スティーブ&ボニー (19) 初恋のようなハグ

発表の日の朝は、まだ薄暗い夜明け前に起きた。地下の部屋で、ベッドの上に持ってきた着物と小物を並べる。小さめだけれど、クローゼットに姿見がついていてよかった。これがなければ、ボニーに大きめの鏡を貸してもらうようにおねがいしなくてはならないところだった。眠気の覚め切らないぼんやりとした頭で、並べた小物に欠けているものがないか、手順を復習しながら手早く確認をして、着付けを始めた。

着付けは、原発事故のあとに習い始めた。世代の違う教室の仲間との雑談がいい息抜きになっていることもあって、私にしては珍しく長く続けられる習い事になっていた。あまり手先が器用ではない私も人よりも時間はかかったものの、なんとかひととおり着付けが自分で出来るくらいにはなり、海外で発表をするときには、荷物が増えるものの着物持参で行くことにしていた。民族衣装はどこでもウケがよく、着ているだけでまわりの人が親切にしてくれるし、万が一、発表が不発でも、着物を着ていればそれなりに存在感をアピールできるだろうという目論見もあった。アカデミアに属するわけでもない私が学会やシンポジウムで発表するにあたっては、例外なく、主催の関係者の推薦の上で、どこかが渡航費用を捻出してくれている。そうでなければ、どこからも渡航費用を調達できるアテがない私は、そもそも参加のしようがない。今回の渡航費用は、自分で交渉したけれど、いずれにしても、つまりはスポンサー付きということになる。となると、推薦者の面目を潰すわけにはいかないし、出資者には呼んでよかったと思ってもらわないといけない。発表準備はするにしても、よりスポンサーの満足度を高めるために、というささやかな計算もあって、着物持参で発表することを自分の通例にしていた。

私の好みは、着回しの効く飽きのこない地味な柄の着物なのだけれど、アメリカなら少し派手めくらいがちょうどいいだろうと思い、手持ちの中でも明るくて柄が大きめの着物と帯を用意した。小一時間かけて着付け完了。部屋の階段をのぼってキッチンにあがると、ボニーとスティーブがもう待っていた。ボニーは、まぁ、リョーコ、beautiful...、とうっとりしたような表情をし、日本から持ってきたの? 着物をまじまじと見つめている。そうなの。ついで顔を出したスティーブも、素晴らしい、と呟いて目を丸くしている。どうやら、着物作戦は成功みたいだ。

そのままスティーブの運転する車に乗って、発表会場へ向かう。平らな地平線の向こうからわずかに朝日がのぼりはじめた薄暗い通りは、既に通勤の車でごった返していた。ハイウェイを走らせながら、昨夜のレセプションのことをスティーブが話しはじめる。

いつも、あんな感じだ。みんな批判、批判、批判で、他人の話しを聞こうともしない。うんざりだ。なぜ、ちゃんと人の話しに耳を傾けようとしないんだろう? 批判ばかりで全く非生産的だ。

時折、運転するハンドルから片手を離し、上にあげながら、時折こちらに顔を向け、あいかわらずボソボソとした発音の英語で、けれど、強い口調で彼は言う。

ずっとこうだ。批判、批判。その繰り返し。だから、あなたたちがやってきたダイアログは、とても素晴らしいと思う。

そう言って、彼は私を力強い眼差しで見た。予測していた通りだった。彼の苛立ちに頷いたあと、しばらくして、私も引っかかっていたことを話してみた。

この会議は、私たちにとっても少し奇妙に思える。核兵器原子力発電が同じように語られているでしょう。日本では、核兵器原子力発電は別々のものと考えられているから。

私のこの言葉を聞いて、スティーブは、信じられない、と言った様子で、驚いた表情をして、逆に私に尋ね返した。

なぜ?

そんなことがあるはずがないじゃないか、という調子の返事に、そう言われてみれば、日本では繰り返しそう聞かされてきているから、そういうものだと思っているけれど、そういう文脈を共有していない文化の人には、理解しがたい論理なのかもしれない、と思いつつ、説明を試みた。

日本には原爆が投下されているから、原子力の利用は平和利用に限定しないと、受け入れられない。政治的な理由です。

伝わったのかどうかはわからないけれど、スティーブは釈然としない表情を浮かべたままだった。日本には、原子力発電所で使用済みの核燃料から生成される核兵器の原料ともなるプルトニウムが溜まっており、それが核兵器開発に転用されるのではないかとしばしばアメリカや国際機関から指摘されているが、なるほど、日本が核兵器開発をどれほど否定しようとも、こうした感覚なら信用されないのもやむを得ないのかもしれない、と思った。

