スティーブ&ボニー (16) 風邪のスープ

ひとしきり話したところで、私の身体の冷えも限界に近づいてきた。折よく、ジャックはこれから打ち合わせがあるのだという。ジャックと別れて、私はボニーを探した。外に出て身体をあたためる甲羅干し作戦も、残念ながら変温動物ではない私にとってはあまり効果的ではなかったようで、身体がだるくなってきていた。体温の調整機能がおかしくなってしまいそうだ。ボニーに頼んで、家に連れて帰ってもらおう。そして、部屋のベッドに入って休むのだ。ロビーにいたボニーを見つけて声をかける。私、家に帰った方がいいと思うの。ひとことそう言っただけで、ボニーはすべておみとおし、合点承知といった表情をして、歩きはじめた。でも、すぐに立ち止まり、ちょっと待ってね、知り合いに声をかけてくるから。そう言って数分ほどして戻ってきたボニーは、友達も一緒に乗せてってと言ってるから、彼女たちを待って帰りましょう、という。待つこと15分ほど。その間も私は寒いやら身体がだるいやらで、すぐにでも立ち去りたくてたまらなかったのだけれど、あと少しの辛抱だと思ってこらえていた。

ようやくやってきたボニーの友人たち3名と一緒に、車に乗り込む。ヤスヒロさんのパートナーの車椅子の女性もいる。あとは、ボニーと同世代と、それよりもう少し若い世代の女性がひとりずつ。車のなかで彼女たちは絶え間なくお喋りしている。私は、午後の時差ボケがひどくなる時間に差しかかり、身体の冷えとあいまって、彼女たちの会話にほとんど耳を傾けず、ぼーっとしていた。突然、助手席に座っていたヤスヒロさんのパートナーの女性が後部座席の私を振り向いて、尋ねてきた。リョーコ、ボニーとスティーブの家はどう? 急に話をふられて慌てて、とてもよくしてもらって、快適に過ごしています、と返す。車内の視線が一斉に私に向けられた。ところで、この街の印象はどうかしら? ゆっくりとそう口にして、私を見つめる眼差しは、みんな興味津々といった風情できらきら輝いている。まるで好奇心いっぱいの小学生の女の子たちに見つめられているみたいだ。ここで迂闊なことを言って、悲しませてはいけない。少ないボキャブラリーの中から必死に単語を探して答える。なにもかにも日本とは違いますね。こんなに広大でのびやかな景色は日本では見ることができないです。町も落ち着いていて快適で、気候もいいですし、素敵なところですね。私の答えを聞いた彼女たちは、顔を見合わせて黙って頷きあっている。そうだわ。そのとおりだわ。私たちの町は、日本から来た客人にとっても素敵なところなんだわ。まるでそんなふうに無言で確認し合っているようだ。自分の返答が彼女たちの意に沿っていたようで、私はほっとした。きっと彼女たちは、外国からの客人と会話する機会がほとんどないのだろう。外部の眼差しから自分達の暮らしがどう思われるのかを聞いた経験があまりなく、聞いてみたくてたまらなかったのだろう。日本の田舎の人たちと同じだな。ヤスヒロさんのパートナーの女性は満足した様子で、今度は、日本は、福島はどんなところ? と尋ねた。車内の視線がまた一斉に私に向け�� �れる。私は、どう説明したものか少し迷った。もちろんボキャブラリーの問題もあったけれど、地平線のはるか向こうから日が昇り、沈み、なにひとつ遮るもののないただっ広い空と、どこまでも乾いた大地に囲まれるこの場所で暮らす人に、日本の、よく言えば湿潤できめ細やかな、悪く言えば黴臭くせせっこましい地形と暮らしぶりを言葉だけで伝えることは、とてつもなく難しいように思えたからだった。私たちの国は、あなたたちの国からたくさんのことを学んで、経済的にはいまはとても豊かです。ただ、家も小さいですし、土地も広くないから、こことはだいぶ違いますね。それから、雨も多いですし、緑も豊かです。なんとかそれだけを伝えると、彼女たちは、まぁ、そうなのね。と先ほどと同じように満足したように頷いた。そして、日本のことはテレビで見たことがあるわ。東京は今はすごい都会よ、ここよりもずっと。技術も発展してるわ。と口々に話しはじめた。今度は私が頷いて、その話に相槌をうった。

ボニーの家の近くで彼女たちと別れ、家にたどり着くと、そのまま部屋に入って、ベッドで一息つくことにした。冷房も酷いし、お昼ご飯もほとんど食べられなかったし、明日もあの会場に行かなくてはいけないのかと思うと気が重い。気温調整に用、日本からはストールも二枚持ってきていたので、それを厳重に使うしかなさそうだ。

