バリケード手前で

 バリケードが設置された日を覚えている。
 ひとたび閉ざされた地がひらかれることの困難さを予期し、
 私は、この先、ふたたび、この地に、かつてのように人が住まうことはないだろう、と目を伏せた。

 それから、3年。
 バリケードは相変わらず閉ざされたままだが、その手前までは、やがて、人が戻ることになるという。
 線量計を持ち、バリケード手前まで車を走らせた。
 かつては防護服姿であった警備員も、今は、平服だ。
 手持ち無沙汰の様子で、なんらいぶかしがる表情も見せず、通行許可証はあるのかと淡々とこちらを見やる。
 ただ、そばまで来ただけだ、と伝え、車をUターンさせた。
 道路脇少し高台になった場所に、家屋が見える。
 開拓農家にありがちなトタン葺きトタン壁の簡素なつくりの家。夏は湿度が高く、冬は寒さが堪える。
 玄関にかかるカーテンが裂けているのが見える。長く人の住まない家は、草深く、家主はどれほど帰宅していないのだろうか、と目をこらすが、わかるはずもない。避難先の生活と、ここでの生活、どちらが快適であるのだろうか、とふと思い、いや、比較すること自体が間違いだ、と問いを打ち消す。
 その家から少し離れた場所で、車を停車させ、周囲を歩いてみる。
 路上で線量を確認し、脇の山林に足を踏み入れ、数値を確認する。
 山林に近づけば、そのぶん確かに上昇する、場所をいくつか変えて測定する、数値は揺らぐ、年間に換算してみる、その数値を高いと取るか、低いと取るか、逡巡する、世界の自然放射線量の高い地域では、これくらいならある、と言い聞かせ、しかし、その比較がまるで意味を持たないことに気づく。ここは、ケララではない、ガラパリでもない。
 頭上すぐそばに桑の実が黒く熟している。背伸びし、枝の先端を掴み、ひとつ、ふたつと実をつまんでみる。
 桑の実の測定結果はどれくらいだったか、と記憶を探りながら、味わう桑の実は甘く、舌先にかすかにえぐみが残る。生食ではそんなに食べられるものではない。桑の実は、ジャムがいい。けれど、ジャムにすれば濃縮される、それは、低いとは言いがたい数値になるだろう、そう、ジャムを食べる量など知れている、しかし、「知れている」というものばかりを毎日食べるのが、ここのかつての食生活ではなかったか? 山の恵みを常食するのが、ここでの暮らしのあり方だったはずだ。WBCで測定すれば、はっきりとした数値として確認できることになるだろう。自分は構わないかもしれない。だが、自分に子供がいたら、その子達に、この桑の実ジャムを躊躇いなく食べさせられるだろうか? 孫であったとしたら。あるいは、遊びに来た友人やその子達に、笑顔で勧められるか?
 そう、かつてはそうしていたのだ、なんの躊躇いもなく、自信を持って、誇らしげに。
 その数値が、健康影響という面で関して言えば、ほとんど意味をなさない数値であることを、私は、知っている。
 しかし、他の地域であればなんら気遣う必要がないのに、敢えて、この地のものを食べさせる気に私はなれるだろうか? やがて子供が都会に出て、その子に、この地の作物をなんの躊躇いもなく送ることができるのか?
 目の前に広がる人気のうすい山間の風景と、平穏な日常が続く地域の生活がオーバーラップし、私は、混乱し、そこで考えることを止めた。
 私には、判断できない。
 なぜなら、私は、ここで暮らしたことがないから。
 この先も暮らすことはないだろう。
 ここでの暮らしにそれだけの価値があるかどうかは、ここに暮らす人間たちにしか、わからない。
 私には、判断できない、決められない。
 天を仰ぐ私の脇を、交替の警備員の車が通っていく。明らかに、速度超過。彼にとって、ここはただ通り過ぎるためだけの場所。なんの思い入れもなく、ただ山があり、無人の人家が点在し、時間の経過と共に荒れていくだけの場所。
 
 数週間後、WBCで測定。検出限界値以下、けれど、スペクトルで見れば、僅かにセシウム137のピークが確認できる、との結果を聞く。あの時の、と思い、放射線は嘘をつかない、と、泣き笑いしたくなった。

 私には、判断できない。