25年後の風

いま、テレビ出てたベ。

いつも電話がかかってくるのは、晩酌が進み、いい案配で気分がよくなった頃合いなのだろう。電話の鳴る時間で、発信者が誰なのかはわかる。もしもし、と言い終わるのも待たないで、電話口でそう言った。

ご覧くださったんですね。ありがとうございます。

昨日から気付いてたの。予告でアンドウリョウコさんって出てたから。オレ、たまたま昨日見てたんだけど、それで気付いて用意してたの。それで、いま見たところ。リョウコちゃん、途中で、ボロボロって涙こぼしてたべ。それで、あれ、オレのこと思い出したんじゃねぇかな、そう思って見てたの。

あはは、ご明察です。あの時、タナカさんが喋ってたこと思い出しちゃって。

そうだべ。オレ、そうでないかな、って思ってたの。いいんでねぇの。こんな風に涙流してくれる人もいんだな、って、オレ、少しうれしかったの。

電話口の言葉を聞きながら、あのインタビューの時に自分が泣いた理由を思い出していた。泣くのに理由はいらないのかもしれない。だが、なぜ自分が泣くのか、しつこく考えるのが私の性分だ。ただ、このときの理由は、考えるまでもなく、わかっていた。

一年ちょっと前、無理を言ってタナカさんに人前で喋ってもらった時のことだ。時間が終わりに近づき、最後に言いたいことを、と尋ねたとき、彼は、「忘れないでほしい」と言った。除染廃棄物の入ったフレコンバッグは、2年後にはすべて中間貯蔵施設に搬入し終える。皆さんの視界からそれは消える。そうすると、皆さんはきっと忘れてしまう。そのフレコンバッグがどこへ行ったのか、行った先でどうなるのか、忘れてしまう。でも、覚えていてほしい。フレコンバッグがどこへ行ったのか、フレコンバッグの行き場を作るために土地を提供した人間が、自分たちのような思いをしている人間がいるのだということを、覚えていてほしい。

まったくそのとおりだ、と思いながら、彼の言葉を聞いていた。私たちは、忘れる。フレコンバッグがあったことも、それがどこへ行ったのかも、その場所になにがあったのかも、最初にわずかに同情を示し、しかし、やがてそれも忘却してしまう。30年後に廃棄物を運び出すという政府の空手形も守られないだろう。言い訳にもならない言辞を政府は右に左に繰り返し、その軽薄さは怒りに油を注ぐことになる。約束を破られたと人びとはますます憤り、不信の淵に沈む。だが、そうは言っても、圧倒的な大多数の無関心と冷淡さのうちに、それは諍いにもならない。忘却と、嘆きと、言葉にならない憤りを覆い隠す空虚な無関心と、あの場所がこの先、佇み続けるのはきっとそんな世界だ。「忘れないでほしい」、彼の言葉は、私たちがこれから目撃するだろう惨めな未来図を克明に写しだしていた。
そのことを思って、泣いた。

バカにしてるんだな、ヤロメら。東京の、あの政治家のヤロメらよ。金目だなんだ、と言って、ほれ、前知事のインタビューがこの間、新聞に出てたべ。読んだかどうか知んねぇけど。中間貯蔵施設の受け入れの時に、環境大臣のあの、石原なんとかな。「受け入れないと、最後に困るのは福島県でしょう」とか言ったんだとな。そのあとも、東北でよかっただのなんだの。あいつら、オレらのこと、バカにしてるのよ。

それもまちがいない。「ヤロメら」は、札束を口のなかに咥えさせれば、誰でも黙るものだと、そう思っている。そうでなければ、次から次に、あんな無神経な言葉が出てくるはずがない。

だが、その咥えた札束を、肚のうちに、彼は呑み込む。

いや、だけど、恨んだりはしねぇよ。自分で提供したんだからな。恨んだりはしねぇけど。
でも、おもしゃぐはないですよね。
んだよ。だから、言いたいことは言わせてもらう。約束はしたんだから、守ってもらわねぇとな。まぁ、オレもじさまだから、いつまで生きてるかもわかんねぇけど、あなたは若いんだから。

約束の期限が来るのは、25年後だったか。その時の、私と彼の年齢を計算する。運がよければ、私は四半世紀先の惨めな世界を目撃することになるだろう。そうなるに違いないと予期したそのままの未来を見るほど、倦厭なことはない。

