アカデミアへの不信

2020/10/16 追追記
2017年に出ているこの論文のことをなぜ今になって言い出したのかと思われるかもしれないので、以下に理由も書いておく。確かに、この論文の存在は、1年か2年前から知っていた。
ひとつめには、ここ一年ほど必要に迫られて英語読解をする機会が増え、ようやく英語論文が読めるようになって来たという事情がある。アカデミシャンでもない人間が、自分のことを書かれているからと言って、英語の論文を読んで確認してみようなんそう簡単には思わないのは当然ではないだろうか。英語論文を開いて眺めるのに抵抗がなくなる程度に、英文読解ができるようになったので、思い出して確認してみたら、思っていた以上にひどかった、という事情である。だが、眺めることに抵抗がなくなったという程度で、スラスラと読めるほどではない。明らかに意図的なミスリーディングを誘うことを狙った、ひどい出来の論文を一文一文文意を確認しながら読むのは、はっきりと負担である。

ふたつめには、アカデミアの世界というのは、こういうもんだろう、と思っていたのである。事実無根に近い適当なことをそれらしい概念用語ででっち上げて、一般人である調査対象を貶めるような論文を書いたとしても、立派な学術業績として認めるのが、アカデミアというところなのだ、と諦めていた。実際、日本の大学に所属する研究者でこの論文や著者について好意的に言及していたのも複数回目にしているし、これを容認する業界なのだから言っても仕方ない、と思っていた。だから、Twitterで、問題があると思うので大学や雑誌編集部に連絡してもいいのでは、と言われた時は正直に言って驚いた。そういう手段があることも知らなかったし、異議申し立てをする態勢があることが意外だった。
それで思い出してみると、ここ2,3年ほど、日本人外国人研究者のアンケート調査などに協力して来たけれど、毎回、調査対象者には、調査前に丁寧に説明を行い、同意書を取っていた。ということは、対象者への聞き取りも行わないで、思 い込みで適当なことを書き散らしたAya Kimura氏の論文はもしかしてとんでもなく非常識なのではないか、と今更気づいたわけだ。

非アカデミシャンというのは、こういうものである。手続きがどうなっているのか、窓口がどこにあるのか、そもそも自分の抗議そのものをきちんと受け止めてもらえるのか、そういうことさえわからない。だいたい、私はたまたま英語を読めるようになったから確認できたけれど、そうでなければ、未来永劫書かれっぱなしといことになる。こんな感じで、調査対象者が読めないのをいいことに、適当に書かれた論文もかなりあるのではないか、と感じている。
2020/10/16 追記
Twitterで、ハワイ大学に申し立てを送ることができるのではと助言されたので、10/14付けで University of Hawaii の公開されている学長宛のメールアドレスに倫理方針に違反しているのではないかとのメールを送ったところ、先ほど、担当部署から返信があり、当該論文が添付されていた。事態を深刻に捉えており、論文の内容を確認して返事が欲しいとのこと。その後、次のステップに進むとあった。

また、雑誌の編集部が持っているTwitterアカウント宛に、通知をしてくれた方がいて、編集部からも著者に確認を取っているところだ、との返信があった。

この経過は随時書いていこうかと思っている。

というのは、過去にネットでの誹謗中傷にたまりかねて警察に告訴したら、国家権力による言論の自由の弾圧だと、開き直られ、こちらは被害者にもかかわらず、当該被疑者を擁護する人たちからさらにひどい中傷を向けられたことがあったからだ。

今回も、こちらは被害者にもかかわらず、学問の自由の侵害だと開き直られたのでは溜まったものではない。自分の党派性を振り回して、気に入らないと敵認定した相手を、好き放題中傷したり嫌がらせをしたりするために、言論の自由も学問の自由も存在するのではない。それこそ、言論の自由と学問の自由への冒涜である。

日本学術会議の会員任命にあたってのゴタゴタから派生して、研究者への反感も散見されるが、研究者というよりは、アカデミアという権威体制への反感という方が正確なのではないかと思う。

日本学術会議の件は、純粋に手続論的な問題としておかしいのだから、アカデミアがどうであろうとも、法治国家における法に則った制度である以上、手続きはきちんと踏まえるべきだと私は思っている。そういう前提の上で、アカデミアへの反感というのは共感するところがある。というのは、下のような事情だ。

下記リンクは、ハワイ大学のAya Kimura という研究者が書いた論文へのリンクだ。名前からすると日系人であるようだが、私は面識は一切ないし、接触も一切ない。

タイトル未設定 doi.org

この論文のなかには、私が原発事故のあとにはじめた活動について言及されているらしい。「らしい」というのは、この論文は有料であるから(44USD、日本円だと6,000円くらいは取られるようだ)、私のことが書かれているにもかかわらず、お金を払わなければ確認ができないことになっているからだ。

上に書いたように、私のことが書かれているにもかかわらず、本人からは一切連絡がない。なぜこの論文の存在を知ったかと言うと、ネット上で触れている人がいたのをたまたま見つけたのと、知人の研究者で雑談ついでに教えてくれる人がいたからだ。

論文というのは、研究機関や大学に所属していると、所属機関が出版社と購読契約を結んで、所属する研究者は無料で読めるらしいが、私のような一般人は、論文に勝手に書かれても、自分ではそのことを知ることもできないし、しかも、(のちに書くように)ほぼ事実無根の適当なことを書かれているというのに、自腹でかなりバカ高い購読料を払わなければ、事実確認さえできないということだ。

しつこく言うけれど、Aya Kimura氏本人からは、これまで一切コンタクトがない。つまり、彼女は事実確認を当の本人である私には行っていないのである。研究者としていかがなものかと思うけれど、さらに、人づてに聞いた話だが、彼女は、原発事故のあと来日もしていて、福島にも訪れていると言う。彼女からコンタクトのあった共通の知人が、彼女の認識には多く誤解が含まれているように思うから、絶対に私本人にあって確認すべきだ、と強く忠告したにもかかわらず、彼女は聞く耳を持たず、そして、事実確認さえ満足にしないで一方的に書いて公開したのが、上記の論文ということになる。

そして、どうやら、彼女はアカデミアの世界ではそこそこ評価されているらしい。

私の最大の疑問は、この論文を掲載した出版社や査読者を含めて、彼女を評価するアカデミアの方々は、彼女のしていることを研究者倫理としてまっとうだと思われるのだろうか、ということだ。私は、研究機関にも属さない、これまでも属したこともない、したがって、論文を読むことさえできない被災地に住む一般人だ。(自分なりの努力の成果で、なんとか論文を読める程度には英語読解はできるようになったが。)

それなのに、アカデミアの世界の住民であるAya Kimura氏は、本人に反論さえできないアカデミアの壁に守られた特権的な場所で、誤解に基づいた一方的な論文を公開し、一般住民である私を槍玉にあげて批判している。できるはずの事実確認さえ、勧められたにもかかわらず、意図的に無視しておこなっていない。

こうした被災地の住民に対する嫌がらせかいじめかハラスメントとしか思えないことを、アカデミアの名の下に行うことを、アカデミアの世界では倫理にもとるとはいわないのだろうか。「学問の自由」の名を借りれば、一般人に対して好き放題ハラスメントやいじめを行なっていいとでも言うのだろうか。