あいかわらず冷房の効きすぎた会場に入ると、すぐに着物姿の私のまわりには人が集まってきた。一緒にボニーの車に乗った車椅子の女性が声をかけてきた。まぁ、とても素晴らしいわ、着物を見たのは初めてよ。周囲の女性たちも、口ぐちに、素敵ね、美しいわ、と私を見ながらおしゃべりをやめない。これだけ喜んでもらえるのなら、着てきた甲斐があった。

だが、ひとたび会議が始めれば、昨夜のレセプションと代わり映えのしない光景が展開されることになる。ICRPの科学秘書官であるクリス・クレメントがICRP放射線防護政策についての発表を行なえば、質疑応答の時間は、昨夜のレセプションでのOECD/NEAのマグウッドの時と同じように、批判者達がマイクの前に列をなし、言いたい放題自分の主張だけを一方的に演説して行く。マグウッドの時と違うのは、クリスは表情ひとつ変えないで、その様子を冷静に眺めていたことだ。これは彼の性格がタフなのか、あるいは、激しい批判にされされているのに慣れているからなのか、その双方なのかはわからない。そして、もうひとつ昨夜と違ったのは、丹羽先生も長蛇のマイクの列に並んで、討論会に参戦したことだ。

おまえらは簡単に線を引けばいいと言うが、よし、いいだろう。50でも100でも線を引いてみろ。その上と下で世界は、黒と白ではっきり分かれてしまう。そんなことになったら、社会は分断されてどうしようもなくなるぞ。オレは反対だ。社会を分断させないためには、LNTを使ってグレーゾーンを作っておくのがマシだ。

英語で、孤軍奮闘、そう敢然と主張するが、会場は聞いているのかいないのかわからない。マイクの列はあいかわらず途切れなく、司会が静止して、ようやく演説会は終了した。会場の人びとには、黒と白とで分断された世界の息苦しさは想像がつかないのだろう。これだけ政治的、経済的に社会が分断されて、その混迷を身を以て味わっているアメリカであるのに、基準によって社会が分断されることの苦しさには想像が及ばない。得てして、人間とはそう言うものだ。経験したことしか想像できないし、想像の及ぶ範囲でしか理解することはできない。その制約から逃れられる人はいないが、自分の認識の限界を知り、制約を超えたいと願うものだけが、わずかに認識の檻の向こう側の世界を垣間見ることができる。

高揚とも騒然ともつかない雰囲気のまま、私の発表のセッションが始まった。壇上にのぼって、テーブルに腰掛ける。同じテーブルに、セッションの司会のオーストラリアのトニー・フッカー、それから同じセッションでの発表者のジャック・ロシャールともう一人のロシア人女性が座る。トニー・フッカーが私を紹介する。海のものとも山のものともつかない着物姿の私をどう見ているのかわからないが、これまでの様子から考えて、私の発表内容が理解されることは、ほとんどないだろう。スティーブを除いて。着物も着てきたし、この発表はスティーブに聞かせるためだけのものだと思えばいい。トニーに促されて、マイクの前に立った。

用意してきた英語の原稿を読みはじめる。会場の様子はと言うと、黙って静かに聞いている。ただ、興味深いと言う様子でもない。かといって、マグウッドやクリスの発表の時のように敵対的と言う訳でもない。さすがに、被災地からやってきた研究者でもないゲストに対しては非礼な態度を取らない程度のマナーはあるようだ。研究者の集まりで私が話すと、こうした雰囲気はよくあることなのだが、何を話しているのかがそもそもよくわからない、と言った怪訝な反応だ。それを感じながら発表を続けた。友人の翻訳は素晴らしいので、英語そのものは問題ない。問題だったのは、私の用意が足りなかったことだ。つまり、読み上げるスピードが思っていた以上に遅くなってしまい、時間が足りなくなってきたのだった。時間が押してくるにつれて、司会のトニーがチラチラとこちらに視線を送ってくる。そして、予定されていた20分を超過。トニーがイライラし始めているのが伝わってくる。温厚な表情は崩さないものの眉間に皺を寄せている。内心、焦りながら、気持ち読み上げるスピードを上げてみたが、そう大きくは変わらない。30分ほどすぎたところで、トニーから無常の静止が入る。次のセンテンスで終わりね。残念ながら、いちばん最後の、下書きを読んでジャックが涙を流したのだろう箇所までは読み上げられなかった。