今度、一年ぶりに行ってくるの。もうすっかり変わっちまってるんだろうな。オレもしばらく見てないから、なんだかわかんねぇぞ。

家屋がすべて取り壊された敷地からは、阿武隈の平らな稜線がよく見えた。晴れ渡った空は青く、明るく、軽やかだ。上空を吹き抜ける風が、阿武隈の向こうの雪雲から「吹っかけ」を運んでくる。重機もダンプもプラントも消え去ったその場所で、25年後も同じ風が吹く。同じ空の下、同じ山並みを遠景に、すっかり変わり果てたその場所で、私はなにを思うのだろう。

どうなったか、また教えてください。

そう言って、電話を切った。

パンデミック雑感 ー10年目を目前に、安全と安心の狭間で

 震災から10年目を目前にしての過日の福島県地震は、記念日報道が増えていることと相乗して、震災後の騒然とした記憶を呼び覚ましたかのような気配がどことなく流れているように感じられる。

 ともなって、廃炉作業中の福島第一原発の原子炉格納容器の亀裂が広がったようで、冷却用の水位低下、格納容器内の圧力低下に、東電による地震計の故障放置による計測不可などが報告され、また、長く基準値超えが見つかっていなかった漁業でもクロソイから500Bq/kg が見つかるなど、5年ほど前を思い起こすような流れとなっている。

 クロソイは、ネットが設置され通常は外海に出ないようにされている福島第一原発港湾内から泳ぎ出たものではないかとも推測されているが、実際はわからない。ただ、これまでの測定結果を見ても、このレベルの検出はほぼ港湾内に限られるので、例えば、地震の揺れでネットのどこかに隙間が出来、そこから泳ぎ出た可能性もあるのではないかと、素人頭で推理したりもする。何れにしても、これまではほぼ不検出でずっときていたなかでの、たった一匹であるから、報道するにあたってもこれまでの測定の積み上げを同時に伝えて(何千回、何万回と測定してきた中の1匹にすぎない)、規模感がわかるようにしていただきたい。と同時に、「水」の問題も解決しないなかで、漁業関係者の心痛はいかばかりかと思う。

 しばしば、科学的リスクについて語るときに、「安全は客観的で安心は心理的なもの」と言われるが、実際は、安全についても価値判断から免れることはできない。安全基準を定めるにあたっては、どこかで、「えいや」と線を引かざるを得ないのだが、その線を引く作業は、それがどのようなものであっても価値判断によるものにしかならないからだ。先日、リスク学の講義を聞く機会があって、大いに勉強になった。(急遽頼まれて、某大学の環境社会学の集中講義を6時間分講義したのだけれど、その同じ講義内の別先生がリスク学の講義だったため、聞く機会があった。)

 この内容については、村上道夫ほか『基準値のからくり』(2014年、講談社ブルーバックス)にあるので、科学リスクについて興味のある方にはぜひご一読をお勧めしたい。実は、2014年に出てすぐに著者から頂戴していたのだけれど、当時は、書籍を読む精神的余裕がなく、部分的には読んだものの全編は読んでおらず、改めて勉強になった。

 放射能の安全基準には、しきい値なし直線仮説というモデルが採用されている。これは、原爆被爆者の追跡調査等によって確証されている200mSv以上の右肩上がりの直線を、100mSv以下でも適用し、外挿しして使っているものだ。100mSv以下の放射線リスクについては、合意を得られるほどの科学的証拠は得られていない。なんども書いているが、低線量の被曝からの人体影響を観測するにあたって、他のリスク要因からの影響を免れることはできない。その観測の難しさから考えると、100mSv以下の被曝リスクに決定的な結論が出ることは、近い将来にはないであろうと思われる。

 とは言っても、そういう状況の中でも、なんらかの安全管理基準がなくては、安全管理ができない。だから、証拠のある200mSv以上の右肩上がりの直線を100mSv以下でも適用すれば、当たらずとも遠からずというところで管理できるだろう、そういう判断に基づいて採用されている。安全管理の指標は、科学的知見だけで定められるものではなく(そもそも放射線のように原理的に不可能な場合も少なくない)、実用性や社会的な判断、つまり一定の価値判断によって最終的には決められることが一般的となる。

 リスク学において「安全」の定義は、しばしば、「危険のない状態であると感じられる状態」「受け入れられないリスクのない状態」という否定形によって定義されている、というのは、非常に示唆的である。つまり、あらゆる場面で適用できる、客観的な安全は定義することができないのだ。

