという機能をまったく持ち合わせないこの国の統治機構の不全がもたらしたものであり、リスク判断の問題は、全体の問題のなかのごく一部を占める、端緒に過ぎないと私は認識している。最初期の原発近傍地域における避難の混乱で高齢者などが亡くなった問題は、非常に不幸で痛ましい出来事ではあったが、当時の状況を考えれば、原発事故がひとたび起きればもはや避けることのできない犠牲であったと私は思っている。その後の避難指示が長期化したことによる問題の方が、遥かにことを複雑にしたし、より問題視されるべきなのは後者であろうと思う。そして、その事態をもたらしたのは、統治機構の不全であり、リスク判断の問題ではない。

身体への影響だけを考えても、放射能の被害は、慢性的かつ遅効的であるがゆえにコントロールも可能であるが、コロナウィルスは指数関数的に即座に影響を及ぼすため、コントロールが非常に難しい。未知の闖入者に対する反応といった面で共通するというだけで、放射能とはまったく異なるウィルスに対して、逆張りの対応を取ろうとしているのだとすると、あまりに雑駁に過ぎるのではないか、と思うのだ。リスクコミュニケーションやリスク対応という面では共通する面も多いし、社会不安への対応といった面でも共通することは多くある。だが、それぞれの性質の本質的な違いを見極めずに、放射能の時にこうやって失敗したから、今度は逆に対応すればいいと判断しているのだとすると、根本的な対応を誤っているのではないかとの危惧をずっと持っている。