セッションの全員の発表が終わったあと、クリスの時とは対照的に、会場からはほとんどまったく質問が出なかった。関心を持たなかった人と、どう考えればいいのかわからなかった人が半々と言ったところだろうか。やれやれ、と思いながら、セッションが終わったあと、会場の最後尾で撮影をしていたスティーブの前を通りがかると、彼は、私をまっすぐに見つめて、一言、素晴らしかった、と言った。そして、両手を大きく広げ、少しためらったあと、力を込めてぎゅっとハグした。まるで、中学生の男の子が初恋の女の子を生まれて始めてハグするかのような、ぎこちないハグで、私は、こんなにも不器用で、そして思いのこもったハグをされたのは生まれて初めてだと思った。彼は、ハグを終えた後も、本当に素晴らしかった、と繰り返して、私を見つめた。私は胸がいっぱいになって、ああ、このためだけでも、来てよかった、と思った。

私の発表内容は以下の通りだ。(最期のパラグラフが発表時間が足りなかった部分。アメリカ向けに特別に考えたので、読み上げられなくて、大変残念だった。)

みなさん、こんにちは。私は、安東量子といいます。福島県いわき市東京電力福島第一原子力発電所の南にある街から来ました。事故が起きるまで、私は原子力発電所に対して興味をもったことはありませんでした。放射線放射能についての知識も、ほとんどありませんでした。ただひとつだけ、私は広島で生まれ、18歳までそこで育ちました。子供の頃からずっと聞いていた被爆者の話、原爆ん話で、少しだけ放射能に対する知識はあったかもしれません。原爆で多くの人が死んだけれど、その後、ずっと長く元気に暮らしているお年寄りもいる。私が知っていたのは、それくらいです。
放射能についても、原発についても、原発事故が起きた後に、勉強しました。本当に自分が福島で暮らして大丈夫なのか、どれくらいの地域が大丈夫なのか、大丈夫でないのか、知る必要があったからです。事故から7年半が経過しました。当初危惧されていたより、福島での放射線の被曝量は少ないことがわかり、食品の放射性物質のコントロールもうまくいっています。これはとてもよいニュースでしたが、一方で、こうしたデータが出揃った後も、人々の間の懸念は払拭されたとは言い難く、放射線を巡る議論は今も混迷を深めています。
今日は、原発事故の後に起きた科学をめぐる混乱と、そこから回復するための信頼について話したいと思います。
まず、原発事故が起きた2011年3月の放射線量と避難指示の地図です。
2017年4月に、赤い帰還困難区域を除いて避難指示はほとんど解除されました。現在は、この状態です。
さて、原発事故が起きた当時の社会状況を振り返ってみます。
社会的に大きな問題となったのは、政府や科学者に対する不信感が急速に広まったことです。これには原因がいくつかあります。
ひとつめに、原発事故が起きたこと、これが最大の原因になりました。日本では、チェルノブイリ事故が起きた後も、日本では原発事故が起きることはない、と政府も専門家も繰り返していました。日本では原発事故は起きない、と言っていたのに、起きるはずのない事故が起きた、このことがまず政府と専門家への信頼を失墜させました。
ふたつめに、事故が起きた直後に、説明が二転三転したことです。事故が起きて、原子炉の状況がわからない中で、テレビなどに出た専門家は、楽観的な見込みを伝えました。しかし、その予測を裏切って状況は悪化していたことが後からわかるということが何度か起き、専門家のいうことは信用できない、という論調は強まりました。
状況が少し落ち着いてきた後も、政府と専門家の混乱は続きました。日本では、4月が新学期になります。学校をはじめるにあたっての放射線量の基準を日本政府は、3.8μSv/h と定めました。ところが、5月になって、政府のアドバイザーを務めていた放射線の専門家が、その基準は高すぎると記者会見をして抗議の辞任をするという出来事がありました。この出来事によって、政府と専門家に対して懐疑的に思っていた多くの国民にとって、その疑念は確信に変わりました。政府は嘘をついて、国民を騙そうとしていたのだ、多くの人がそう思いました。
そうした政府への不信が強まる中、2012年4月に、食品基準値の見直しが行われました。事故直後に定められていた暫定の食品基準値は、ほとんどの食品で500Bq/ kg と定められていました。しかし、政府と専門家への不信が強まるなかで、この基準に対しても高すぎるとの強い批判が向けられていました。政府は、その国民圧力に負けて、基準を100Bq/kg へと変更しました。この基準の引き下げによって、表面上、抗議は少なくなりましたが、一方で、政府はやはり危険なものを安全だと言っていたのだ、という不信を証拠立てる結果をももたらしました。
