2020/03/29 パンデミック雑感2 社会の不均衡について

COVID-19の中国武漢におけるパンデミックを「中国のチェルノブイリ」と書いている記述を読んで、ああ、なるほど、と思った。英語圏の報道では、このパンデミック地政学として捉えている論説が多く出されているようだ。そういえば、宮地尚子氏の『環状島 ートラウマの地政学』も「地政学」だ。

原子力災害後の復興政策も実は地政学の問題であったのだが、この観点から論じられているのを私は見たことがない。とは言っても、社会学政治学については、私のアンテナの外にあるので、気づいていないだけなのかもしれない。なんにせよ、施策において地政学的な観点は、ほぼまったく取り入れられていなかったし、日本の施策当局は、地政学的な発想や思考そのものを欠落しているかのように持ち合わせていないのだろうことは実感として強く感じているところだ。(オンラインによる情報伝播と金融が存在感を増すグローバリズム経済が繁栄を極めている間は、地政学的な観点はあまり重視されていなかったような気がしている。もちろん軍事面では重大な要素であり続けたのだろうが。)

武漢に出された都市封鎖は、感染収束という面においては成功を収めているように見える。断片的に出てくる情報では、内部の状況を詳しくうかがい知ることができないが、原発事故後の屋内退避区域の状況と重ねながら状況を想像している。局地的な都市封鎖は、社会の不均衡さをもたらす。地政学的に見れば、平面地図の中で、そこだけ別の強さの重力が働いて空間的なゆがみをもたらしているかのような状態となる。それを目で見ることはできないが、社会心理にもたらす影響は大きく、人の流れと動きが変容する。既にほとんどの人は忘れているが、原発事故後、「特定避難勧奨地点」という自主的な避難を勧奨するという地点も指定された。これは、各世帯ごとに玄関先の空間線量によって、「自主的な避難を要請する」、つまり強制力をともなわず、各一軒ずつの家屋に避難を「要請」するという異常とも呼べる施策であった。いまで言う「自粛要請」とほぼ似たような政策であり、自主的な避難要請であったため、経済的な補償は若干はあったものの、強制的な避難の場合とは大きな差がつけられ、そのことが後々まで大きな亀裂として残ることとなった。こうした社会における不均衡状態が、土地に対して線を引く形で人為的にもたらされる場合、規制が解除された後の影響は、目に見えなくなり、また劇的なものでないため、ほとんど注目されることはない。だが、社会の均衡(「安定」とも言い換えられる)を毀損することは、その後の社会的な混乱、あるいは弱体化の下地となるような印象を抱いている。

都市封鎖といった手段がとられた後に、その後、どのような影響が残り続けるのか。また局所的な封鎖は、国全体の広範なロックダウンとの影響の違いがどのように出るのか。広範なロックダウンは、経済的な影響は甚大なものになる一方、社会の均衡という面からいえば影響は小さくなる。わかりやすい言い方をすれば、国全体で事態に立ち向かい、また事態収束後は連帯して回復に向かおうというベクトルが強く働くことになる。一方、局所的な封鎖になった場合は、対象地域に負の影響を押しとどめ、他はそこを忌避する分離のベクトルが働くことになる。分離と忌避よりも、支援に向かう「連帯」の志向性が強い文化があれば、不均衡を最低限に押しとどめることが可能になるだろうが、封鎖規模とその地の文化・経済・地理的条件によって大きく違ってくるだろう。日本でもこの先、都市封鎖が行われる地域も出るかもしれないが、連帯感にまったく欠ける日本の文化土壌を考えると、経済的影響を最小限にしようと封鎖規模を局所的に絞った結果、後に残される不均衡さが、その後の回復にとって大きな障害となるといったことも想定されうる。パンデミック後の世界は、この社会の不均衡の影響をどの程度抑えられるかによっても、回復状況が大きく変わってくるのではないか、と感じている。