スティーブ&ボニー (20) 絶望のような希望

発表は終わったものの、あともうひと仕事、パネルディスカッションのパネリストが残っている。パネリストは、私と丹羽先生とアメリカ人のEPA打倒に燃えている研究者に、司会役のアメリカ人が一人。低線量被曝における防護政策に関するパネルディスカッションと題されていたものの、打ち合わせ内容を聞いていても、それぞれ問題意識はバラバラであるように思えた。実際のところ、いったい何を話し合いたいのかも掴めないまま、壇上に用意されていた席に腰掛けた。

とりあえず横には日本語のわかる丹羽先生が座っているし、パネルトークの冒頭に一人3分ずつ割り当てられているスピーチ原稿も用意してある。他のパネリストはEPA闘士の研究者の人が喋りたくてたまらないようだし、最悪、冒頭だけスピーチして、あとはちょこんと席に収まっていればいいわ、と気楽に構えることにした。

3分ずつのスピーチは、自己紹介と話題提供を兼ねて、と言う以外に内容については詳しくは指定されていなかった。私が用意したのは、日本政府の出した原発事故後の避難措置における規準の運用の実態についての説明だった。事前のアランとのやりとりの様子では、この主催の原子力関係者の間では、日本政府の避難指示基準が低すぎたために、避難措置による弊害が大きくなってしまったと主張したいのであろうことが察せられた。そして、その「誤った」避難指示規準の元になっているのはICRPの勧告であるから、ICRPの勧告を変えるべきである、彼らがそう主張したい様子はありありと窺えた。

実際のところどうであったかと言うと、日本政府の出した避難措置においては、ICRPの基準はほとんど関係していない。公的な文書ではICRP勧告の数字を基準としていると説明してあるが、実際の運用においては、日本政府が基準と実測値を満足に扱うことができなかったため、ICRPの勧告から借りてきた数値はただの「飾り」であるだけで、あってもなくても日本政府の出した避難措置に大きな影響はでなかった、その程度のものだった。仮に、日本政府が本当にICRP勧告に則った基準で施策を打つことができたのならば、基準は時間の経過とともに段階的に引き下げられたであろうし、またその一方で、解除はもっと早期になされたはずだ。

アメリカ国内での日本への関心の薄さから考えると、こうした経緯を把握している人はほとんどいないと考えていい。それでいて、彼らは、避難の弊害がICRPのせいだと文句をつけたくて手ぐすねを引いて待ち構えている。ICRPの幾人かのメンバーは、福島の事故後、はるばる海外から福島に繰り返し通い、そこで起きた問題がなんだったのか、地元の人にとって重要なのはなんだったのか、大多数の日本人よりも真剣に知ろうとし、耳を傾けてくれた。それなのに、福島に足をほとんど運んでもいやしない、アメリカの原子力関係者に誤解に基づいて非難されるのではあんまりというものだ。ひと言、釘を刺しておこう。そういう狙いで、次のような文章を用意しておいた。

TEPCONPP事故に際して日本政府がとった避難措置は、大きく二つの段階にわけられます。一つ目は、事故直後の緊急避難措置です。この時の避難指示は、政府・原子力安全委員会が事前に定めていた「原子力施設等の安全指針」に基づき、外部被曝の予測線量が50mSvを超える地域に対して避難指示が出されることになっていましたが、実際には原子炉近辺の計測器が損壊し、測定不能になっていたため、線量の予測もできず、距離によって半径20km圏内に避難指示が出されました。避難指示区域は、その後何度か再編をされますが、放射線量の測定が行われ実際の線量がわかった後も、半径20km圏内については、維持されました。

二つ目の段階が、避難指示解除です。避難指示の解除がはじまったのは、2014年4月の田村市都路がはじめてです。2017年4月までに、帰還困難区域を除く区域はほぼ解除されましたが、2014年4月の田村市の避難指示解除までに、事故から3年が経過しています。避難指示の基準は事故前に決めてありましたが、避難指示解除の基準は設けておらず、2011年12月に定めた解除の基準が信頼されなかったことが足を引っ張りました。政府の定めた避難指示解除の放射線量の要件は、「年間20mSvを十分に下回ること」です。放射線量だけであれば、20mSv以下は避難指示区域の多くを占めており、すぐに解除してもよかったはずなのですが、避難解除にあたって賠償制度が打ち切られること、放射線に対する危惧などから、避難指示を解除するためのもうひとつの要件であった自治体と住民の合意を得ることができませんでした。福島の避難指示が長引いたのは、放射線量の基準が機能していなかったからであって、政府の定めた放射線量の基準そのものが過剰に低かったためではないということには注意が必要です。

