スティーブ&ボニー (6)

翌朝、起きてキッチンにあがると、ボニーが窓の脇に置かれた小さな二人がけのテーブルの椅子に腰掛けて、編み物をしていた。編み棒を操って編み物をしている人を見るなんて、いったいいつぶりだろう。高校の時以来かもしれない。私を見ると、編み物から目を上げて、疲れはとれた?とゆったりと私に声をかける。ワシントン州と日本の時差は16時間、時間を巻き戻すことになる。日本からアメリカの西海岸への飛行機のフライトは8時間程度。日付をまたぐフライトのあと2時間ほどの国内線移動した場所での時差の調整は難しかったようで、夜はなかなか寝付けず、夜中の変な時間に目が覚めて、あまりよく眠れなかった。ただ、気を遣わせるのも悪い気がして、よく眠れました、とぼんやりした頭のまま返事をする。外は明るい。今日もお天気はよいようだ。もう片方の空いている椅子に座るように私に言って、なにか食べる?と言って朝食を用意してくれた。夫婦二人の時は、このテーブルに座って食事を取っているのだろう。新聞を読む?と差し出してくれた Tri-City Herald の一面には、高リスクの放射性廃棄物が保管されているハンフォードのトンネルを埋める工事が始まる、と見出しがトップだ。興味をそそられて記事を追っていくと、ハンフォードサイトの核廃棄物が保管されているトンネルの一部が崩落する危険があり、降雪などの悪天候によって崩落が進む危険がある冬までに工事をある程度進める必要があり、その工事が来週に始まると書かれていた。そういえば、ハンフォード・サイトには核廃棄物が大量に残されていたはずだけれど、今その状況はどうなっているんだろうか、と思って手元のiPhoneで調べて見る。ハンフォードの核開発は1970年には終了し、原子炉もとっくに稼働停止している。だが、大量の核廃棄物と敷地周辺の汚染が確認されていて、稼働停止後はクリーンアップ事業が行われているとのことだった。その事業は遅れに遅れており、遅延は当初の予定よりも数十年以上に及び、完了の目処は立っていないと書かれていた。膨大な核廃棄物の処分という事業そのものの困難さもあるのかもしれないが、どうやら連邦政府からの予算がなかなかつかないことにも大きな原因があるようだ。作るときには熱意を傾けるのに、その後始末はずいぶんと薄情なものなんだな、と思いながら、ボニーの作ってくれた朝食を食べた。

記事を読み終えて、窓の外を眺めると、庭の大きな木の幹をすばやく駆け上がる動物が見える。じっと見ていると、また動く。リスだ。私が目を輝かせて見ていると、向かいの椅子に座ったボニーが、なに?と尋ねるようにこちらを見る。リスって英語でなんて言うんだっけ。指差して示すと、ああ、スクゥイール。いつも来るのよ。そうか、リスはスクゥイールか。スクゥイール、と繰り返して、かわいいですね、と言う。ボニーは黙って微笑むと、また編み物を始めた。昨夜からの様子を見ていて、この夫婦はどうやらほとんど会話をしないらしいことに気づいた。仲が悪いというわけではないから、二人とも口数がとても少ないみたいだ。そういえば、家の中にいても、二人の会話らしい声はほとんど聞こえてこない。それなら、私も無理をして会話をしなくていい。アメリカ暮らしの長い友人知人からは、アメリカではとにかくテンションを上げていかないと社会生活が送れないと聞いていた。ホームステイ先でも、機関銃のような早口のアメリカ英語で話しかけられ続けたらどうしよう、と心配していたから、これなら私も無口な日本人のままでいても大丈夫そうだ。

外を眺めていると、スティーブが裸足で外から帰って来た。私の姿を見て、おはよう、と声をかけて、ボニーに、少し文句を言うようになにか話している。私に食事を出してあげなきゃと言っているようだ。ボニーがもう終わったわよ、と言い返すと、ああそれは悪かった、というように片手を顔に当てた。お昼前に、友人たちと待ち合わせをしてるから、お昼ご飯を持ってピクニックに出かける。あなたの友人も一緒だ、と言う。私の友人? と尋ねると、ドクター・ニワ、だという。あら、丹羽先生。

