パンデミック雑感9 アジテーションの世代

毎朝、日課のニュースチェックをしていて、まだ眠気の抜けないぼんやりした頭に、やにわに鳩が豆鉄砲くらったような風情で、珈琲を飲み直し、なにか読み間違えをしたのではないかと思い、読み返してしまった。

(寄稿)人文知を軽んじた失政 新型コロナ 藤原辰史:朝日新聞デジタル ワクチンと薬だけでは、パンデミックを耐えられない。言葉がなければ、激流の中で自分を保てない。言葉と思考が勁(つよ)ければwww.asahi.com

驚いた理由のひとつは、あまりにも直球のアジテーション文章だったからだ。時代を数十年(もしかすると半世紀かもしれない)ほど巻き戻したのではないかと思うほどの時代錯誤感さえ漂う文章を、まさかこの時代に目にするとは思わなかった。(それが紙面に載っていることにも。)
そして、もうひとつ、筆者の生年が私と同い年、いわゆるロスジェネ世代であること。たまたま社会に出る時期が不景気であったというだけで、ずっと不遇を託ってきたロスジェネ世代の少なからぬ人間が抱いているであろう恨み節が憑依して激している感があり、ああ、この時代、このタイミングで、この感情をこんな風に炸裂させる文章を書く人が出てきて、そして、それが支持を得るのだ、ということに対して、驚きを覚えたのだった。

ただ、そこには、なんの新しみもない。あるのは、時代錯誤感とこれまでの鬱屈した感情の炸裂だ。原発事故のあと、過去の核災害のことを知れば知るほど、福島事故は、そのあとの対応を含めて、過去の核災害の二番煎じ三番煎じのパロディを繰り返して来たのだとの感を強めていた。神の目で見ることが可能であるならば、滑稽な喜劇でしかないだろう。なにもかにもが、本歌からは劣化した二番煎じであるにもかかわらず、演者の誰もがそれに気づきもしていない。私もその劣化したパロディの演者の一人だ。誰よりも真剣に演じ、それゆえに滑稽でしかない道化のひとりだ。

この文章を読んで感じたのは、同じ感慨だ。かつて存在し、演じ尽くされたなにかの二番煎じ、三番煎じに過ぎず、当事者はどこまでも真剣であるが、滑稽さが拭えない。いや、真剣であるがゆえに、それは滑稽なのだ。ただ神のいないこの時代に、その滑稽さに気づく存在もない。私たちはどこまでも、それを初演だと信じて演じ続ける。その滑稽さが、実に私たちロスジェネ世代らしい。結局、私たちの世代は、明るい未来を夢見ることがゆるされた、戦後臭が残る子供時代の尾を捨て去ることができないのかもしれない。時代錯誤の感覚を捨て去ることのできないまま、自分たちが受けた処遇に対する怨念を、時代への呪詛として吐き出すことが、私たちの世代にゆるされた社会へ受け入れられる言葉なのだとすると、それは私たちの世代の惨めさをいや増しにするだけなのではないか。パンデミックのもたらした作用としてこの先もこれが残り続けるのなら、パンデミック後の社会もなにかの二番煎じ、三番煎じを繰り返すだけなのかもしれない。そんな風に感じたのだった。