ひとやすみして、夕方、キッチンにあがると、ボニーが声をかけてくれた。○○○を飲む? ○○○がわからなくて、?という顔をしていると、ボニーが、笑いながら説明してくれた。うちでは「風邪の時のスープ」と呼んでいるんだけれど、ショウガをたっぷり効かせたスープを作ったの。昔から、家族が風邪を引いたときにはこれを作って食べるの。身体が冷え切ったこの時の私にこれほどありがたいスープはない。思わずボニーに抱きつきそうになりながら、力を込めて頷く。とっても飲みたい! ちょっと待っていてね、用意するから。少しして運んできたスープは、ショウガがきいたコンソメ味で、なかには、セロリ、ニンジンやベーコン、ジャガイモが細かく切って入れてある。一種類、ジャガイモと同じような色をした千切りにした歯ごたえのある食材の種類がわからなくて、ボニーに尋ねた。これはなに? ボニーは、バンブーシュートよ、と言う。タケノコ! アメリカの家庭でタケノコを食べるとは思わなかった。そういえば、初めての日の夕食のとき、スティィーブは毎夕食後、近所のスーパーで買った「マンジュウ」を食べると言って、持ってきてくれた。そのManzyu は台湾製で、日本の饅頭とは厳密には違っていた。皮の部分は求肥のような素材で、なかのあんこは小豆に似せてある別の食材であるように思えた。外国では和菓子は好き嫌いがあると聞いて、ずいぶんと迷って日本からのお土産にするのは止めたのだったけれど、これなら、日本の飛びきりのお饅頭をお土産に持ってきてあげればよかった、と心から後悔したのだった。タケノコも、Manzyuとおなじく近所のスーパーで買えるのだそうだ。「風邪のスープ」は家庭の味らしいシンプルなおいしさで、お代わりもして身体もすっかりあたたまった。

ティーブはその日は夜遅く帰り、次の日も朝早く出ていったようだった。体調もよくないので、私は、次の日の午前中は家にいて、午後から出かけることにした。どうせ発表の内容はおもしろくもなさそうだし、自分の発表の原稿の確認もしなくてはいけなかった。そういえば、ジャックが事前に原稿のチェックをしてあげるよ、と言っていた。午後から会場に出かけるときには、パソコンを持っていくことにした。今夜は、レセプションがあるから、夕飯はそこで食べることになっている。出かける前に、昨夜の「風邪のスープ」の残りをたっぷり食べてから、可能な限りの服を着込んで出かけることにした。とは言っても、さすがに冬用の服は持ってきていないから、限界はあるのだけれど。

今日は、すこしは時差ボケが治ってきたのか、午後になってもそんなに眠くはならない。ボニーの運転してくれる車で会場について、ロビーのソファでジャックと打ち合わせることにした。私の発表は、いつも英語は友人に手伝ってもらっているのだけれど、今回は、会議自体気乗りしないせいもあって、ギリギリまで用意をしないものだから、英訳をしてくれる友人をすっかり困らせてしまっていた。なんとか期日ギリギリに英訳してもらった原稿とスライドを、ロビーのどっしりとした革張りのソファに腰掛けてジャックに見せた。今回の発表は日本の状況、特に原発事故後におきた社会的混乱についてはほとんど知らない専門家が聴衆のほとんどであろうことが予想できたので、その部分の説明を多くする発表内容になっていた。そもそも測定値やデータを並べる発表であるなら、私が呼ばれる必要はどこにもないのだから。そして、最後にはアメリカ人に向けてのメッセージが付け足してあった。

直していい?と確認をした後に、ジャックは、単語の修正を少しだけして、それから後は、黙って原稿を読んだ。そして、静かに、ひとすじ、ふたすじ、大きな目から涙を頬につたわせた。その後は、なにも言わないまま最後まで読み終えて、指で涙を拭って、これでいいと思う。直すところはない、と穏やかに言った。私は、彼の涙を見るのは何度目だろうと思いながら、彼を見つめていた。彼はいつもこんな風に、ここでそうするのがさも自然なことであるかというように、静かに涙を流すのだった。最初にそれを見たのは、彼がダイアログの司会をしていた時だったと思う。福島の地元の参加者の発表を聞いていた。震災後間もない時期、事故の衝撃もまだ覚めやらず、誰もが生々しい傷を抱えていた頃のその語りは、とても心揺さぶられる、聞いている会場の誰もの悲しみを誘う内容だった。私も涙をこらえられなかったことを覚えている。なんとか涙をこらえたいと思いながら、ふと、司会をしていたジャックに目をやると、彼も泣いていた。発表者をじっと見つめながら、今日と同じように、瞳から涙がこぼれるままに静かに頬につたわせていた。それを見た時に、私はひどく安堵してすくわれた気がした。当時既に震災から2年近くが経過していたが、その時期であっても、私はほとんど毎日のように泣いていた。些細なことをきっかけに、発作的にとめどなく涙が溢れてきて、嗚咽がとまらなくなるのだった。私をもっとも悩ませていたのは、なぜ自分が泣くのか、その原因が漠として掴めないことだった。身体の内側から嗚咽せずにはおれない衝迫がせき止められない強さで湧き上がってくるのに、なにがその衝迫をよびおこしているのか、自分では皆目わからなかったのだ。なぜ自分は悲しみ、苦しむのか。もちろん震災と原発事故が原因であることには違いないのだが、私は直接的な被災者というにはあまりに薄い被害しか受けていない。自分の受けている被害に見合わない慟哭の深さに、私はずっと戸惑っていた。だ�� �、ジャックの静かに涙する姿を見たとき初めて、自分の痛みに対してではなく他者の痛みに対しても泣いてもいいのだ、そして、そうするのは自然なことなのだ、と言ってもらえた気がした。それは、私にとっては大きなすくいだった。