 こうした価値判断を孕むリスクの取り扱いで非常に難しいのは、それを社会的に判断する場合だ。個々人の判断であれば、最終的には、人それぞれ、というところ以外には落ち着けようがない。一方、社会生活を営む以上、社会としてなんらかの決定をしなくてはならなくなる。もともとあるリスク要因については、明示化されずとも社会的ななんとなくの合意がある。しばしば、交通事故のリスクについては数値化すれば、放射能のリスクよりも遥かに高いなどと語られることがあるが、この程度のリスクであれば自動車の使用を受け入れるという、なんとなくの社会的合意があるから、可能となっている。それは、私たちの社会にとって、自動車が馴染んでいて、リスクの程度も推し量ることができるし、またそのリスクに対する対処方法もある(と思える)などの条件が揃っているからだろう。たんに、便利さをとった、というだけの話ではない。そもそも、自動車のリスク感は、段階的な技術発展と社会への普及に従って、漸次、醸成されてきたものであって、数ヶ月、数年で醸成されたものでもない。

 これに対して、未知のリスクについては、社会的な合意を得ることがとても難しくなる。未知のリスクは、その科学的な意味でのリスク規模がそもそもわからないわけだから、その上で行われる社会的な価値判断はさらなる大混乱となることはやむを得ないことでもある。

 リスクの価値判断に社会的合意の醸成ができていない段階でも、それでも決めねばならないことは多々ある。(今回のコロナも然り。) その際に、その判断に対する社会的な正統性を担保するものは、「信頼」だけになる。正当とみなされる知見に基づいて、正当と見なされる手続きによって、正当と見なされる人びとが決定したということだけが、その判断の正統性を担保する。この場合、何をもって「正当」と見なすかは、社会によって、時代によって大きく変わるだろうが、最終的に、信頼の問題に帰結するところは同様だろう。

 社会的な合意醸成ができていない事柄に対する価値判断の難しさは、それが「価値」の問題であるから、それぞれが折り合う意思を持たなければ、それぞれが言いっぱなしになり、社会の亀裂が深まっていく一方となることだ。なぜならば、価値観は信念や信仰のようなそれぞれの内面に帰するものであり、本人の意思によってしか変えられないものだからだ。これが、外的要因に規定されるものであるならば、その条件が変わることによって、自ずと妥協することも可能となるが、価値観の問題は極めて妥協が難しい。

 ここで起きる価値観の衝突に対応するためには、さらに上位の枠組みを設定する必要がある。つまり、目標設定である。この価値判断をなんのために行うのか、どのようなことを目指してその価値判断を行うのか、ということだ。これは、すなわち、どのような社会を目指したいのか、どのような社会であることを求めるのかということでもある。現代社会において、価値の衝突が起きるのは、社会のありようについて目指すところを共有することが難しくなっているところが要因として大きいように思える。目指すべきところが共有できれば、価値観を変えることは不可能であったとしても、一時的に、あるいは部分的に、現実対処として折り合うことは不可能ではない。社会格差が分断の引き金であると言われるが、格差が問題となるのは、階層の断絶化によってありうべき社会像を共有することがまず困難となるからではないだろうか、と思っている。

(このあたりの考えは、吉田徹『アフター・リベラル』(2020、講談社現代新書) にヒントを得ている。)

 いずれにせよ、私たちが生きていくのは、社会の内側でしかあり得ない以上、いかに困難とはいえ、まずは、どのような社会を目指すのか、そこから話をはじめるしかないのではないか、と、SNS上の果てることのない「科学」にまつわる論争を見ながら思っている。

パンデミック雑感 ーコロナと原発事故

パンデミックについては、あまり賢しらに書くのもどうかと思ってしばらく書かないでいたのだけれど、友人に、コロナと原発事故の異同について気になっている人は多いと思うよ、と言われたので、久しぶりに書いてみることにする。

コロナと原発事故の共通点はなにか、と言われれば、目に見えず五感で感じることのできない危険な闖入者があらたに社会に多大な影響を及ぼすこととなり、「科学知識」を用いて、政治・行政が差配しながら対応しなくてはならなくなった、ということだろう。そこで発生する心理的反応や、統治機構の対応も自然、似通ったものになる。

違いは何か、と言われると、ウィルスは伝染する、増える、ただちに影響があらわれるということで、放射能は環境中に残存して社会に大きな影響をもたらす一方、増えないし、移らない、身体への影響は相対的に低く、(あったとしても)すぐにはあらわれない。とりわけ大きく影響を及ぼす違いが、感染だ。ウィルスによっても大きく異なるのだろうが、今回の新型コロナウィルスの場合は、指数関数的な増加速度となる。