これらの政府や専門家への不信が強まったことの共通点をあげると、主張していたことが、国民の納得できる説明もなしに、途中で変わってしまったということです。基準に対する批判も多くありましたが、それを決定的な不信に変えてしまったのは、ころころ変わる説明であったのだと思います。
さて、こうした状況のなかで、私たちは2012年から、いわき市末続地区というところで、住民と一緒に放射線の測定活動を行なってきました。末続地区は、東京電力福島第一原子力発電所から27kmになります。避難指示の出た20kmの同心円に近接し、4月21日までの一ヶ月間は屋内退避区域に指定されました。ほとんどすべての住民は、その間、他の場所へ避難しました。
事故から7年が経過して、現在末続地区の聞き取りを行っています。原発事故の後には、多くの情報があふれました。しかし、これらの話からわかるのは、足りなかった情報もあったということです。それは、自分たちの暮らしに即した情報、身近な放射線の情報、信頼できる人からの情報であったと言えると思います。
2012年から末続地区では放射線の測定を行ってきました。この測定活動は、「生活に即した情報」「身近な放射線の情報」「信頼できる人の情報」を提供する活動でした。
これは、地域の中の活動を通して、失われた信頼を回復していくための活動でもありました。
住民にとって失われた信頼とは、どのようなものであったのでしょうか。
一つ目には、生活環境への信頼です。みなさんは、自分の生活環境を信頼していますか? この問いは、普通に生活していく上では、意識することさえないでしょう。奇妙に思えるかもしれません。ですが、誰もが意識することなく、暗黙に了解している感覚です。自分の生活環境が、暮らしていける程度には安全であるという生活環境に対する信頼があるからこそ、誰しもストレスなく安心して暮らしていけます。原発事故の後は、この生活環境への信頼が失われました。身近な環境の中に、どの程度危険かわからない場所があるというのは、非常に暮らしにくいものです。どこがどの程度危険であり、安全であるのか、予測可能なほど把握できて、ようやく落ち着いた暮らしは取り戻せます。
ふたつめに、人間関係に対する信頼が失われました。もっと大きく言えば、社会に対する信頼と言っていいかもしれません。生活環境をどの程度信頼できるかを巡っての共通認識がないため、隣り合って生活する人どうしで、諍いが起きました。同じ家の中で暮らす家族のなかでも同様でした。特に、高齢者と子供を持つ世代での差は大きく、このことが世帯の分離にもつながりました。毎日顔をあわせる家族や友人とのコミュニケーションが取れなくなることは、測定データにはあらわれませんが、もっとも大きな原発事故の影響でした。
私たちが測定したのは、3つです。
1、 携帯型の個人積算線量計を用いた外部被曝
2、 WBCによる内部被曝測定、
3、 住民が持ち込む食品の測定
いずれも、末続地区としての取り組みになります。
外部被曝は、2014年からは地区内の住民の集団で測定を行いました。最大では、地区で120名の人が測定に参加しました。このグラフが測定結果になります。15名の測定結果です。一本ずつの折れ線グラフが一人ずつの測定結果です。上の赤い水平線は、年間追加被曝1mSvの目安のラインです。下の緑色の線は、自然放射線量の目安です。これをみると、末続地区内では追加年間被曝1mSvを大きく超える人はいないことはわかります。
内部被曝は、2013年7月から継続的に2016年秋まで測りました。内部被曝も、最大で、120名が測定に参加しました。外部被曝が行動を測るのだとすると、内部被曝は食生活を測ることになります。ホールボディカウンターでの測定結果は、ほとんどの人が測定限界である300Bq/Body 以下でした。
そして、食品測定は、2015年の2月から毎週火曜日に地区の集会所で行っています。持ち込まれる野菜などの食品は、ほぼすべてで日本の食品基準値である100Bq/kg 以下です。キノコや山菜などで、しばしばこれを超えることがあるだけです。
さて、末続地区の測定結果を見て、みなさんはどう思われたでしょうか。「この程度なら健康にはまったく影響ないから問題ない」、あるいは、「気にする方がおかしい」そう思われたかもしれません。ですが、そこで暮らす人にとっては、問題はあるのです。専門家の人たちと住民の感覚の大きな差がここにあります。この差は、大抵の場合、住民からの専門家に対する強い不信へと結びつきました。理由を説明します。