論文は、どうにか入手できたので、いずれかの場で反論を書いてもいいと思っているが、書いた本人も、それを評価する人たちも、研究倫理という観念を持ち合わせていないのではないか、と疑っている。「学問の自由」を殺しているのは、政権もそうかもしれないが、アカデミアの中の人もそうなのではないだろうか。


仕事丸投げられ暦戦記

10年めの節目を前に、これまでをいろいろと振り返る機会があって、いままで目の前のことをこなすのに精一杯であらためて振り返ってみるに(とは言いつつ、今もいっぱいいっぱいなのだが)、よくやってきたなぁと思うことが多くある。

とりわけ、外国勢との付き合いは、多くの人に語学的な支援をしてもらいながらだけれど、徐々にハードルが上がって行き、忍者が成長する麻を飛び越えて跳躍力を鍛えるがごとくの鍛えられ方であった気がする。

最初は、通訳付きだったのが、だんだん通訳もなくなり、そのうちに外国人相手に自力で旅費を調達しろだの、ワークショップの英語の議論に参加しろだの、挙げ句の果てには、真夜中に到着した外国のホテルに自分の部屋が確保されていないという真っ青の事態まで経験することになった。私の生まれて初めての英語による電話は、深夜に主催の事務局に電話をかけて叩き起こし、自分の部屋の確認をしてもらうという忘れがたい思い出として記憶に刻まれることになった。(しかもホテルのロビーの冷房はかかりすぎで、震えながらゲストwi-fiを借りてPCのなかの事務局の人間の名前の入ったメールを引っ張り出し、受付にこの人もここに泊まっているはずだから、部屋に電話をつないでと依頼してようやく連絡がついたという。)

これ以外にも、ありえない次元での仕事のまる投げられ体験記は多々あるのだが、ほとんど誰にも話していない。(断片的に、私の「うぎゃー!」とか、「ひー!」とかいう絶叫を聞いている人は少なからずいるだろうが。あれは、ギャグとしてやっていたわけでも、また大袈裟にしていたわけでもなく、本当に絶叫せざるをえなかったのだ。) 秘密にしておきたかったからではなく、事態に対応しているときは、あまりのことに目の前のやっつけに必死で他の人に話す時間的・精神的余裕がなく、終わった後は、普通はありえない事情の全容をわかるように説明するのが大変であったからなのだが、いつか、仕事丸投げられ暦戦記を書いて残しておいてもいいんじゃないかと思ったりもする。

外国人との付き合いは異文化だし、こういうもんなんだろう、と思っていたけれど、先日、イギリス人はそんなことないよ、と言われ、いささか衝撃を受けているところである。もしかして、フランス人だけだったのだろうか、この有様は…。

スティーブ&ボニー(23) スティーブとボニーへ 愛を込めて [了]

到着翌日コロンビア川のドライブの時と同じ、砂漠と果樹園と畑がパッチワークされた景色を走り抜けて帰路についた。帰り道に、土埃の漂うなだらかな丘の合間に見えるプラントのような建物を、これもリアクター、これは確か商用リアクター、とスティーブが指差した。商用リアクターの他にあるのは、軍用リアクターということになるのだろうか。

家に着くと、先ほど会ったばかりの馬飼の息子さんが待っていた。やぁ、お帰り、という様子でにっこりこちらに笑顔を向ける。どうやら今夜は一緒に夕飯を食べるようだ。別れ際に「また後でね」と彼が言っていた理由がわかった。間をおかずに、若い女性ともうひとり若い男性がやってきた。2人とも、なんとなくボニーとスティーブに似ている。スティーブが、自分の子供たちで、みんなここから近くに住んでいるんだ、と紹介してくれた。私の滞在最後の夜のために子供達に声をかけて、一緒に夕食を取ることにしてくれたのだろう。そうそう、こんなこともあろうかと思ってお土産を多めに持ってきたんだった。浮世絵柄の手ぬぐいの残りは3枚。ちょうどよかった。私より年下だろうと思われる娘さんが、日本といえば、私たちこの人を知ってるの、とスマホの画面を示した。彼女のことは追っかけているの、「コンマリ」よ。アメリカで大人気なの。整理整頓の名人で、その整理術がアメリカで大ブームになっていると私が知ったのは、日本に帰ってしばらくしてだった。

昨夜のディナーと同じテーブルで、今夜は家族の食事だ。なごやかに話しながらも、緊張感が張り詰めていた昨夜とは違い、今夜はスティーブもボニーもすっかりくつろいでいるのがよくわかる。私もテーブルの下の蹴り合いを窺う必要もなく、テーブルの上での会話に耳をそばだてることができた。スティーブの子供のうち何人かは教員をしているようだ。クラスにいる移民の子供を地元の子達とどうなじませるか、教育環境がよくないことを話している。そして、教室でのスマホSNSが子供たちにもたらす影響について。SNSによって生徒たちのコミュニケーションが難しくなっていて、大人たちもどんなふうに使われているか把握できず対応が大変だ。教育現場でのSNSの問題は、日本と似たようなものらしい。兄妹の会話の中に、ときおりスティーブとボニーが口を挟む。家族みんなでこちらに気を配りながらも、構うわけでもなく、家族の会話が続いていた。仲の良い、いい家族だ。そう思っているところに、ところで、と娘さんがこちらに顔を向けて、話しかけてきた。あなたが福島でどんなことをしてきたのか聞いてもいいかしら? 少し遠慮がちに、でも、本当はずっとこれが聞きたかったの、と言うように、興味津々といった眼差しをこちらに向けている。すっかり家族の団欒のままで終わると思っていたので、咄嗟に尋ねられてどうしようかと思ったけれど、昨日のインタビューの時に答えた言葉を思い出しながら、説明する。おや、英語話せるんじゃない。そんな様子で、スティーブの子供達は、揃って、好奇心で目を輝かせながら食い入るように話を聞いている。ひと通り話し終えると、感心したとも満足したともどちらとも取れる笑顔を見せた。感想は特になかった。昨日のインタビューの時もそうだったけれど、日本で、あるいはそれ以外の国で、アメリカえ経験したように、言葉どおり「好奇心に目を輝かせ」て話を聞いてくれる人に出会ったことはなかった。これがアメリカのお国柄なのかもしれない。和気藹々 と夕食は終わって、兄妹たちはめいめいの家に帰って行った。彼らとふたたび会うことはきっとないのだろう。一期一会というのは、こういう時のための言葉かもしれないと思いながら、別れの握手をした。

翌朝の飛行機は、早朝の便だった。パスコ空港から日本への国際線のある空港への国内線と、国際線の接続がよくなく、どの空港発着を見ても朝5時代パスコ発の便しかなかったのだった。荷物は夜のうちにまとめ、まだ暗いなか起きて、キッチンでボニーが教えてくれたようにコーヒーマシーンでコーヒーを作って飲んでいると、スティーブが起きてきた。準備ができているなら出かけようか。いつものように素っ気なくそう言うと、車に荷物を積んでくれた。朝早いから、ボニーは起きてこないようだ。心の中で、ボニーにお別れを言った。来た時と同じ道を辿って空港へ向かう。早朝だと言うのに、交通量はそこそこある。アメリカのなかでも、経済活動が活発な地域だけある。ボニーと車に乗っていた時に、経済も順調だし、出生率も高いし、治安も良くて、とてもいいところだと説明されたことを思い出した。それなら、課題はなに?と尋ねたら、高等教育機関がないことだ、と答えが返って来たのだった。日本でいえば短大のような短期で実用的な知識を教えてくれる教育機関はあるけれど、大学のような高等教育機関がなく、そのために若い人は別の街に出なくてはならないとのことだった。ここが学校よ、とボニーが教えてくれた場所の脇を通りぬけながら、そのやり取りを思い出していた。スティーブとは、会話はあまりしないのが常だったけれど、空港へ向かう道すがらは、特に言葉少なだった。沈黙の車内から白みはじめた景色を眺めているうちに、空港に到着した。