この感染速度は、対応を非常に難しくしている。原発事故の時と同じキャッチフレーズを用いて「経済か、命か」としばしば言われるが、この感染速度を考えると、そのバーターは成立しない。なぜならば、発病者の増加により病院機能が停止し、社会が混乱に陥ることを抑えようとするならば、社会活動に長期にわたってかなり強めの制限をかけて、相当程度低いレベルで感染者数を抑え込む必要があるからだ。指数関数的増加というのはそういうことで、ほどほどのところで感染者を維持する、という選択肢は存在しない。極小で抑えるか、制御不能に増加するかの二択しか存在しない。それは、現在の日本の状況をみれば明らかだろう。コロナの危険性を過度に見積もりすぎだから、経済への制限をかける必要はないと言う意見も散見するが、病院機能が崩壊した状態で、たとえば、急病人が救急搬送される余地もなく放置される、重病になっても治療を受けられない、あるいは遺体となってそのまま寝室に置いておかれるという状況が常態化したなかで、社会が混乱なく経済を回し続けられる世界というのは私には想定できない。ニューヨークでの第一波の時には、休みなく入る救急要請に応じて出動する救急隊員が行く先、行く先、もはや遺体となっているか、手の施しようがない患者ばかりだった、という報道を読んだが、こうした状態で、インフルエンザと変わらないから放置すればいい、あるいは、経済活動を優先すべきだ、という主張はまずもって成立しないと考える。

長期にわたって社会活動に抑制をかけるとすると、経済的には、少なくともある特定の業種については、壊滅的な影響を受けざるを得なくなる。そこの影響を最小化するための政策的対応をいかに取るかという点は問われるべきだろうが、その打撃を完全になくすことは不可能であろうと思われる。したがって、最初から経済は一定程度打撃を受けることを織り込まざるをえず、ここで「経済か、命か」という単純なバーターは成立しなくなる。経済はいずれにせよ影響を大きく受けるのだ。

どうしてこんな禅問答のようなことをつらつらと書いてみることにしたかというと、「経済を優先しろ」という、主として政府方面の主張の背景には、原発事故のときの対応が暗に影響を及ぼしているのではないかと感じられるからだ。

つまり、放射能の被害を過大に見積もり、過剰対応をしたために、取り返し不可能な多大なる損失を得ることになったと思っていることが、今回のコロナにおける強気の対応に背景としてつながっているのではないかと感じるのだ。確かに、原発事故の、とりわけ避難指示の及ぼした影響は大きく、それは今後長期にわたって回復不可能だろう。だが、それは、専門的知見を生かしつつ、長期的な戦略的対応を取るという機能をまったく持ち合わせないこの国の統治機構の不全がもたらしたものであり、リスク判断の問題は、全体の問題のなかのごく一部を占める、端緒に過ぎないと私は認識している。最初期の原発近傍地域における避難の混乱で高齢者などが亡くなった問題は、非常に不幸で痛ましい出来事ではあったが、当時の状況を考えれば、原発事故がひとたび起きればもはや避けることのできない犠牲であったと私は思っている。その後の避難指示が長期化したことによる問題の方が、遥かにことを複雑にしたし、より問題視されるべきなのは後者であろうと思う。そして、その事態をもたらしたのは、統治機構の不全であり、リスク判断の問題ではない。

身体への影響だけを考えても、放射能の被害は、慢性的かつ遅効的であるがゆえにコントロールも可能であるが、コロナウィルスは指数関数的に即座に影響を及ぼすため、コントロールが非常に難しい。未知の闖入者に対する反応といった面で共通するというだけで、放射能とはまったく異なるウィルスに対して、逆張りの対応を取ろうとしているのだとすると、あまりに雑駁に過ぎるのではないか、と思うのだ。リスクコミュニケーションやリスク対応という面では共通する面も多いし、社会不安への対応といった面でも共通することは多くある。だが、それぞれの性質の本質的な違いを見極めずに、放射能の時にこうやって失敗したから、今度は逆に対応すればいいと判断しているのだとすると、根本的な対応を誤っているのではないかとの危惧をずっと持っている。

「それ」のある風景

いまだいびつに歪んだ防波堤や欄干の残る場所に、均整の取れたラインの巨大な構造物の姿はおおよそ不釣り合いと呼ぶにふさわしいものだった。あるいは、そこがかつて集落があった場所でなければ、ただ、海岸線に沿って太平洋の水平線とだけが延々と続く場所であったなら、すこしばかり丸みを帯びた細い三本の羽が回転する「それ」は、新しい時代の訪れを告げる未来的な絵姿と感じられたのかもしれない。