確かに、健康に影響が出るようなレベルの測定結果ではありません。しかし、原発事故は起きて、住民の生活は大きな影響を受けました。多くはないにせよ、事故前にはなかった放射能は身近なところに存在し続けます。そのことによる日常生活における不便も残り続けます。
先ほど紹介した外部被曝の測定グラフを見てください。下の緑の線は、自然放射線の目安です。わずかではありますが、間違いなく、事故前に比べて上乗せはされているのです。そして、原発事故の影響を受けなかった他の地域は、上乗せされていません。確かに、タバコの害に比べれば少ないかもしれない。CTスキャンよりも少ないですし、野菜不足のリスクの方が高いかもしれない。けれど、それは事故が起きても起きなくてもあるリスクと、事故によって自分たちにだけリスクが上乗せされ、そして、事故にともなって受けた大きな影響を被らざるを得なかったという事実は変わりません。誰も望んだわけではない、なにひとつメリットのないリスクが上乗せされた事実には変わりはないのです。これは「不公平」な状況です。
そこで、こう言われるとどう思うでしょう。「健康に影響はないので、問題はありません」「気にする必要はありません」もしくは「健康に影響がないのに、気にする方がおかしいのです」
確かに健康への影響は小さなものかもしれません。けれど、不公平な状況に置かれた住民にしてみれば、その不公平さをそのまま受け入れろ、と言われているように聞こえてしまいます。結果として、住民は不信 を強めます。専門家は、自分たちの大変さをわかってくれない。わかろうとしてくれない。
末続の測定には、同じ専門家がずっと関わり続けてくれています。福島県立医科大学の宮崎真先生です。今日、ここにきているジャック・ロシャール氏もそうです。彼らは、末続になんども足を運び、まず、住民の声に耳を傾けました。何に困っているのか、何を心配しているのか、何が問題なのか。住民のおかれた不公平な状況を知った上で、実際の測定結果に基づいて専門的な助言をしてくれました。住民の信頼度も満足度もとても高く、彼らに対しては大きな信頼感を持っています。彼らは実際に来てくれた、そして住民のおかれた不公平な状況を知った上で助言をしてくれたからです。
不公平だと言っても、福島では除染が大規模に行われましたが、それでも、事故前と同じレベルに戻るには、長い時間がかかるでしょう。私たちは、今も食品測定は続けています。放射線をしっかりモニタリングし、希望するならば測定ができ、助言を受けられる態勢を保ち続けることは、不公平な状況に置かれた住民にとっては公平な扱いだと思うからです。この不公平さをすぐに解消することはできないならば、どうすれば公平に近い状態に近づけられるのか、その一つが身近な環境での測定態勢なのです。
原発事故の後の末続での測定は、社会の公平さが崩れてしまった中で、社会における公平とはどのように生み出しうるのかを問い直す試みであったと思います。
そして、公平さを保つためには、信頼関係を構築することがなにより大切なことであると言えるのではないでしょうか。
2016年5月、当時のアメリカ大統領バラク・オバマ氏が、私の故郷である広島を、アメリカ大統領として初めて訪問しました。広島の人々にとっては、待ち望んだ出来事でした。多くの人々は、オバマ大統領の訪問を心から歓迎しました。広島の人々は、原爆の投下について謝って欲しかったわけではありません。昔は怒りもあったかもしれませんが、投下から70年の時を経て、ただ知って欲しかったのです。原爆投下によって失われたのは、そこにあった普通の暮らしであったことを。そこには、生きていたのは、同じ人間であるということを。オバマ氏は足を運び、そう言いました。原爆が奪ったのは、同じ人間の命であり、暮らしである。原発事故の影響を受けた地域の人たちも同じです。自分たちの暮らしを、他の地域と同じものとして扱ってほしい、他の地域の人たちと同じように扱ってほしい。
皆さんも、ぜひ福島を訪れてください。福島でできるのは放射線の測定だけではありません。私たちの社会が、どのように公平さを実現すべきなのか、考えるヒントがたくさんあります。よりよい社会を築くために、科学は生活とどのように向き合うべきなのか、貴重な得難い話がたくさんあります。私たちは、皆さんが福島を訪れ、人々と語り合うことを、心からお待ちしています。