小さな空港だから、カウンターでオンラインチケットを見せて荷物を預ける搭乗手続きは、あっけないほどあっという間に終わってしまった。ここにあるゲートを入って搭乗待ち合いに向かえば、スティーブとはお別れだ。ゲートの入り口前で、スティーブにお別れを言おうと向き合った。私が口を開くより先に、スティーブは、手を大きく広げて、私をギュッと抱きしめた。今度は躊躇いなく一気に強く腕に力を込め、そして、前と同じように不器用な、心のこもったハグだった。私は、このハグを一生忘れないでおこうと思った。こう言うときは、なんて言えばいいんだっけ。そう、Thank you for everything だ。慣用的な表現というのは、概して惰性や陳腐化がつきもので、表現としては平凡極まりないのだけれど、ごく稀に、その纏わりついた陳腐さを突き破って、その言葉が最初に発された時に持っていたに違いない輝きを発揮することがある。この時は、きっとそうだった。他のどれだけの言葉を費やしても、この時の私の感情は伝えきれなかっただろう。Thank you for everything.  最初に空港に私を迎えた時の、気もそぞろの握手を思い出した。これが1週間の短い、そして濃厚な時間で、私たちが築いた関係なんだね。ボニーにもよろしく伝えて。メールでまた連絡をとろう。きっとだよ。手を振って別れて、国内線へ向かった。そうして、往路の機内食で懲りた私は、日本に戻るまでは飲み物以外は口に入れないと固く心に決めて、飛行機に乗り込んだのだった。

日本へ戻ってから、ごくたまにスティーブとはメールをやり取りしている。メールでの彼は、会っていた時よりは言葉が多い気がするけれど、私の方が、なにを書いていいかわからなくて、やっぱりそっけないやり取りになってしまう。でも、本当は、伝えたいことがある気がする。

ティーブ&ボニー。
私が、あなたたちの住むところから日本に戻って来て、ずいぶん時間が経ちました。あれからも、あなたの国のニュースは毎日のように私たちの目にも入って来ています。SNSをとおして、しばしば悲鳴のような声も聞こえて来ます。それを見るたびに、私はあなたたちのことを思い出しています。心やさしいDemocratであるあなたは、今もきっと毎日のニュースに胸を痛めて、そして、それでも、あなたの戦いを続けているのではないか、そんな風に想像しています。
日本での暮らしは相変わらずです。とは言っても、どんな風に「相変わらず」なのかも、あなたにはお伝えしていませんね。ここでの暮らしをあなたにどんな風に伝えればいいのかわかりませんが、快適で行き届いているけれど、どこか息苦しさの拭えないこの国での暮らしを、あなたなら窮屈でたまらないと思うかもしれません。この国の湿度と狭苦しさに倦んだ時、なぜか無性にあなたが連れて行ってくれた、砂漠に囲まれたコロンビア川の川べりが懐かしくなります。砂埃に洗われ渇いた大地で、かさかさに乾き切った唇で、素足のまま歩くあなたの姿を思い浮かべ、そして、眼下に見渡せるBリアクターを思い浮かべます。灌漑によって作り上げられたウォルトさんの豊かな葡萄畑を、彼の庭から見える雄大な丘陵の景色を、それを眺めるウォルトさんの満足そうな笑顔を、青々とした芝庭を思い出します。
ティーブ&ボニー。
初めて友人になったアメリカ人があなた達であってよかった、と心から思っています。今日も、忌々しいほどの悪いニュースばかりが世界中から、あなたの国から駆け巡って来ます。けれど、親愛なる友人のあなた達の眼差しを通して、あなた達が愛するように、私もあなた達の国を愛せると思うから。
またいつか、あなた達と一緒に砂漠のドライブに出かける日が来ることを夢見ています。

親愛なるスティーブ&ボニーへ
心からの愛を込めて

Ryoko

画像1



スティーブ&ボニー (22) ゲニウス・ロキの生まれるところ

次の日の朝は、スティーブとボニーは私が疲れていると気を使って、声をかけないでいてくれたみたいで、遅めに目覚めた。結局、この日まで時差ボケはスッキリとは治らないままで、熟睡感はないままだった。丹羽先生やジャックは、早朝の飛行機で出立したはずだ。私は、スティーブに馬を見せてもらう約束になっていた。なぜ馬なのかはよくわからないけれど、知り合いが馬を買っているんだけれど、見たい?とスティーブが尋ねるので、見せてくれるならなんでも!と返事をしたのだった。

どこか他に行きたいところがある? と尋ねられたので、スーパーマーケットが見てみたい、と頼んでみた。スーパーの棚を眺めるとその国の暮らしの様子が何となく見えて来るようで、海外に行って時間があるときは出かけて眺めるようにしているのだ。それならボニーに連れて行ってもらうといい。ボニーと二人で車に乗って5分ほどの近所のスーパーに出かけた。平屋のスーパーは、日本の地方にあるスーパーマーケットと面積的には同じようなものだ。野菜コーナーには、みたことのない種類も多少はあるものの、最近は日本でも新しい種類の野菜がどんどん増えていることもあって、さほど大きな違いは感じない。あとは、飲料品など加工品のサイズが、日本と比べれば巨大で、箱買い標準で並べてあるのは大きな違いかもしれない。ケーキ売り場に行くと、日本ではまず見かけない、カラフルで派手なケーキが並べてある。だが、それ以外はと言うと、拍子抜けするくらい日本でも見かけるようなものしかおいていない。例えば、韓国であれば、調味料、フランスであれば、スープのもとやビスケット、チーズなど、日本ではお目にかからない面白い食材があって、お土産に買ったりもするのだけれど、アメリカの棚は、日本のスーパーでも類似品があるからわざわざ買う必要はないな、と言うものばかりなのだ。日本がアメリカの真似をしてきたせいなのかもしれないけれど、高度消費社会も行き着くところまで行くと、どこに行っても同じものばかり並ぶことになるのかもしれない。そういえば、日本の友人が、アメリカはお土産に買うものがないんだ、と言っていた。

