スティーブ&ボニー (3)

ティーブにメールを送ったものの、彼に理解してもらえるとは思っていなかった。概して、専門家はプライドが高い人が多く、理解を示してくれる人は最初から好意的だし、そうでない人はずっと否定的なままで、いくつかの例外を除くと途中で自分の見解を変える人には、ほとんどお目にかかったことがなかった。それでも、自分たちはもちろんデータを大切に思っているし、たくさんデータも取ってきたと、彼の要望するグラフを送り、もしかすると自分が広島出身であると伝えたら彼の気持ちになにか届くものがあるかもしれないと思ってそう伝え、なんとか相互理解の糸口がつかめないかと知恵を絞ったのは、もちろん自分の一週間に及ぶ滞在を居心地悪いものにしたくない、という一心からではあったけれど、もうひとつに私のコミュニケーション哲学みたいなものもあった。

原発事故のあとは、社会が大混乱に陥って、あらゆる関係のなかで意見が対立した。家族間でも、ご近所でも、職場でも、あらゆるところで人間関係が難しくなり、しばしば修復不可能なほどにいがみ合うことになった。そんななかで、もっとも大切であったのは、どのように人間関係を修復していくか、だった。わかりあうことは無理であるにしても、せめて険悪でない形でやり取りをすることができるようにならないか、それを考えながら、私はずっとやってきた。いろんな人と交流しながら気づいたのは、意見が違うことはしかたない、とまず受け入れること。その上で、なにかひとつでもいいから共有できるものを探すことだった。内容はなんだっていいけれど、その人が大切に思っているものをなにかひとつ、些細なものでも構わないからひとつ分かち合うことができれば、意見は対立したままであったとしても、互いの意見の違いを尊重したままで、関係をつなぐことはできる。こちらがあらかじめ相手を尊重する姿勢を示せば、ほとんど大抵の人は、話はしてくれる。こちらの意見に賛成するということではない。でも、話をしていくと、自分とあなたは違うけれど、あなたの言うことは言うことでわからなくはないし、そういう立場があることは理解する。それくらいのラインまで持っていくことは不可能でない。なにかわかちあうものがあれば、敵対することもない。そして、そうできればコミュニケーションとしては大成功なのだ。しょせん、人間はわかりあうことはできない。わかりあえないなかで、それぞれが穏やかに暮らし、言葉を交わすことができるようになればそれでいいのだ。

ティーブからは、翌日すぐに返事が届いた。驚いたことに、そこには、あなたのしていることはよく理解できた。自分は全面的に賛成する。ダイアログの試みは本当にすばらしい。これこそが自分たちにとって必要なことだ、と書いてある。私はキツネにつままれたような気分になった。ひとつ前のメールとは正反対といってもいいではないか。彼になにが起きたというのだろうか。訝しいどころではなく、私を担ごうとしているのではないか、と思えてきた。もしかすると、彼は、私がICRPのメンバーと仲がいいことをメールを送ってしまった後で思い出したのではないか、とさえ思った。ICRPという組織は、民間の国際団体ではあるのだけれど、その世界では権威があるとみなされている。私が彼らと親しくなったのは、福島事故の後の混乱の中で起きた偶然の珍事のようなことではあるのだけれど、権威ある団体の人たちと関係があるということで、まわりの人の態度が変わることが時折あったのだ。それは、それまで権威や肩書きとは無縁の世界で生きてきた私にとっては、不可思議な現象に思えたが、世の中一般ではよくあることのようではあった。

ティーブからのメールの最後には、自分は原子力技術者ではあるが、非人道的に人間を大量に殺傷するような兵器を使うことはまったく賛成しない、とこれだけは言っておかなくては、というかのようにきっぱりとした語調で添えられていた。