まず、丹羽先生が、自己紹介として「研究しか知らなかった愚か(stupid)な研究者である自分が、原発事故後の福島に暮らして、地元の人と触れ合って、いかにコミュニティの重要性を学んだか」という話を始める。研究者の集まりで福島の原発事故について話すよう依頼される度に、丹羽先生はこれを持ちネタにしているようで、私はトータルで3回か4回はこの話を聞いている気がする。この話の最後は、毎回、次のような決め台詞で締めくくられる。「研究者である前に、コミュニティの一員であれ」。それに対する聴衆はというと、これもまたいつものパターンで、皆ポカーンとしている。それはそうだろう。数値と専門用語がたくさん並んだ学術的な内容を期待していたら、出てくるのは、福島の人々や暮らしがいかに素晴らしかったか、温泉の魅力とか食べ物が美味しいとか、そんな話なのだから。

私のスピーチの番になった。原稿を読みながら様子を窺っていると、先ほどの発表の時よりは、聴衆の反応がいい。真剣に聞いている様子が感じられる。最後まで読み上げて見渡すと、心持ち、会場の空気が変わっている気がした。痛いところを突かれたというのだろうか、気勢をそがれたというのだろうか、あるいは、人によっては腑に落ちたというところかもしれない。この反応から察すると、予測していたとおり、少なからぬ参加者は、日本政府の出した避難指示と放射線基準の関係について、よく理解しないままになんらかの関心は持っていたのだろう。

何はともあれ、これで私はミッションほぼコンプリートだ。あとは、ほかのパネリストの皆さんにおまかせだ。脇では、EPAの基準の不合理についてアメリカ人研究者が延々と話している。おそらく、指定された3分はとっくに過ぎている気がするか、パネルディスカッションの司会が静止しないのならそれでいいのだろう。自分の出番が終わったあとは、こんな調子でほとんど放心していたのだが、会場からの質問時間になったときに、福島における「スティグマ」についての質問が飛んできた。スティグマとは、原発事故によって自他にもたらされた負のイメージと言ったところだ。日本では「風評」という言葉で言い表されることが多い。事故直後に溢れかえった煽情的な報道による影響がいまだに解消されず、日本でも問題になっていることが丹羽先生から説明された。何か付け加えることは、と促されて、私も考えていたことを付け加えた。

スティグマは確かに大きな問題とはなっていますが、ただ、これはもう仕方がないと思います。私は広島で生まれ育ちましたが、広島も同じようなスティグマを抱えていました。けれど、戦後70年経って、いま、広島のネガティブイメージは払拭されつつあります。広島出身と言った時、かつては、負のイメージで捉えられることもありましたが、今では、羨ましがられることの方が多いです。これを参考に考えれば、福島もすぐにはスティグマの解消はできないと思います。でも、半世紀以上先、よりよい未来を作ることができれば、福島のスティグマも広島と同様に明るいものへと変えることができると思います。

もはやすっかり放心してしまったあとだったので、自分のたどたどしい英語で説明する気力がわかず、横にいた丹羽先生に通訳をお願いするというとっておきの裏技を使わせてもらった。

ひとたび起きると取り返しの効かない事象というのは、確かに存在する。原爆投下がそうであったし、また原発事故もそうだ。巨大な負の出来事によって生じたスティグマが一朝一夕で消え去ることはないだろう。だが、それが将来に渡って未来永劫続くというわけでもない。Hiroshima とアルファベットで表記された文字列は、今や、どこか誇り高くさえ見える。多くを語らずとも、その文字列を見るだけで、多くの人たちが、惨禍を克服し、世界に向けて平和の価値を発信する都市を思い浮かべる。Fukushimaがそうなるかどうかは、これからにかかっていると私は思っている。

そこまで伝えられたかどうかはわからないが、こうして、私は晴れてお役目完了となったのだった。清々としながら壇上から降りて、会場を歩いていると、何人かの人から、発表がとてもよかったと声をかけられた。アメリカのEPAの女性(オーストラリアでも会ったことがあった)、そして、イギリスのインペリアル・カレッジ・ロンドンのジェリー・トマスさん。昨年の私のオーストラリアの発表は、彼女の推薦だった。トマスさんは、これから飛行機の時間だからと慌ただしく荷物を抱えながら、「あなたの英語、完璧に素晴らしかった!」とウィンクした。私は、それは原稿を用意してくれた友人の英語が素晴らしいから、と言おうかと思ったのだけれど、トマスさんは急いでいるようだし、とりあえず、私の発音でも意味は通じたということにして、お礼だけを伝えた。何はともあれ、会場の中で、スティーブとEPAの女性とトマスさんの3人は私の発表を理解してくれたわけだから、よかった。