スーパーを一回り見終えると、今度はスティーブも一緒にお出かけだ。まずはワイナリーに連れていってくれると言う。ロータリー交差点の出口を何回か間違えながら、倉庫を併設したこじんまりとした建物に到着した。入口前には藤だろうか、蔓性の植物でパーゴラ仕立てにしてあって、ハロウィンに向けてなのか、フードを被った骸骨のユーモラスな顔をした空気人形が置いてある。店の中は洒落た雰囲気で、試飲カウンターもある。試飲して、気に入ったのを選ぶといいよ。スティーブがカウンターの女性に尋ねてくれる。店内に貼ってあるワイン作りのプロセスの写真を見ながら、女性の説明を聞く。収穫した後のぶどうは、なんとトラクターの大きなシャベルでそのまま醸造用の大きなタンクに入れてしまっている。そこから機械で選別するようだ。ワイルドだ。そして、味付け。このワインは、甘みをつけるために梨を加えてあります。甘みが足りなければ加えればいい。なんて合理的な発想だ。テロワールだとか、熟度を見計らうとか、一粒一粒手摘みで選別して、とか言って作られているフランスワインを愛好しているフランス人のジャックがこの場にいたら、眼を向いて、卒倒してしまうかもしれない。何種類か試飲をしてみると、フランスのワインとは味は違うけれど、美味しくないと言うわけではない。まったく違う種類の飲み物だと思えば、これはこれで悪くない。試飲したうち気に入ったものを、一本はあなたに、一本はあなたの夫に、とスティーブが2本買ってくれた。

そこから、ふたたび車に乗って、15分ほどハイウェイを走らせる。いよいよ目的の馬だ。「馬を飼っている知り合い」と聞いていたけれど、どうやらそれは、スティーブとボニーの息子のことのようだ。馬を飼いたくて、少し街場から離れた田舎に暮らしているのだと言う。ただ、周囲の丘陵には、豪邸と思しき住宅地が広がっている。ここ最近大規模に開発されていっているもので、前は、ただの丘だったんだ。誰が住むの? 都会の金持ちのセカンドハウスが多いみたいだ。自分たちには手の出ない、とんでもない価格で売ってるよ。ここから飛行機で2時間ほどの沿岸シリコンバレーあたりのIT産業やベンチャー企業で成功した人たちが、田舎に寛ぐための別荘地として開発されたのかもしれない。トレーラーハウスのような建物と、馬小屋と思しき質素な建物がある空き地に車は止まった。下りて歩いていくと、木柵で囲ったちょっとした広場になった空間の中に、馬が一頭、それからスティーブによく似た若い男性が一人いる。民主党の集まりで一緒した息子さんだ。そこは馬の練習場になっているようで、馬が走って乗り越えるのだろう、木材を渡した低いバーも作ってある。スティーブの息子が、馬と一緒に走って、バーを乗り越えて走る様子を見せてくれた。厩舎に入ると、表にいたのとは違う馬が3頭いる。何等いるのかと尋ねると、全部で7頭も飼っていると言う。驚いて、何のためにそんなにたくさん飼っているの? レースに出るとか? と尋ねてみたけれど、ただ好きで飼っているだけなんだそうだ。スティーブの話だと、馬の世話があるので、彼ら一家は旅行に出かけることもできない。ただ、移動に数日もかかるずいぶん離れた場所だけれど、馬も一緒に泊まれる海岸沿いの大きな公園があって、休暇の時に、トラックに馬を乗せて家族でしばらく遊びに行ったりすることはあるみたい、ボニーが付け加える。そこでは、海岸を馬を駆けさせることもでき、馬仲間との交流もできるらしい。趣味として馬を七頭も飼 育しているのにも驚くけれど、その馬をトラックに乗せて旅行に出かけるというのもさらに驚きだ。犬を1匹連れて旅行するだけでも大変な日本では考えられないスケール感だ。

また後でね、と挨拶をしてスティーブの息子と別れて、最後に自分でぶどう畑を買って、ワイナリーをはじめたスティーブの友人の家に寄っていくことになった。最初の日に飲ませてくれたワインを作っている友人だ。乾いた丘陵とコントラストをなすように灌漑設備によって整然と区切られた畑とで、緑と茶色にパッチワークされた大地を車でずっと走り抜けて行く。途中で、舗装されていない細い側道に入ると、両脇は背の低い葡萄畑がずっと広がっている。今年はもう収穫が終わってしまったから、ほとんど残っていないけれど、自分も収穫を手伝いにきたんだ。やがて、ぶどう畑の突き当たりで一軒の家に到着した。車から下りると、玄関から男性が一人出てきた。やぁ、また会ったね。笑顔のその男性は、昨夜、ディナーをご一緒したウォルトさんだった。ワインを作っている友人というのは、ウォルトさんのことだったのか。大きな犬が玄関から一緒に走り出てきた。このぶどうは食べるように少しだけ残っているもの、食べてみる?とお皿に乗ったぶどうを差し出す。犬に吠えられながら、ぶどうを片手に、建物の脇の庭を案内してくれた。ぶどうの粒は小さいけれど、砂糖菓子のように甘い。青々とした芝庭に囲まれた平屋建の家は、ぶどう畑からわずかに低くなっていて、敷地全体がそのままなだらかに下がっていく。ぶどう畑そのものも、建物に向かってなだらかに下り斜面になっているようだ。

ここからの眺めが素晴らしいんだ。芝庭から眺めてみると、眼下には豊かな水をたたえた川がほとんど直線に流れている。川に沿って道路が走り、赤いトレーラーが走り抜けていく。対岸には鉄道も川に並走している。その向こうには、整備された農地が広がり、樹木に囲まれた建物が点在している。そして、農地の向こうには、茶色い地肌のままのなだらかな丘が広がる。農地の緑と丘の地肌の茶色のコントラストを、青い空とその空を映した流れが挟み込むように包んでいる。あの大きな丘の裏側には、今また広大な葡萄畑が整備されているんだ、とウォルトが説明してくれた。とんでもない広さで、自分の畑なんて比べ物にならない規模だよ。

雄大というのは、こういう景色を言うのだろうか。3人でしばらく眺めた後、ウォルトさんが、笑顔で尋ねる。ここの景色は、日本と比べてどうだい? 日本にはこんな景色はないから。とても広くて大きくて、スケールが違う。とても素晴らしい景色ですね。そう返すと、ウォルトさんは、この上なく満足そうな笑みを浮かべた。私は、砂漠のピクニックに向かう前にスティーブが言っていた言葉を思い出していた。緑豊かなニュージャージーで生まれ育った彼は、乾いたこの土地が最初は嫌でたまらなかったけれど、いまではここが世界で一番美しいと思う、彼はそう言っていた。ウォルトさんもきっとそう思っているに違いない。

福島で私が知る農家の人たちのことをふと思った。郷里を避難区域に指定された彼らは口を揃えて、自分はこの農家の何代目だ、先祖はいついつからここに住み着いていると説明した。この土地を次の世代に受け継ぐのは自分たちの使命だ、と。執着とも愛着とも呼べるような土地への想いは、街場育ちでよそから移り住んできた私には理解しきれないものがある、と思ってきた。土地とともに生き、土地とともに死んでいく、そんな生き方はもともとその場所で育った人間しか知り得ない価値なのだ、と。だが、いま、自分の土地を前に至福の表情を見せるウォルトさん、移り住んできて数十年にしかならないウォルトさんと彼らの間に違いはあるのだろうか。同じように土地を耕し、同じように土地を愛し、その地での暮らしを慈しむ。