半信半疑の釈然としないきもちのまま、スティーブとはやりとりを続けたが、どうやら彼が態度を変えたのは本気のようだった。それまでとは打って変わったような熱意のある調子の文面でメールが送られて来るようになった。繰り返し、ダイアログの経験はすばらしい、あなたたちの活動に心からの敬意を送りたいと書いてある。会議に先立って、ハンフォード・サイトの見学ツアーが予定されていて、いまは見学地として整備されているリアクター(原子炉)のなかで、コーラスのコンサートもある。会議よりも数日前になるから、滞在期間が延びてしまうけれど、都合がつくのならぜひ、コンサートも見ていってほしい。うちに長く滞在するのは、まったく構わない。ボニーも賛成してくれている。そんなお誘いのメールまで届いた。ボニーというのが、彼の妻の名前のようだった。彼からのメールの差出人の署名は、いつも「スティーブ&ボニー」と記され、奥さんとの連名になっていた。なにはともあれ、彼の態度を豹変させた理由は、行ってみればわかるだろう。ご招待をありがたくお受けします、コンサートを楽しみにしています。そう伝えて、訪問の日を待つことにした。

主催からも断続的にプログラム内容の調整メールが送られてきていた。私が発表をするのは最初から決まっていた。だが、気がつくと、いつの間にかパネル・ディスカッションのパネリストにまで名前が加えられている。私は慌てた。私は英語がそんなに話せるわけではない。発表であるならば、英語のできる友人に翻訳を頼んであらかじめ用意しておいた原稿を読めばいい。ところが、パネル・ディスカッションではそうはいかない。主催には、そう伝えた。主催の元原子力学会長ことアランからきた返事には、あっはっは、そんなのなんとかなるさ、きっと君の日本からくる友人も手伝ってくれるさ、と言うものだった。彼は、まさかICRPの推薦してくる人間が英語が喋れないなんてはずはない、きっと、日本人がよくやる「謙遜」をしているとでも思っているのだろう。ところがどっこい、私は本当に喋れないのである。だがそう言っても取り合ってもらえなさそうなので、通訳なしでは本当にできませんからね、と念を押す返事を送った後、いざとなれば雛人形のごとく壇上に黙って座ってればいいわ、と開き直ることにした。

パネル・ディスカッションのパネリストたちからも、どんな内容の話をするか当日の朝に打ち合わせをしよう、とメールが届いた。打ち合わせの時間は朝の7時半から、となっている。夜の7時半ではないかと目を疑ったが、朝の7時半だった。プログラムの詳細をみると、朝の6時半からミーティングが入っているグループまである。夕方も7時頃までビッシリである。徹底的に議論をしてやろうとアランは書いていたけれど、まさかこんなスケジュールとは思わなかった。いったい私は本当に無事に行って帰ってこられるのか。そう思っているところに、パネリストからは、自分はEPAアメリ環境保護庁)のデタラメな政策と戦ってきた、そのことをぜひ話したいから、自分のこの論文を読んでくれ、という長文の英文メールまで届く有様だ。本場原子力ムラの LNT論争に巻き込まれるだけで難儀なのに、アメリカ国内のEPAとの戦いにまで巻き込まれたのではたまったものではない。しかも、パネリストは私を含めて日本人2名、アメリカ人2名という組み合わせだ。そこでEPAの話をされてもわかるわけがない。いったいこの会議はどういう方向性へ進もうとしているのだろうか? ずいぶんおかしなことに私は巻き込まれてしまったのではないか。ああ、やっぱり安請け合いなんてするもんじゃない。もうずっと後悔のしっぱなしである。

これまでも海外への集まりには何度も呼ばれていたが、慌ただしく事前の準備を終えて、飛行機の座席に座って離陸した後に、だいたい毎回後悔していた。なんだって、自分はできもしないことを引き受けてしまったんだろう。英語もできないのに、海外に行って発表するなんて、なんだってこんなことになってるんだろう。そうこうしながら、英語のできる友人に助けられながら、毎回なんとかこなしてきたのだが、今回はそのなかでも最大級だった。出発前、夜、寝ようとしても寝付けず、ウトウトとしたところで、絶対できるはずがないと飛び起きてしまうことが何度もあった。そうは言っても、引き受けてしまったものはやるしかないのである。帰路につく時の自分の惨めな状態を想像すると、今回ほど、気鬱な海外渡航はなかった。