「それ」のある風景

いまだいびつに歪んだ防波堤や欄干の残る場所に、均整の取れたラインの巨大な構造物の姿はおおよそ不釣り合いと呼ぶにふさわしいものだった。あるいは、そこがかつて集落があった場所でなければ、ただ、海岸線に沿って太平洋の水平線とだけが延々と続く場所であったなら、すこしばかり丸みを帯びた細い三本の羽が回転する「それ」は、新しい時代の訪れを告げる未来的な絵姿と感じられたのかもしれない。

定点観測のように、毎年、同じ時期に同じ道路を同じように車を走らせた。風景は時間とともに移り変わって行った。あの日より前の風景は、津波によってもとより完膚なきまでに破壊し尽くされたのであったが、その荒野があったことさえももはや遠い記憶の向こうに押しやろうとするかのように、重機がダンプがクレーンが押し寄せ、いつの間にか、「それ」が太平洋を背にしてそびえ立っていた。

最初は、おっかなびっくりに見えた。羽は回っているとも停止しているとも見えた。じっと目を凝らしていると、わずかに動いているのが確認できた。拍子抜けしながら「それ」を眺めた。地上の工事が猛スピードで進むのを見ているのか見ていないのか、「それ」は機嫌よく回っているように見える日もあったし、静まっている日もあるように見えた。

浜街道を北から南に走らせると、「それ」が丘の向こうに正面に見える箇所がある。丘を超えて、「それ」の全景が見える場所にきた。右手の圃場整備が終わった広い田では、今年は作付けをしたのだろうか。整然と耕起された土の中に刈り取った後の稲の株元が混じっているのが見える。左手にはソーラーパネルが広がり、その向こうにはコンクリの防波堤。白い擁壁の外側にある海は、場所によっては見えるし、見えないところもある。かつてここを縦横無尽に走り回っていた、ダンプも重機も、作業員詰所のプレハブ建物も作業員の姿ももうどこにも見えない。砂埃の立ち上らない海岸沿いの風景を見るのは、いつぶりだろうか。

舗装され直された道路から見上げる「それ」は、いつになく自信を持っているように見える。ここでやっていけると思えたのだろうか。阿武隈高地から吹き抜ける風を受け、きもちよさそうに羽を回している。「それ」が見続けた変転する風景は、もうこの先は大きく変化することはない。きっとこれが極相だ。私たちが熱に浮かされるように走り抜けた10年の景の移り変わりは、現実として今ここに固定された。それが望んだものであったにせよ、そうでなかったにせよ、あのような風景の変化をふたたび目撃することはないだろう。私たちが消えた先も、この風景は残り続ける。とすれば、風景に目撃されたのは、私の方なのかもしれない。

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