2016年3月、私たちは、フランスからの訪問者の一団とともに富岡駅前にいた。富岡駅前は、地震津波の被害を受け、その後、警戒区域となり立入禁止となったが、2013年3月には「避難指示解除準備区域」となり、以降、居住は制限されるものの、立入は出来るようになっていた。私は、立入ができるようになった直後から、ときおり、富岡駅前を訪れるようにしていた。用事があったわけではないが、様子を見ておきたいとなぜだか思ったのだった。海に近い富岡駅前の放射線量は、当初から低かった。だが、人気はなく、ごくたまに報道関係者とおぼしき人とすれ違う程度だった。津波で駅舎は流され、むき出しのプラットフォームと損壊したままの鉄橋を眺め、地震津波で斜めに傾いた駅前の家屋を眺める。やがて、富岡町の他の地区では除染やインフラ再建、それにともなう焼却施設などの工事がはじまり、みるみるうちに町の光景は変わっていった。ところが、なぜか富岡駅前だけは変わらなかった。そこだけ時間から取り残されたかのように、保存された遺跡のように、地震津波によって損壊した光景をそのままに残していた。変化がないように見えながら、時間の経過とともにさらに建物の破損は進み、より斜めに傾いていった。私は、原型をとどめないほど変わっていく周囲の景色を見ながら富岡駅前に通ううちに、駅前の荒廃した街並みに愛着を覚えるようになっていた。それが唯一残された、震災前と記憶をつなぐよすがのように思えたのかもしれない。できれば、このまま変わらないでほしい、そう思うようにさえなっていた。

やがて、富岡駅前でも再開発工事がはじまった。私はその光景を見るのが怖くて、撤去工事がはじまったと聞いて以降は、足を運ばないようにしていた。だが、2016年3月、ダイアログセミナーの帰り道、フランスの来訪者たちが富岡駅前の様子を見たいというので、立ち寄ることになった。彼らも2015年に時間の止まったままの富岡駅前を訪れ、ひどく衝撃を受け、その後の様子を見たがったのだ。久しぶりに訪れた駅前は、がらんどうだった。常磐線再開のための軌道修正工事もはじまっていたため、レールも取り外され、駅がどこにあったのかさえわからなくなっていた。傾いていた建物はほとんどすべて跡形もなく解体、撤去され、元の配置や景色を思い起こすことさえ難しい、平らなだけの空間が広がっていた。予想はしていたものの、その風景を見て、私は激しく動揺した。堰を切ったように涙が溢れて、止まらなくなった。その涙の理由を説明するのは難しいが、時間を経て、さらに景色までが失われていくことが、どうしようもなく悲しかった。涙の止まらない自分を持て余して、少し離れた場所に行こうと歩きはじめたとき、向こうからジャックが歩いてきた。うっすらと目に涙を浮かべてあたりを見渡しながら、ゆっくりと歩いてくる。私たちは、向き合うように立った。私は、なにか言おうとしたけれど、言葉にならない。口を開こうとするたびに、涙が出てくる。最初は、私のたどたどしい英語を聞き取ろうとしていたジャックは、そのうちあきらめて、私の肩を抱いてハグした。私は、自分でも理由がわからない嗚咽を続けていた。あのときも、ジャックは静かに、ただ静かに、涙を流していた。

私にとって彼がどういう存在なのかを説明するのはとても難しいのだけれど、一言でいいあらわすとしたならば、私にとって彼は「人間」だ、ということになるだろうと思う。私にとってジャックは、誰よりも人間らしい人間だ。彼の表情を見ながら、私はそんなことを考えていた。