丹羽先生は、福島で原発事故が起きたときのICRPのメンバーで、ダイアログの発起人の一人だった。その後、ICRPを退任し、広島にある放射線影響研究所の理事長になって福島から離れていたが、今回の会議に同席することになっていたのは知っていたので、私が雛人形になって座っている予定のパネル・ディスカッションでどうしても発言しなくてはならない時には、通訳を手伝ってくれるようにお願いしていた。放射線影響研究所は、原爆投下後、アメリカが広島・長崎の被爆者への健康影響を調査するために設立した研究所であるABCCが前身だ。その後、日本側も運営に参加することとなり、今は日米共同の研究所となっているが、その調査によって、LNT仮説の元となる被曝の健康影響のデータが集められることになった。放影研の前身のABCCの調査に対しては、調査をすれども治療はせず、人体実験だ、と言う批判が根深くあり、被爆者からも長い間不信を抱かれていた。放影研の理事長に就任した丹羽先生は、そのこと、とりわけ被爆者から不信を抱かれていることに強い懸念を抱いていた。原発事故後の福島に移り住んだ彼は、地元の住民と同じ暮らしを送り、研究者が行う研究や調査が、人びとをしばしば深く傷つけてしまうことに気づいたのだった。大抵の場合、研究者が悪意を持っているわけではないし、冷酷なわけでもない。彼らは、彼らが信じる適切な研究調査の手法に則って調査を行っただけだ。ただ、研究の手法を、生きた人間、感情も生活もあり、なによりその出来事によって大きく人生を狂わされてしまった人びとに対してそのまま適用して調査することは、多くの人びとの生活感からは乖離しているし、尊厳をさえ損なってしまうものだった。そのことに気づいた丹羽先生は、放影研被爆者の間に残る根深い不信に対して、対応をする必要を強く感じていたのだった。丹羽先生は、私が知る、途中で考え方を変えることのできた数少ない研究者の一人だった。だが、被爆者はとっくに高齢化しており、すでに亡�� �なった人の方が多い。残された時間はほとんどない。放影研の理事長就任から間もない2017年6月、放影研の70周年の設立式典の席で、放影研の理事長が過去のABCCの調査について被爆者に謝罪したと報じられた。それが被爆者にどう受け取られたのかはわからない。きっと遅すぎたと思われただろう。ただ、わずかな数でも被爆者が存命のうちに謝罪できたのはせめてもの慰めなのではないかと、私は思っていた。対象のいなくなってしまった謝罪ほど虚しいものはないから。ハンフォードの核開発に直接従事した人がいまも残っているかは別として、ここは、その被爆者の上に落とされた原爆が生まれた場所だ。そこに、被爆者の健康を追跡調査し続けている放影研の理事長が来て、ハンフォードの遺産を受け継ぐ人たちと一緒の時間を過ごすというのは、奇妙な光景である気がした。

外に車を止める音がして、人の話し声がする。出かける用意をして、玄関から出ると、車が二台とまっている。それぞれの車のそばに高齢の男女のカップルが二組。スティーブと同じくらいの世代に見える。裸足のスティーブが出て来て、手をあげて私を紹介する。初めまして。彼らは、ヤスヒロを呼ぼう、ヤスヒロだ。と話している。私があまり英語の会話がうまくできないので、彼らの友人の日本人を呼ぼうと思い立ったらしい。あいにくと、ヤスヒロとは連絡がつかず、私たちはそのまま出かけることになった。途中で丹羽先生をピックアップするから、それから、サンドウィッチを買って砂漠へ出かけよう。スティーブが裸足のまま車に乗り込んだ。私は、助手席に乗った。ボニーは後部座席へ。ボニーのカバンの中には途中の編み物セット一式が入れられていて、車に乗り込むとまた編み物をはじめた。発進させようとした時に、スティーブは舌打ちして家に飛び込むと靴を片手に持って戻って来た。遠出をする時には、靴は持って行くようだ。だが、家の鍵を閉めない。網戸のまま開けっ放しだ。私は心配で扉をじっと目を丸くして見つめていたけれど、スティーブもボニーも気にする様子はなく、鍵はかけられないまま出発してしまった。

途中で、丹羽先生を乗せると、車は小さなお店が数軒たっているショッピングセンターに入った。ここでサンドウィッチを買っていこう。日本の感覚でいえば、二人前に相当するようなサイズだ。丹羽先生と半分ずつわけることにした。せっかくだから、日本人は一台ずつ別の車に乗って、会話が楽しめるようにしよう。リョウコは、こっち。促されて乗り込んだ別の車の夫婦にあらためて自己紹介する。大きな乗用車はきれいに片付いていて、埃だらけのスティーブの車とは大違いだ。運転しているのは、がっちりとした体格の白髪の男性。これぞアメリカ人、というイメージ通りで、なにかというと冗談を付け加えて、快活に笑う。彼は、アランだ、と名乗った。スティーブとは違ってとてもきれいな英語で、私にも聞き取りやすい。でも、アランってどこかで聞いた名前…、元原子力学会長のLNT仮説を論破したい人だ! まさか、ピクニックまでご一緒する羽目になるなんて。いくら無口とはいえ、スティーブも一言くらい教えてくれればいいのに。素知らぬ顔で挨拶を返しながら、私は内心ドキドキしながらシートベルトを締めた。