ゲニウス・ロキ

ウォルトさんの満ち足りた表情を眺めていて、ふとその言葉が浮かんだ。
不思議なものだ。この土地は、もとは先住民の土地だった。まず、植民者である白人が彼らの土地を奪った。そして、第二次世界大戦が始まり、ハンフォードサイト の建設に伴って、その植民者も国家に土地を奪われた。原子炉操業の過程では、放射性物質が流出し、土地が汚染されたこともある。その場所で、ハンフォードサイト稼働の末裔であるウォルトさんが、畑を耕し、その土地を暮らしを心から慈しんでいる。ハンフォードサイトの建設に伴って立退きを迫られた白人の一部は、強く抵抗し、建設を妨害する実力行使さえ行ったという。土地を守るために、国家に挑んだ戦いを記したハンフォードサイトの記録文書は、彼らに対する敬意さえ感じさせるものだった。ウォルトさんはどうだろうか。この土地が脅かされそうになれば、守るための戦いを挑むだろうか。そうするかもしれない。福島で、奥歯を噛みしめるように土地の歴史を語った彼らの、事故後の静かな戦いと同じように。奪い、奪われ、そのために憎み、戦う、それでも土地を愛することをやめない。その人間の営みを、古代の人びとはゲニウス・ロキと呼んだのかもしれない。福島のゲニウス・ロキたちにこの土地を見せてあげたい。彼らはなんと言うだろうか。丘の向こうに傾く夕日に照らされた芝庭で、そんなことを思った。


スティーブ&ボニー (21) 宇宙語で話す

参会者が三々五々に散っていくロビーで、坂東先生を見つけた。もうひとり、日本人の男性も一緒にいる。やはり今回の会議に参加するために日本から来たのだという。この会議は、なんだか学術的な集まりとも思えない、不思議な雰囲気でしたね、と誰からともなく感想を言い始める。私の知っている参加者は、皆同じような感想だったから、アメリカ国内の会議としても異色なのは間違いないのだろう。

日本人3人で雑談していると、ちょっといいですか、と白人男性が声をかけて来た。自分は、今回の会議の記録撮影をしているんだけれど、あなたのインタビューをこれから撮影させてもらえないだろうか。福島の様子やここに来ての感想を話して欲しい。それは構わないのだけれど、私は英語がそんなに喋れないんだけれど。ためらいがちにそう返事すると、そんなの問題じゃないさ! じゃ、これから準備をするからちょっと待ってて!とあっという間に話は決まってしまった。

スポンサーに出資してもらっている以上、なんでも協力をするつもりではいるけれど、そうは言っても私の英語力じゃ、と横にいた坂東先生にこぼすと、あんた、そんなん気にする事あらへん!アメリカは、喋ったもん勝ちなんや。意味が通じるとか通じないとか関係ない。文法も発音もめちゃくちゃでも意味が通じんでも構わん。とにかく喋ればいいんや!と言う。いくらなんでもそれは、と思ったけれど、横にいた男性も一緒になって、坂東さんの言うとおりですよ。なんなら英語じゃなくても日本語でも、誰もわからない言語でもいいんです。とにかく喋ってアピールした人が偉い、それがこの国なんですから! と声をあわせて言う。アメリカ在住経験のある二人が一致してそう言うのなら、きっとそうなのだろう。何語でもいいと言われても、私に喋れるのは日本語と片言の英語だけなのだけれど、郷にいれば郷に従え、だ。

撮影の準備ができたと声をかけられ、別室に案内された。インタビュアーの他にカメラマンもいて、本格的なカメラとマイクが用意されている。じゃ、自分が質問するからそれに答えてくれるかな。にこやかにインタビュアーが質問をする。事故の後の福島の様子はどうでしたか? 何が問題になったのでしょうか? いきなり宇宙語で話すわけにもいかず、なるようになれ、と英語で考え考え回答する。坂東先生も日本人男性も身を乗り出すようにして見ている。意味が通じなくても構わないと言われたので、吹っ切れたのかもしれないが、私にしてはちゃんと英語で喋れている気がする。インタビュアーもカメラマンも目を輝かせながら話を聞いている。それで、あなたが具体的に福島でして来たことは? 発表したのと同じようなことを説明する。大きく頷きながらインタビュアーは話を聞いている。こんなに目を輝かせながら、自分の話を聞いてもらったのは初めてかもしれないと思うくらいだ。最後に、アメリカの人に伝えたいことは? もちろんここは笑顔で、ぜひ福島に遊びにいらしてください。お待ちしています。だ。

正味30分くらいだったろうか。最後は、映画撮影の「カット!」と言う音声が入りそうなくらいのノリノリの雰囲気でインタビューは終了した。素晴らしいインタビューが撮影できた。本当にありがとう!と笑顔で握手する。ところで、自分も昔、日本にいたことがあるんだ。ネイビーにいてね。日本のどちらに?と尋ねる。 長崎だよ。そういえば佐世保に米軍基地があった。休暇の日に、長崎の平和公園に出かけたんだ。そこで、あの彫像を見たんだ。そう言って、彼は片手を上に、片手を水平に伸ばした長崎の平和祈念像のポーズをとって見せた。見た瞬間に、雷に打たれたような衝撃を受けたよ。そして、ものすごくよくわかったんだ。被爆者たちが何を願い、何を求めてるのか。祈りが、直接自分の胸に入って来たんだ。よく覚えているよ。今も忘れられない。その時の感激がそのまま蘇って来たかのように、彼は熱を込めて語った。

今回の旅で、ネイビー出身の人に会うのは3人目だ。国外に出かけることも、関心を持つことも少なさそうな、広いアメリカに住んでいて、日本にある駐留米軍基地は、アメリカを日本と繋げる文化的な窓口になっているのかもしれない。

坂東先生やインタビュアーと別れ、スティーブの運転する車に乗って帰路に着いた。ボニーは先に帰って、お客さん用のディナーの用意をしているから、とスティーブが言う。そう言えば、自宅の夕飯にジャックを招待したと言っていた気がする。家について、玄関から入ると、既に丹羽先生とジャックがキッチンにいた。しかも、クリスまでいる。ボニーは、お客さんの対応をしながら、オーブン焼きの鉄板にピーマンを並べ、メレンゲのようなものをまわりに注いでいる。それと並行して、流しでサラダ用の生野菜を洗い、グリルの上ではお肉を焼いて、と慌ただしそうだ。そうこうしているうちに、玄関からさらにお客さんが入ってくる。アラン夫婦と、ウォルト夫婦だ。まさかまたアランに会うことになるとは思ってもいなかった。アメリカ人側は、ピクニックに出かけたときと同じメンバーだ。不思議なことに、総勢10名がキッチンに立ったまま、めいめいにワインを片手に、ボニーが焼いているお肉がグリルで焼けるそばからそのままつまみ、キッチンカウンターに並んだサラダを立ったままお皿にとって食べている。横には広い居間も、大きなテーブルが置いてあるダイニングもあると言うのに、これがアメリカ流のもてなし方なのだろうか。それぞれが好きなように雑談しながらなので、キッチンはごった返している。