定点観測のように、毎年、同じ時期に同じ道路を同じように車を走らせた。風景は時間とともに移り変わって行った。あの日より前の風景は、津波によってもとより完膚なきまでに破壊し尽くされたのであったが、その荒野があったことさえももはや遠い記憶の向こうに押しやろうとするかのように、重機がダンプがクレーンが押し寄せ、いつの間にか、「それ」が太平洋を背にしてそびえ立っていた。

最初は、おっかなびっくりに見えた。羽は回っているとも停止しているとも見えた。じっと目を凝らしていると、わずかに動いているのが確認できた。拍子抜けしながら「それ」を眺めた。地上の工事が猛スピードで進むのを見ているのか見ていないのか、「それ」は機嫌よく回っているように見える日もあったし、静まっている日もあるように見えた。

浜街道を北から南に走らせると、「それ」が丘の向こうに正面に見える箇所がある。丘を超えて、「それ」の全景が見える場所にきた。右手の圃場整備が終わった広い田では、今年は作付けをしたのだろうか。整然と耕起された土の中に刈り取った後の稲の株元が混じっているのが見える。左手にはソーラーパネルが広がり、その向こうにはコンクリの防波堤。白い擁壁の外側にある海は、場所によっては見えるし、見えないところもある。かつてここを縦横無尽に走り回っていた、ダンプも重機も、作業員詰所のプレハブ建物も作業員の姿ももうどこにも見えない。砂埃の立ち上らない海岸沿いの風景を見るのは、いつぶりだろうか。

舗装され直された道路から見上げる「それ」は、いつになく自信を持っているように見える。ここでやっていけると思えたのだろうか。阿武隈高地から吹き抜ける風を受け、きもちよさそうに羽を回している。「それ」が見続けた変転する風景は、もうこの先は大きく変化することはない。きっとこれが極相だ。私たちが熱に浮かされるように走り抜けた10年の景の移り変わりは、現実として今ここに固定された。それが望んだものであったにせよ、そうでなかったにせよ、あのような風景の変化をふたたび目撃することはないだろう。私たちが消えた先も、この風景は残り続ける。とすれば、風景に目撃されたのは、私の方なのかもしれない。

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未来の人びとへのICRP Publication146

ICRP Publication 146 発刊によせて  ICRP(国際放射線防護委員会)から、Publication146が発刊されました。 ICRP Publica ethos-fukushima.blogspot.com

国際放射線防護委員会(ICRP)という放射線の専門家による国際NGO組織が刊行する出版物Publication があり、各国の放射線防護政策を決める際の指針となっている。そのことは長くなるし、著書『海を撃つ』にも書いたので繰り返さない。

そのPublicationが更新された。福島で起きた原発事故の後の経験を踏まえた上で、さらに詳しく書き込んだ改訂であると言える。そういう意味で、新味はない。一部の批判的な人たちは、被ばく基準を緩めるようなものであると主張したいようだが、前回の勧告から数値基準としては変わっていないとICRP側も説明しているとおりで、その批判には無理がある。そして、数値基準が変わっていないとなると、そこに書かれた内容については見向きもされなくなるのが世の常だ。

100mSv以下の線量域に関しては、数値について議論したとしても、(専門家の中での学術的議論は別として)さほど意味のある議論にはならない。科学的な意味よりも、社会的な意味の方がはるかに大きくなるからだ。だが、その社会的な内実については、放射線リスクについてどのような考え方の人であったとしても、ほとんど見ようとはしない。この問題は、原子力災害に固有とも言えるし、また他のあらゆる基準や災害と共通するとも言える。誰しも、自分にとって見やすい見方でしか現実を認識しないものであるし、そこから逃れられる人はいない。その枠を認識した上で、見えないものを見ようとする人は、極めて少ない。100人に一人いれば良しとするところだろう。

原子力災害後の特殊な社会状況について関心を持つ人の少なさを考えれば、このPublicationもまた、先行したPublication111がそうであったように、忘れられたPublication となるのだろう。そこに確かに存在し、文章としては読めるのに、ほとんどの人にとっては何が書かれているのか理解できない、そうした類の文書だ。

だが、ふたたび原子力災害が起きたときに、突如として人びとはこの文書の存在を思い出し、そこに書かれていることを読み解こうとするだろう。この文書は、過去の出来事からの教訓であると同時に、未来への予言でもある。

