「生命の破壊」という表象

『曝された生』で詳細に掘り起こされたウクライナの事例は、それそのものでも十分に興味深く示唆に富むものであるが、著者の放射線原子力に対する姿勢も、わたしにとっては関心を引くものであった。本文の記述中に「生命の破壊」という表現が出てくる。研究者らしく、他の部分が具体的、そして抑制の効いた記述が多い中で、この比喩的な表現は、唐突感さえ覚える強い表現であった。著者が意図的にこの表現を使ったのか、あるいは無意識に出てきた表現なのか。もう一箇所の福島事故を受けての記述、「チェルノブイリの科学者が成し遂げられなかった疫学的知見の至的基準を築くことを期待している」と共に、著者のとらわれている部分を端的に示しているようにも見えた。

ここで述べられている「生命」は物質的な命と言うよりも、人間の生そのもの、人類の生命の営みそのものをあらわしているように読める。チェルノブイリ原発事故においては、確かに、緊急時には少なくない人命が失われ、そして、その規模においては本書にも示されているように議論はあるものの、放射線による一定の健康影響があったことは言うまでもない。しかし、それにしても、著者が言う「生命の破壊」という、生命の営みそのものに対しての破壊という表象の源泉は、チェルノブイリの被害のみにあるものなのか。本書の内容からしてみても、確かに、国際機関の公式見解に対する疑義は提示されはするものの、ここまでの強い表現が使われる必然性があるほどのセンセーショナルな健康被害の描かれ方はしておらず、違和感を覚える。わたしは、この表現は、チェルノブイリの被害以前から、放射線原子力、科学技術に抱かれていた無意識のイメージが、著者もそれと感じることなく、表出されたものであるように感じる。

そう思うのは、オーストラリア訪問の際に感じた、核開発と原子力の平和利用、放射線の抜き差しならないイメージの同一化を強く感じているからだ。そのことについては、以前、簡単に書いた事がある。
https://www.facebook.com/ryoko.ando.f/posts/402784640065336

イギリス統治時代のオーストラリアで行われた地上での核実験は、それそのものでは犠牲者は出ていない。実験であるから当然とも言えるが、それでも、実験が行われた砂漠に居住していたオーストラリアの先住民族アボリジニの証言は、濃厚な死のイメージに縁取られていた。そのすぐ後ろにあるのは、言うまでもなく、広島・長崎への原子力爆弾投下と巨大な犠牲である。オーストラリアでの核実験を見守る当時のイギリス軍の将校たちの様子が映像として残されている。彼らは、爆発が成功したことを確認すると、破顔し、互いに握手し、成功を喜びあった。わたしは、背筋が寒くなりながら、彼らは「狂っている」と思った。もちろん、彼らは精神病理的な意味では狂ってはいないし、その点から言えば、まったくの正常である。彼らの核開発にかける情熱は、当時の軍事状況を考えれば必然であり、また論理的にも理解できる。しかし、やはり、わたしは、あれほどの災厄をもたらすことが既に広島・長崎で明らかになっている兵器の成功を無邪気に喜ぶ彼らは「狂っている」と感じた。ここでわたしが感じたことは、スタンリー・キューブリックの映画『博士の異常な愛情』で描かれた科学者像が惹起する感覚とほぼ一致する。みずから手にした科学技術によって、みずからもその一員である人類社会を滅ぼしてなお、科学技術の発展に邁進し、また、それを喜ぶ科学技術者という表象は、キューブリックが戯画化して描いたがために一般に流布したのではない。核開発と核兵器実戦使用という現実によって現前化したものを、キューブリックがアイロニカルに、そして見事に描き出してみせただけである。もし、核開発あるいは、少なくとも核兵器の実戦使用がなければ、放射線原子力、そして科学技術に対する、ここまでの不信や恐れはなかったと、わたしは確信している。そして、人類は、その歴史を選択しなかった。

話を『曝された生』に戻す。著者が「生命の破壊」という表現を使った背景には、こうした核兵器原子力に対する、チェルノブイリ以前から存在した死と破壊のイメージが強く反映されている。著者にしてみれば、広島・長崎で行われた「生命の破壊」が、チェルノブイリでも繰り返されたという認識なのかも知れない。しかし、これらが、核兵器にともなう死と破壊が惹起した表象、ないしは表象をとなう現実である以上、それに対して求められる対応は、「疫学的知見の至的基準を築くこと」であるようには思えない。基準がつくられたとしても、「生命の破壊」は現実的にも、表象としても止むことはないからだ。こうした噛み合わない論理が語られるのは、著者が、自身の持つ「生命の破壊」という比喩がどこから出たものなのか把握出来ておらず、相対化して捉えることができていないからであるように思える。また、科学技術に対して不信を抱きつつも、その成果を信頼し、恩恵を日常的に受けていることに対するアンビバレントな感覚が表現されているようにも見える。努めて研究者らしく冷静で論理的に記述している著者の、科学に対する不信と信頼が矛盾した形で示されているように思うと同時に、ここにチェルノブイリ放射線健康被害を取り巻く、止むことのない混乱が象徴的にあらわされているように感じられた。