ひとしきり歓談が進んだところで、料理の準備ができたようだ。隣のダイニングのテーブルに移るように促された。全員が腰掛けて、和やかに乾杯の音頭が取られた。ずらっと並んだ面々は、皆さま、なんだか立派な肩書きを持った方ばかりで、このメンバーでの食事に私が加わっているのは、われながら不思議に思える。奥様方も加わって、料理のこと、ワインのこと、Bリアクターの訪問の話で盛り上がっている。なんのきっかけか、放射線の人体への影響メカニズムについて話題になったようだ。丹羽先生が、DNAに及ぼす最新の研究についてなのだろうか、話し始めた。ところが、その場にいるなかで、生物学に詳しいのは丹羽先生ただ一人だ。おかまいなしに丹羽先生は、夢中になって生物学の話を続ける。最初は頷いていた一同だが、だんだん怪訝な表情になり、しまいには、全員の頭の上にはてなマークがたくさん浮かんでいるのが目に見えるような状況になってしまった。途中までは相槌を打っていた皆も途中からは止めてしまい、最後まで付き合っていたアランが口をつぐむと、喋っているのは丹羽先生ただひとりだ。その場のはてなマークがどんどん膨らんでゆく。最大級に大きくなったところで、丹羽先生がひと呼吸置いた。すかさずアランが口を挟む。「どうだい。そろそろ共通の言葉を話そうじゃないか?」。「共通の言葉」と言うのはその日のシンポジウムでクリスが発表で使っていた言葉だ。皆、安心したようにどっと笑い、丹羽先生は頭をかいた。

それにしても、この人たちは、ついさっきまでLNTや基準をめぐって火花を散らすバトルをしていたのだ。今だって、互いに心を許していないのは間違いない。それなのに、実に文句のつけようのない、スマートで感じのいいディナータイムじゃないか。これが外交交渉の喩えで時折きく「テーブルの上で握手をし、テーブルの下で蹴り合いをする」と言う奴に違いない。そう思って、そっとテーブルの下を覗いて見たけれど、脚はお行儀よく椅子の座面から床に下ろされており、さすがに蹴り合いはしていないようだった。

キッチンルームで立ち話をしていたのに比べて、ダイニングテーブルに移ってからの食事はテンポよく進み、あっさりとしたフルーツのデザートを摘まむと、早々に解散になった。フランス人たちと食事するときと比較すると、倍速か三倍速くらいのペースだ。礼儀正しく挨拶をして別れ、私は地下室の寝室に入り、長い1日が終わったのだった。


スティーブ&ボニー (20) 絶望のような希望

発表は終わったものの、あともうひと仕事、パネルディスカッションのパネリストが残っている。パネリストは、私と丹羽先生とアメリカ人のEPA打倒に燃えている研究者に、司会役のアメリカ人が一人。低線量被曝における防護政策に関するパネルディスカッションと題されていたものの、打ち合わせ内容を聞いていても、それぞれ問題意識はバラバラであるように思えた。実際のところ、いったい何を話し合いたいのかも掴めないまま、壇上に用意されていた席に腰掛けた。

とりあえず横には日本語のわかる丹羽先生が座っているし、パネルトークの冒頭に一人3分ずつ割り当てられているスピーチ原稿も用意してある。他のパネリストはEPA闘士の研究者の人が喋りたくてたまらないようだし、最悪、冒頭だけスピーチして、あとはちょこんと席に収まっていればいいわ、と気楽に構えることにした。

3分ずつのスピーチは、自己紹介と話題提供を兼ねて、と言う以外に内容については詳しくは指定されていなかった。私が用意したのは、日本政府の出した原発事故後の避難措置における規準の運用の実態についての説明だった。事前のアランとのやりとりの様子では、この主催の原子力関係者の間では、日本政府の避難指示基準が低すぎたために、避難措置による弊害が大きくなってしまったと主張したいのであろうことが察せられた。そして、その「誤った」避難指示規準の元になっているのはICRPの勧告であるから、ICRPの勧告を変えるべきである、彼らがそう主張したい様子はありありと窺えた。

実際のところどうであったかと言うと、日本政府の出した避難措置においては、ICRPの基準はほとんど関係していない。公的な文書ではICRP勧告の数字を基準としていると説明してあるが、実際の運用においては、日本政府が基準と実測値を満足に扱うことができなかったため、ICRPの勧告から借りてきた数値はただの「飾り」であるだけで、あってもなくても日本政府の出した避難措置に大きな影響はでなかった、その程度のものだった。仮に、日本政府が本当にICRP勧告に則った基準で施策を打つことができたのならば、基準は時間の経過とともに段階的に引き下げられたであろうし、またその一方で、解除はもっと早期になされたはずだ。

アメリカ国内での日本への関心の薄さから考えると、こうした経緯を把握している人はほとんどいないと考えていい。それでいて、彼らは、避難の弊害がICRPのせいだと文句をつけたくて手ぐすねを引いて待ち構えている。ICRPの幾人かのメンバーは、福島の事故後、はるばる海外から福島に繰り返し通い、そこで起きた問題がなんだったのか、地元の人にとって重要なのはなんだったのか、大多数の日本人よりも真剣に知ろうとし、耳を傾けてくれた。それなのに、福島に足をほとんど運んでもいやしない、アメリカの原子力関係者に誤解に基づいて非難されるのではあんまりというものだ。ひと言、釘を刺しておこう。そういう狙いで、次のような文章を用意しておいた。

TEPCONPP事故に際して日本政府がとった避難措置は、大きく二つの段階にわけられます。一つ目は、事故直後の緊急避難措置です。この時の避難指示は、政府・原子力安全委員会が事前に定めていた「原子力施設等の安全指針」に基づき、外部被曝の予測線量が50mSvを超える地域に対して避難指示が出されることになっていましたが、実際には原子炉近辺の計測器が損壊し、測定不能になっていたため、線量の予測もできず、距離によって半径20km圏内に避難指示が出されました。避難指示区域は、その後何度か再編をされますが、放射線量の測定が行われ実際の線量がわかった後も、半径20km圏内については、維持されました。

二つ目の段階が、避難指示解除です。避難指示の解除がはじまったのは、2014年4月の田村市都路がはじめてです。2017年4月までに、帰還困難区域を除く区域はほぼ解除されましたが、2014年4月の田村市の避難指示解除までに、事故から3年が経過しています。避難指示の基準は事故前に決めてありましたが、避難指示解除の基準は設けておらず、2011年12月に定めた解除の基準が信頼されなかったことが足を引っ張りました。政府の定めた避難指示解除の放射線量の要件は、「年間20mSvを十分に下回ること」です。放射線量だけであれば、20mSv以下は避難指示区域の多くを占めており、すぐに解除してもよかったはずなのですが、避難解除にあたって賠償制度が打ち切られること、放射線に対する危惧などから、避難指示を解除するためのもうひとつの要件であった自治体と住民の合意を得ることができませんでした。福島の避難指示が長引いたのは、放射線量の基準が機能していなかったからであって、政府の定めた放射線量の基準そのものが過剰に低かったためではないということには注意が必要です。

まず、丹羽先生が、自己紹介として「研究しか知らなかった愚か(stupid)な研究者である自分が、原発事故後の福島に暮らして、地元の人と触れ合って、いかにコミュニティの重要性を学んだか」という話を始める。研究者の集まりで福島の原発事故について話すよう依頼される度に、丹羽先生はこれを持ちネタにしているようで、私はトータルで3回か4回はこの話を聞いている気がする。この話の最後は、毎回、次のような決め台詞で締めくくられる。「研究者である前に、コミュニティの一員であれ」。それに対する聴衆はというと、これもまたいつものパターンで、皆ポカーンとしている。それはそうだろう。数値と専門用語がたくさん並んだ学術的な内容を期待していたら、出てくるのは、福島の人々や暮らしがいかに素晴らしかったか、温泉の魅力とか食べ物が美味しいとか、そんな話なのだから。