上記リンク先の ETHOS IN FUKUSHIMA には、最後に、未来の原子力被災地へのメッセージを載せた。同時代的には、書かなくていい、余計な一言だ。同時代に向けて発信するならば、適切なのは、「ふたたび原子力災害が起こらないことを願う」というメッセージだろう。三、四年前ならそう書いたかもしれない。だが、それを書く気にはなれなかった。なぜなら、ここ数年は、次の原子力災害は100パーセント確実に起こる、と思うようになっているからだ。

それが日本国内とは限らない。欧米の潮流的には、原子力は逆風にさらされてはいるが、中国や中東では増えている。原子力発電は安全コストと廃棄物処理コストを無視しさえすれば、安定的で安価な発電技術であることには変わりないからだ。それが正しい、正しくないという議論は議論として、現実がそのようになってしまっている以上、その現実を前提として考えた時に、次の原子力災害もまた免れないものだろうと思っている。

福島の事故に関しては、千年に一度の災害であったから起きた事故、という意見もあるだろう。だが、そうだとしても、単純に原子力技術が発展した第二次世界大戦後が、たまたま災害的にも安定した時期であっただけかもしれない。福島県沿岸をあの規模の津波が襲うのは千年に一度だっただけであり、それ以外の場所でそれ以外の災害が襲う可能性は、確率論的に低いと言えるとも思えない。

Publication146をもっとも必要とするのは、この文章が生まれた文脈を共有しない、次の原子力災害に直面する未来の人びととなる。同時代の人びとが関心を払うことはない。余計なひと言を書いたのは、そういう理由だ。

成田闘争と「水」問題

隅谷三喜男『成田の空と大地』(岩波書店、1996年)は、成田空港建設にともなう強制土地収用問題をきっかけとして起きた反空港運動と政府との対立から和解へと向かう会議の記録である。

若い世代はもはや成田空港闘争を知らない人も多いかもしれない。

それまで使用していた羽田空港では航空機発着増加に対応できないとして、1962年に新空港建設が閣議決定され、1966年に千葉県の現在の成田空港のある地域が候補地として決定された。その予定地では、地元の農家が生計を立てていた。事前の打診はなく、空から降ってきたような頭ごなしの決定であった。当初は反発した農家もかなりの数が用地買収に応じた一方、一部の強く反発した農家が反対運動に突き進むことになる。ちょうど左翼運動が盛んであった時期でもあり、反政府運動と相まって反空港闘争は大規模化し、国と衝突、結局この本の著者隅谷三喜男氏を座長とする連続的な会議とシンポジウムが開かれる1990年まで、国との対立構造は続くことになった。

今では想像がつかないかもしれないが、私が子供の頃までは、成田空港は過激派のテロに備えて警備は厳重であり、実際に、空港に爆発物が投げ込まれるといったニュースはときおり流れていたと記憶する。

隅谷三喜男氏は東京大学の経済学教授を務めた人であり、政府の委員会等で霞ヶ関とのやりとりも多く、その関係から当時の運輸省事務次官から座長を依頼されたとあった。それまでは、成田闘争に関しては特にかかわりもなく、またそんなに多くのことを知っていたわけではなかった、と記述されている。本文では、空港用地選定から成田闘争に至るまでの記述は、理路整然としていると同時に「農民」に対して非常に同情的であり、国との対話に臨んだ反対同盟熱田派に最大限の配慮をしていることが強くうかがえる。確かに、国、反対同盟双方から承認された事実検証からすれば、明らかに国側に非がある。

時系列を追っての事態の経過を見てみると、国の頭ごなしの決定にはじまる一連の経過は、地権者の農家にしてみれば、急転直下という語がふさわしい事態の急変ぶりである。晴天の霹靂で、自分の土地から出て行けと言われれば、抵抗を感じない人の方がいないと言っていいだろう。このような状況において、黙っていうことを聞け、と言わんばかりの態度を取り続けた国のやり方がまずかったのは明らかである。衝突が拡大していく中、1971年に地元農家の反対派の青年が抗議自殺することになるが、亡骸をおろしながら引き返せないところにきてしまった、と述懐する、当時青年であった反対同盟の仲間の心境記述は痛ましい。人生をこんなことに投じる気はなく、またそうしたいわけでもないのに、激動する状況がそれを許さず、否応なく引きずり込まれていく。これからの人生をこのために費やすことが決定づけられることを理解しながらも、そこから抜け出すことはできない。これさえなければまったく別の平凡で穏やかな人生を送れたであろう未来ある青年が、思い望んだ未来を捨てざるを得ないことを覚悟する。その痛みは、社会の激動の渦に巻き込まれた人間にしかわからないものがあるだろうと思う。また、直接的な交渉相手とはならなかったものの、県の腰の定まらない、他人事のような姿勢も事態を悪化させたこともうかがわれる。