会場は、そろそろ締めくくりに向かい、主催関係者たちのまとめの議論が始まっていた。一番最後のスピーチに立つのは、主催のアランだ。彼は話し慣れた様子で、リズムよくスピーチを始めた。冗談を言って笑いをとって、軽くウィンクする。要所要所で、手振りもまじえて、研究者の演説というより、ニュースで見たアメリカの大統領選の選挙演説のようだ。話が盛り上がったところで、彼は急に声のトーンを下げて、深刻そうな表情をして見せる。とてもショックなこともある。福島の原発事故だ。自分たちにとっても事故はもちろん衝撃的だった。けれど、犠牲者の数を見てみようじゃないか。実際の事故で亡くなった人間はいないのに、関連死で2,000人を超える人が亡くなっている。津波の被災地ではほとんど亡くなっていないというじゃないか。これは放射線に対して過剰な恐怖心を抱いて、必要のない避難をしたからじゃないか? なんてことだ! 手を額に当て嘆くようなジェスチャーを加え、彼は、ボルテージを上げていく。そして拳を振り上げ、テンポを上げて大きな声で聴衆に呼びかける。我々は、放射線への誤解を解くように努めていくべきじゃないか? そうだろう? これこそ我々の使命だ! 会場は拍手喝采、指笛が鳴り響いてもおかしくない歓声に包まれた。私は会場の一番後ろから高まっていく熱気を見ていた。ふと横を見ると、ボニーも編み物を持ったまま、両手を上にあげて力を込めて拍手をしている。

私は、やっぱりアランには、私の言葉は何一つ届かなかったんだなと思いながら、黙って会場の様子を見ていた。震災関連死は、震災に関連して病気などが悪化し亡くなったと認定された人の数だ。宮城、岩手などの津波被災地では増加していないにもかかわらず、福島では増加し続けているということで、大きな問題になっている。ただ、この人数は、正確には、震災関連死認定に伴って支給される災害弔慰金の請求のために自治体に申請された人数だ。自治体によって基準も違うし、また、津波被災地の自治体では、関連死の申請そのものを早々に打ち切ったところも多くある。原発事故による避難の影響がないとは言えないし、また影響が全くないとも思わないが、一方で、この数は、必ずしも実態を正確にあらわしているとも言い切れず、数字だけが一人歩きしていることに対して私は以前から危惧を持っていた。

それをこの場で伝えるだけの英語力は、残念ながら私にはない。そして、根本的なことをいえば、彼らは別に福島の震災関連死の犠牲者に関心があるわけでもないのだ。彼らが興味があるのは、数値と彼らの信じる「科学的に正しい」基準とやらだけで、科学的に正しくないことで亡くなった人がいることだけが問題なのだ。私は、避難の過程で亡くなった「震災関連死」とみなされるであろう、自分の知った人たちのことを思い浮かべた。遺族や友人たちは、ほとんど例外なく訥々と亡くなるまでの経緯を語った。ふっとなにかを押し殺すような会話の切れ間の沈黙を挟みながら、自分に言い聞かせるように、仕方がなかったのだと言うように、あるいは実際にそう言葉にして彼らは語った。それは、気炎をあげるアランの演説とは正反対の、誰に訴えるのでもない、ためらいと静けさに満たされいた。

アランの絶叫のようなスピーチと満場の拍手を持って、会議は終わった。会場には、どこか興ざめしたような、間延びした奇妙な熱気が残された。ボニーが、お疲れさまというように、にこやかに微笑みかけている。私は、原発事故のあとに自分に浴びせられた無数の罵声を思い出した。敵意に溢れたそれらの言葉は、あまりにも多くの無理解と誤解に満ち、それでいて、いや、それだからこそ、私からの反駁をわずかたりとも受け入れようとしなかった。激情と無自覚な敵意と悪意に満ちたそれらの言葉は、どこまでも一方通行だった。そして、今回、ここで目にした熱狂もどこまでも一方通行で、無自覚な敵意に満ちていた。何に対する? 彼らが何を憎んでいるのかはわからない。自分たちの価値を認めようとしない社会に対してなのか、これまでに投げつけられてきたであろう彼らの自尊心を損なう言葉に対してなのか。互いに、一方通行の演説に慣れきった彼らが、相互理解のために歩み寄ることがあるとは思いがたい。だが、それでいて、私たちは、微笑みを交わし合い、力強く握手をしたりもする。なにかの間違いのような偶然で、かすかに歩み寄ることだってあるかもしれない。スティーブが私をハグしたように、抱き合うことだってあるかもしれない。いずれにせよ、私たちはこの先もわかりあうことはないだろう。わかり合えない中で、それでも言葉を交わすことはやめない。それは、希望のような絶望であると同時に、絶望のような希望なのかもしれない。