桐の花
ハンドルを握るフロントガラスの向こうに、今にも宙空に飛び立ちそうな、紫色の花が見える。
重力を飾る藤の花とは異なる形状をいぶかしく思い、近づいて、それが桐の花であることに気づいた。
展開した葉を輝かせる深い森のなか、そこには明るく日が差す。
人の気配のないその場所に、かつては、人が暮らしていたことを桐の花は物語る。
淡い紫色の向こう側に、消え去った暮らしが、光にかすんで見えた、気がした。
それは、本当にあったかどうかさえ定かでない、遠い遠い記憶だ。
今は、墓所しか残らない山深い集落の中に、その古い家屋はあった。
25年以上前に焼失したが、火事の前なのか後なのか、きっと後であったろう。
老婆は、孫娘に向かって、桐の木を指差しながら、「この木でな、あんたがお嫁に行くとき、箪笥を作るんじゃな」と言った。
側で話を聞いていた老婆の娘たちは、老婆の言葉を取り繕うように、「今は、時代が違うからね」と付け加えた。
孫娘は、自分が嫁に行く姿など、ついぞ思い浮かべることができず、なんと古風なことを言う祖母だろう、と、冷ややかに思った。
季節は夏であったろうか。
孫娘は、桐に花が咲くことさえ、知らなかった。
その桐の木は、箪笥となることもなく、やがて、敷地共々人手に渡り、気づけば、姿を消していた。
今となっては、遠い場所の遠い記憶。
紫色の花が、空を指すのは、過去の愚かさを拭うためであろうか、と、年を経た孫娘は思った。