反対運動にもかかわらず、空港建設は強行され、開港される。だが、長く続く反対運動によって、当初、国が想定していただけの空港機能を持たせることはできなかった。そこでにっちもさっちもいかなくなった運輸省が協議の場の差配を隅谷氏に依頼したというのが、この一連の会議の端緒であったようだ。闘争が悪化してから、実に、25年が経過している。座長であった隅谷氏の明晰、かつ情理を尽くし、腹の座った差配ぶりも見事であるが、国、そして反対同盟も途中で投げ出さずによく最後まで協議を続けた、と大いに感心する。なんとしても和解に持ち込みたいとの思いが、双方に強くあったのであろう。ただ、四半世紀におよぶ闘争がなければ、国側が協議のテーブルを用意できなかった、ということに対して、やりきれなさも感じる。空港設置を決める前に、農民側と事前に十分な時間をかけて協議をしておけば、開港まで時間がかかったではあろうが、その後の25年にもおよぶ闘争は起きなかったであろうし、また、最終的には、成田空港はもっと早くに拡張整備ができたかもしれない。当初、10年の時間をかけて協議しておけば、その後の25年が失われることはなかったのではないか。結局、成田空港はその後の滑走路を拡張するのに時間を要し、世界のハブ空港となることはできなかった、との関係者の述懐を別の記事で見かけた。短い期間での目先の成果を追求したために、多大なる長期的な混乱を生んだ挙句に、当初の見込み通りの成果を得ることもできず、さらなる大きな魚を逃した、と言えるかもしれない。

もちろん、私はこれを東京電力福島第一原子力発電所の「水」問題と重ねながら考えている。生業の根底に影響を及ばされる被害を長期に渡って受け続ける層が一定数確実にいるという面から、成田空港の土地収容問題と「水」問題は、構造的に非常に似通っている。成田空港がそうであったように、世論の大多数は、ことが決まれば容易に忘れ、それでよしとするであろう。だが、生業の根底から脅かされる層にとっては、世論の大勢がどうであろうが関係はない。この問題は、世論調査の賛成、反対の数値だけを見て考えていると、状況の帰趨を大いに見誤るタイプの問題である。もちろん、高度成長の軌道に乗り、人口が拡大に向かっていた成田空港建設当時と、その逆に、経済が衰退し、人口減少に向かう現在において社会状況は大きく違う。だが、生業に根底から影響が受ける層がいる限りにおいて、政府は、長期に渡ってこの問題と向き合い続けねばならないことは共通している。成田空港が存在し続ける限りは反対運動と向き合わねばならなかったように。

私は、しつこく協議の場の設定を主張し続けているが、結局、決定前に時間をかけて一定程度の合意を得ておく方が、最終的に、双方が負う傷も、事態の鎮静化にかかる時間もコストも少なくて済む、と思っているからだ。一度、協議の前提となる信頼が崩れれば、その後、再協議を行おうとしても至難を極めることとなる。武力衝突まで起きた成田では、協議を行えるようになるまで四半世紀を必要とした。そこで失ったものの大きさを考えれば、最初に立ち止まって協議しておく方が遥かに賢明であったと考えるのは、当然の後知恵であろう。歴史に学ぶ、というのは、たんに書物を読んで歴史のお勉強をするということではない。過去の教訓を現在の自分の振る舞いにいかに生かすことができるか、だ。

ハラスメント構造とトラウマ

ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復』(みすず書房)の冒頭部は、「歴史は心的外傷をくり返し忘れてきた」という章からはじまる。PTSDという病態は、ベトナム戦争の帰還兵の観察から見出されたという経緯がある。トラウマという概念も、それ以降になるので新しい概念と言える。では、それ以前はどうだったのか、という疑問も当然出てくる。(ここで、トラウマという概念そのものに対する反論もあるようだが、そこはまだ詳しく確認していないので省略する。) この章では、歴史的に「ヒステリー」と呼ばれてきた様態が、PTSDの症状と一致する、という指摘がなされる。つまり、PTSDという診断名がなかっただけで、昔から存在していたのではないかということになる。PTSDは「気持ちの持ちよう」という次元ではなく、脳生理学的な変化をともなうものであるから、人間の社会規範や道徳意識、人間観が歴史上、あるいは文化的に大きく異なるにしても、PTSDと同様の病態は昔から存在したと考えるのは、自然な推論であると思える。

