2020/04/22 パンデミック雑感8 伝えるための言葉

リスク・コミュニケーションは、言葉だけの問題ではなく、統治機構や社会システムの問題でもある、とは書いてきたのだけれど、一方で、「言葉」の問題であることも間違いない。

今回のパンデミックに関する専門家会議の発信は、原発事故の時よりははるかにマシだと思う。その理由は、原発事故の時の苦い記憶がまだ残っている人が少なからずいることと、専門家の層の厚みの違いもあると感じている。原子力放射線関係の人たちは、とにかく有事に対する危機意識が極めて薄かったし、また、人々に「伝える」よりも「教える」「教化する」という意識が先に立ち、そのことが事故が起きて強まっていた専門家不信を一層強めた大きな原因のひとつとなった。これは、原子力開発は、その起源からし垂直統合的な権力・権威志向を強く持つものであり、技術の維持管理も同様の垂直統合を必要とするため、業界全体がその思考スタイルと発想に染まりきっており、それ以外の発想をもつことが極めて難しかったということが背景にあるのだろう。その傾向は、日本社会の権威主義的な性質とあいまって、事故から10年近くを経ても変わっていない。それどころか、2015年以降はその傾向をさらに強め、権威を振りかざす人が増えたというのが私の実感である。ちなみに、そうした権威を批判することを自己目的化している反権威主義も、同じ権力志向の抱き合わせであり、両者は一体である。双方の対立は、どちらがより権力を持つかの権力闘争に過ぎず、生活者の存在など一顧だにしていないし、生活者にとっては、それが生活に介入してこない限りにおいては、関係のない話といってもいい。(これが介入してくるので、しち面倒臭い話になったのだけれど。)

とはいいつつも、今回の専門家会議に対しても同様の傾向は見られる。私の観測範囲では、専門家会議に対する不信や批判的な意見が目立つようになったのは「オーバーシュート」という言葉を使い始めたとき、そして「若者が感染を広げている」との不用意な見解を発表した時からだ。「オーバーシュート」という語については、早くから英語翻訳を職業とする人たちから、そのような用例は英語圏では一切見られないという指摘がなされていた。私が追っている英語ニュースでも、「オーバーシュート」という語を目にしたり耳にしたことはない。なぜ英語圏でさえ誰も使っておらず、ましてや日本語ではまったく馴染みのない言葉を急に持ち出して使い始めたのか、その理由は定かではないが、インパクトのある語を使って注意を喚起しようとの狙いがあったのかもしれない。ただ、一般的にも、専門家が発信するときに、なじみのない耳慣れない言葉を使うと、それだけで威圧的に感じられ、わかりやすい説明を放棄しているとの感覚を持たれやすく、本当にその語を使う必要がある場合でもなければ、馴染みのない言葉を使うのは避けるべきだったろうと思う。(たとえば、病名であったり、ウィルスの固有名であったりを言い換えるのは無理であるし、するべきではない。)

案の定、一部の人たちからは、専門家会議がなぜその用語を使ったのか、そもそも、そんな用語を使う彼らの見識は信頼に値するものなのか、という疑念が表明されることになった。これは、たんなる言葉の問題ではなく、伝えたい相手の身になって考えるという姿勢が欠落していることが背景にある。日本は、相手の立場に自分を置き換えて配慮するということが、そもそも苦手な文化だと思う。思いやっているようでも、一方的な押し付けであったりすることがしばしばで、それは一般人であっても、専門家であっても違いはない。自分の意見をわかってほしければ、相手のことをまずわかろうとしなくてはならない、というのがコミュニケーションの鉄則なのだけれど、相手のことをわかろうとするプロセスをまったく省略して、どうすれば自分をわかってもらえるかというきもちばかり先立って、「コミュニケーションはかくあるべし」といった形式論やテクニックの議論がはじまるのが日常光景だ。そして、根本のところができていないので、大抵は、机上の空論ができあがる。「伝えたい」という自分のきもちばかりで、相手にそれがどう受け取られるかが見えていないのだ。それは、相手に対する無関心の裏返しだ。言葉の選び方にも、その姿勢が自然とあらわれ、それが不信を引き起こすのだと考えている。

それは、「若者が感染拡大の元凶である」という指摘もそうであったし、また夜の街に関連して、性的マイノリティを名指しで指摘したことについても同様だ。これらも、発信した結果が相手にどのように受け取られるかへの配慮を欠いており、一部に強い反感を買っていた。こうした反感はひとつひとつは小さなものではあるかもしれないが、少しずつ疑念を蓄積させ、やがて、強い不信となって信頼そのものを崩壊させる。こと、特定集団を名指しですることは、それが事実であったとしても、たとえばHIV発生初期に見られた激しく根深い差別を考えれば、注意喚起程度の軽い気持ちでやってよいことではない。

こうした専門用語を使う背景には、内輪の感覚でしか物事を見られなくなっていることも挙げられるだろう。感覚や知識を共有できる人間の間だけで話している分には、専門用語はある種の仲間意識を強め、心地よくさえ感じられる。意思疎通をスムーズにすることさえあるだろう。だが、社会に語りかけるときには、感覚も知識も共有しない、多様な人たちにも伝えなくてはならないのだ。また、仲間意識を持つことは、一方で、仲間でない人に対しては排他的な姿勢を示すことと表裏一体となる。外に開かれた言葉を発しなくてはならない時は、一部の集団内での仲間意識をもたらす言葉は、排他的に作用することも自覚しておいていいのではないだろうか。いったい誰に向かってものを言っているのか、その眼差しは、使う言葉に如実に反映される。言葉の問題ではあるが、言葉だけの問題ではない。その眼差しになにが映っているのか、使う言葉にはそれが映し出されることは指摘しておきたい。