私のスピーチの番になった。原稿を読みながら様子を窺っていると、先ほどの発表の時よりは、聴衆の反応がいい。真剣に聞いている様子が感じられる。最後まで読み上げて見渡すと、心持ち、会場の空気が変わっている気がした。痛いところを突かれたというのだろうか、気勢をそがれたというのだろうか、あるいは、人によっては腑に落ちたというところかもしれない。この反応から察すると、予測していたとおり、少なからぬ参加者は、日本政府の出した避難指示と放射線基準の関係について、よく理解しないままになんらかの関心は持っていたのだろう。

何はともあれ、これで私はミッションほぼコンプリートだ。あとは、ほかのパネリストの皆さんにおまかせだ。脇では、EPAの基準の不合理についてアメリカ人研究者が延々と話している。おそらく、指定された3分はとっくに過ぎている気がするか、パネルディスカッションの司会が静止しないのならそれでいいのだろう。自分の出番が終わったあとは、こんな調子でほとんど放心していたのだが、会場からの質問時間になったときに、福島における「スティグマ」についての質問が飛んできた。スティグマとは、原発事故によって自他にもたらされた負のイメージと言ったところだ。日本では「風評」という言葉で言い表されることが多い。事故直後に溢れかえった煽情的な報道による影響がいまだに解消されず、日本でも問題になっていることが丹羽先生から説明された。何か付け加えることは、と促されて、私も考えていたことを付け加えた。

スティグマは確かに大きな問題とはなっていますが、ただ、これはもう仕方がないと思います。私は広島で生まれ育ちましたが、広島も同じようなスティグマを抱えていました。けれど、戦後70年経って、いま、広島のネガティブイメージは払拭されつつあります。広島出身と言った時、かつては、負のイメージで捉えられることもありましたが、今では、羨ましがられることの方が多いです。これを参考に考えれば、福島もすぐにはスティグマの解消はできないと思います。でも、半世紀以上先、よりよい未来を作ることができれば、福島のスティグマも広島と同様に明るいものへと変えることができると思います。

もはやすっかり放心してしまったあとだったので、自分のたどたどしい英語で説明する気力がわかず、横にいた丹羽先生に通訳をお願いするというとっておきの裏技を使わせてもらった。

ひとたび起きると取り返しの効かない事象というのは、確かに存在する。原爆投下がそうであったし、また原発事故もそうだ。巨大な負の出来事によって生じたスティグマが一朝一夕で消え去ることはないだろう。だが、それが将来に渡って未来永劫続くというわけでもない。Hiroshima とアルファベットで表記された文字列は、今や、どこか誇り高くさえ見える。多くを語らずとも、その文字列を見るだけで、多くの人たちが、惨禍を克服し、世界に向けて平和の価値を発信する都市を思い浮かべる。Fukushimaがそうなるかどうかは、これからにかかっていると私は思っている。

そこまで伝えられたかどうかはわからないが、こうして、私は晴れてお役目完了となったのだった。清々としながら壇上から降りて、会場を歩いていると、何人かの人から、発表がとてもよかったと声をかけられた。アメリカのEPAの女性(オーストラリアでも会ったことがあった)、そして、イギリスのインペリアル・カレッジ・ロンドンのジェリー・トマスさん。昨年の私のオーストラリアの発表は、彼女の推薦だった。トマスさんは、これから飛行機の時間だからと慌ただしく荷物を抱えながら、「あなたの英語、完璧に素晴らしかった!」とウィンクした。私は、それは原稿を用意してくれた友人の英語が素晴らしいから、と言おうかと思ったのだけれど、トマスさんは急いでいるようだし、とりあえず、私の発音でも意味は通じたということにして、お礼だけを伝えた。何はともあれ、会場の中で、スティーブとEPAの女性とトマスさんの3人は私の発表を理解してくれたわけだから、よかった。

会場は、そろそろ締めくくりに向かい、主催関係者たちのまとめの議論が始まっていた。一番最後のスピーチに立つのは、主催のアランだ。彼は話し慣れた様子で、リズムよくスピーチを始めた。冗談を言って笑いをとって、軽くウィンクする。要所要所で、手振りもまじえて、研究者の演説というより、ニュースで見たアメリカの大統領選の選挙演説のようだ。話が盛り上がったところで、彼は急に声のトーンを下げて、深刻そうな表情をして見せる。とてもショックなこともある。福島の原発事故だ。自分たちにとっても事故はもちろん衝撃的だった。けれど、犠牲者の数を見てみようじゃないか。実際の事故で亡くなった人間はいないのに、関連死で2,000人を超える人が亡くなっている。津波の被災地ではほとんど亡くなっていないというじゃないか。これは放射線に対して過剰な恐怖心を抱いて、必要のない避難をしたからじゃないか? なんてことだ! 手を額に当て嘆くようなジェスチャーを加え、彼は、ボルテージを上げていく。そして拳を振り上げ、テンポを上げて大きな声で聴衆に呼びかける。我々は、放射線への誤解を解くように努めていくべきじゃないか? そうだろう? これこそ我々の使命だ! 会場は拍手喝采、指笛が鳴り響いてもおかしくない歓声に包まれた。私は会場の一番後ろから高まっていく熱気を見ていた。ふと横を見ると、ボニーも編み物を持ったまま、両手を上にあげて力を込めて拍手をしている。

私は、やっぱりアランには、私の言葉は何一つ届かなかったんだなと思いながら、黙って会場の様子を見ていた。震災関連死は、震災に関連して病気などが悪化し亡くなったと認定された人の数だ。宮城、岩手などの津波被災地では増加していないにもかかわらず、福島では増加し続けているということで、大きな問題になっている。ただ、この人数は、正確には、震災関連死認定に伴って支給される災害弔慰金の請求のために自治体に申請された人数だ。自治体によって基準も違うし、また、津波被災地の自治体では、関連死の申請そのものを早々に打ち切ったところも多くある。原発事故による避難の影響がないとは言えないし、また影響が全くないとも思わないが、一方で、この数は、必ずしも実態を正確にあらわしているとも言い切れず、数字だけが一人歩きしていることに対して私は以前から危惧を持っていた。

それをこの場で伝えるだけの英語力は、残念ながら私にはない。そして、根本的なことをいえば、彼らは別に福島の震災関連死の犠牲者に関心があるわけでもないのだ。彼らが興味があるのは、数値と彼らの信じる「科学的に正しい」基準とやらだけで、科学的に正しくないことで亡くなった人がいることだけが問題なのだ。私は、避難の過程で亡くなった「震災関連死」とみなされるであろう、自分の知った人たちのことを思い浮かべた。遺族や友人たちは、ほとんど例外なく訥々と亡くなるまでの経緯を語った。ふっとなにかを押し殺すような会話の切れ間の沈黙を挟みながら、自分に言い聞かせるように、仕方がなかったのだと言うように、あるいは実際にそう言葉にして彼らは語った。それは、気炎をあげるアランの演説とは正反対の、誰に訴えるのでもない、ためらいと静けさに満たされいた。