驚いたのは、精神分析医として名を馳せる以前のフロイトが、ヒステリー患者の治療にあたり、そこで心的外傷を見出していたということである。つまり、患者の内因によってヒステリー症状を起こすのではなく、外からの心的外傷をもたらす出来事がヒステリー症状の原因となっている、という事実である。ただ、フロイトはすぐにその説を廃棄する。なぜならば、その原因となった出来事というのは、ほとんどが凄惨な性的虐待(小児時代を含めて)であったからだ。これを認めてしまうと、世の中にこれほどまで「幼小児に対する倒錯行為」が蔓延していることになり、しかも「目下繁栄中のウィーンのご立派なブルジョワ家庭においても蔓延していることになってしまう」。「この考え方は断然まちがっている。信じられるものではとうていない。」 そこで、患者の言葉の真実性は破棄される。

「私はついにこれらの誘惑のシーンは実際には全く起こっていないこと、私の患者たちがでっちあげたファンタジーにすぎないことを認めざるを得なくなった。」

ここで、フロイトは、彼の属する社会秩序に対して不利益になる患者の証言を否認することによって、社会秩序の安定を優先した。ただ、その後、性的虐待にともなうPTSD患者の存在を指摘した研究は、ベトナム帰還兵が社会問題化するまでは、学術世界でも無視され続けていたわけだから、社会的な評価を得るという面では、フロイトの判断は正解だったのだろう。

トラウマや性的虐待の被害の訴えは、その社会秩序を脅かすものとして、社会から存在を否認されてきた、だから、被害を訴えるということそのものが、常にそれを黙殺しようとする(暗黙の)社会規範との戦いにならざるを得ず、自然と政治性を孕んでいくことになる。その経緯が非常によくわかる文章だった。

心的外傷と回復【増補版】 | みすず書房 〈本書はつながりを取り戻すことに関する本である。すはわち、公的世界と私的世界とのつながりを取り戻す本である。レイプ後生存者 www.msz.co.jp

そして、ここのところネット上の炎上案件で、相談コーナーに寄せられたDV被害を受けた相談者を、回答者が嘘つき呼ばわりして罵声を浴びせる、というひどい事案を見て、ああ、まさにこれがこの構造なのだなとまざまざと感じている。

回答者は、自分の信じる社会規範を脅かした相談者が許せず、あのような罵声を浴びせ、かつ、最後には、お前の言うことなどこの社会秩序は真実とは決して認めないと言い放ったのだろう。回答者は、警察も裁判所もおまえの嘘など見破るぞ、と最後に相談者を脅迫したのだけれど、ここで社会秩序を法的に保つ警察や裁判所を持ち出したのは、実に象徴的なことに思える。回答者から見れば、相談者は社会秩序を乱す存在であり、ゆえに社会的に罰せられるべきだ、あるいは法的な庇護外に置かれるべきだとみなしたことが端的にあらわれている。そして、それを「そうだそうだ。嘘つき女は罰せられるべきだ」と一緒になって囃し立てた人たちの姿もあわせて、まるで戯画化したかのように、ハラスメント構造を描き出していた。これほどまでに見事にハラスメント構造を可視化した事例は、他にないのではないかとさえ思う。(最近は炎上案件はあまり見ないようにしているけれど、今回の件はたまたま目に入ってきてしまい、心が凍るような恐怖を覚えた。自分自身が受けた過去の同様な経験がフラッシュバックしている。)

その後に出た謝罪の文章も、相談者が切り裂かれた傷をこれ以上広げられたくないために、必死に回答者に気を使い、ことを荒立てないようにしている様子が見て取れて、心が痛い。そして、その必死の自己防御の言葉を回答者側がそのまま受け取って、自分(たち)は許されたと満足しているところも含めて、ハラスメント構造そのままだと感じている。相談者の傷は、大きく裂けたままで、そこから血が流れ出ているままであるだろうに。(相談者にとっては、もはや恐怖の対象でしかないはずの回答者とこの後に及んで直接やりとりをさせた編集サイドの姿勢も非常に疑問に感じる。あのとんでもない文章を公開した時点で、回答者は「回答者」ではなく、ハラスメントの「加害者」であるし、編集部もまた加害者と言えるのではないだろうか。)

「心的外傷のもっとも特出した特性は恐怖と孤立無援感とを起こさせるその力である」とハーマンの上述の本には書いてあるし、私自身も振り返ってみると、トラウマ症状でもっとも引きずってきついのは、誰も助けてくれない、わかってくれない、という孤立無縁感とそれがもたらす絶望感だ。相談された方が、ひとりだけではない、ということが伝わってくれることを願う。