アランの絶叫のようなスピーチと満場の拍手を持って、会議は終わった。会場には、どこか興ざめしたような、間延びした奇妙な熱気が残された。ボニーが、お疲れさまというように、にこやかに微笑みかけている。私は、原発事故のあとに自分に浴びせられた無数の罵声を思い出した。敵意に溢れたそれらの言葉は、あまりにも多くの無理解と誤解に満ち、それでいて、いや、それだからこそ、私からの反駁をわずかたりとも受け入れようとしなかった。激情と無自覚な敵意と悪意に満ちたそれらの言葉は、どこまでも一方通行だった。そして、今回、ここで目にした熱狂もどこまでも一方通行で、無自覚な敵意に満ちていた。何に対する? 彼らが何を憎んでいるのかはわからない。自分たちの価値を認めようとしない社会に対してなのか、これまでに投げつけられてきたであろう彼らの自尊心を損なう言葉に対してなのか。互いに、一方通行の演説に慣れきった彼らが、相互理解のために歩み寄ることがあるとは思いがたい。だが、それでいて、私たちは、微笑みを交わし合い、力強く握手をしたりもする。なにかの間違いのような偶然で、かすかに歩み寄ることだってあるかもしれない。スティーブが私をハグしたように、抱き合うことだってあるかもしれない。いずれにせよ、私たちはこの先もわかりあうことはないだろう。わかり合えない中で、それでも言葉を交わすことはやめない。それは、希望のような絶望であると同時に、絶望のような希望なのかもしれない。


土とともに暮らすこと

飯舘村長泥地区の除染残土を使った農地造成事業にかんして、野菜の栽培実証実験が行われたということが報じられて、局地的な騒ぎになっている。経緯を追っていない方のために簡単に解説をしておく。

飯舘村の南側にある長泥地区は、飯舘村内で唯一避難指示が解除されず、帰還困難区域として残されたままになっている地区だ。帰還困難区域は、他の自治体でも、大熊町双葉町富岡町浪江町葛尾村に残されており、これらの自治体のなかでは、帰還困難区域の一部を「特定復興拠点」に指定し、その場所で除染と同時に再開発が行われている。

だが、長泥地区は、村内でも外れに位置する山村であることからか、「特定復興拠点」を通常の形で地区内に設置することができなかったようだ。その代わりに、飯舘村の他の地域の除染残土を受け入れると同時に、その除染残土を置いた周辺を造成してミニ復興拠点とするというのが経緯である。一方、長泥地区のこの話が進んだのと相前後して、他の自治体では山村部でも特定復興拠点として小規模に再開発を行う事業が認められているわけだから、長泥だけなぜこういう流れになったのかは、よくわからない。

長泥地区の除染残土を用いた農地造成事業は、当初は、除染残土を運び込んで造成した上に、50cmの非汚染土で覆土し、食用に供しない花卉類を栽培するという計画であった。だが、私の記憶が確かであれば、当初から地元の人からは、せっかく農地を作っても食べられるものを作れないのであれば意味がない、と言った要望が報道等を通じても伝えられていたように思う。

そして、今回、覆土をしない除染残土の上に直接、食用の野菜を育てる実証栽培が行われているという報道があった。土壌のセシウム濃度は測定されているであろうし、この実証実験によってただちに商用作物の生産流通につながるものではないとのことだが、周知されていた事柄でなかったことから、一部の反対派のなかで局地的に反対の意見が噴出することになった。

この事業そのものには、大元の除染残土を長泥地区に運び込み造成するというところから複雑に感じるところがあるので、わかりやすく賛成とも反対とも言い切れないのだが、今回の実証実験に関する反対派の言動に、かつての都路の避難指示解除の頃を思いだして、思うところがあったので以下に書いておく。

都路地区は、2014年4月に最初に避難指示が解除された地区となる。そのことについては、以下の記事のなかでも触れてある。

「結果オーライ」への道筋を探る - 安東量子|論座 - 朝日新聞社の言論サイト  東京電力福島第一原子力発電所内に大量に保管され続けている「水」の処理についての議論は大詰めを迎えている。この原稿が発表さ webronza.asahi.com

これを書くときに、最後に報道への注文のところで、書こうか書くまいか迷って、結局文字数の都合もあって書かなかったことがひとつある。都路の避難指示解除が決まってからの報道姿勢についてだ。

本文にも書いたが、避難指示解除が決まるまでは、解除の最初のケースだったせいで、報道の注目度は非常に高かった。連日大きく報じられたし、そこでは、「避難指示解除に反対する住民」と「避難指示解除を強行しようとする政府」という対立構図を描きたがる報道も多かった。確かに、避難指示解除に反対する住民がいたことも事実だが、最終的に、地元合意を得て避難指示は解除された。

それは、おそらく少なからぬ報道関係者、とりわけ対立構造を期待していた左派メディアにとっては、拍子抜けする結果であったののではないだろうか。というのは、都路の避難指示解除後、避難指示の解除にまつわる問題を指摘する報道が激減したように感じていたからだ。都路後の避難指示解除は2015年9月の楢葉町になるが、報道において強い反対の論調はあまりなく、ほぼ無風状態であったと記憶している。

なぜこのように記憶しているかというと、私は、避難指示解除なされた後が本番だと思っていたからだ。一定の線量水準以下であれば、避難指示は解除した方がいいと思う一方、行政的な対応には課題が非常に多かった。避難指示と賠償を紐付けた制度的な問題もそうであるし、休耕農地の管理や増えた獣害への対応、若年世代が減ったことによって急速に進んだ高齢化、そして介護問題、また、山林等における長期的な放射線管理の問題などなど、課題は山積していた。こうしたことは、避難指示が解除になってはじめて前面に出てくることであるから、当然、避難指示解除に注目されたのと同じ程度には、解除後に報道からも指摘されるのだろう、と思っていた。

だが、そうした課題の指摘は、都路解除後にはあまりなされなかった。もちろん、まったくなかったわけではなく、地元紙を中心として散発的には指摘されたが、避難指示解除への注目度と比べると、驚くほど少なかった。これらが指摘されはじめるのは、楢葉町の解除が終わり、2017年3月の一斉解除への道筋が出来てからのことであるように感じている。

この都路以降の報道の変化ぶりに、私は非常に戸惑った。なぜ報道は、課題がこんなに残っているにもかかわらず、こうも急激に関心を失ったのか。これは、私の憶測であるが、特に左派系報道においては、都路の地元が避難指示解除に合意したことに対して不満だったのではないだろうか。住民対国の構図に持ち込んで、国の非道さを追求する政治キャンペーンを行いたかったのに、地元はそれに乗ってこなかった。そのことに対して失望し、関心そのものを失ってしまったのではないだろうか。当時、私は、一部左派は成田闘争における「三里塚」を再現したかったのに、それに乗ってこなかった地元に対して、見下し、憤りさえ抱いているののではないかと感じていた。

長泥の件で、このことを思いだしたのは、同様に左派系の一部の人たちが、この実証事業に同意している地元の意向をなかば敵視し、見下す主張を行っていると感じているからだ。いわく、「同意している地元の人間はごく少数で、大多数は反対なのだから、無視していい」、「こんなところで作った野菜をたべたい人がいるわけがない」、「風評を産んで、他の産地の迷惑になるだけだ」。これらの左派系の人たちは、自主避難者の権利を強く主張している人が多いと認識しているが、これらの主張は、自主避難者に向けられたのとほぼまったく同じ主張であることを理解しているのだろうか。私には、自分の党派性と同じ意見であれば、「地元の意見」として尊重し、自分の党派性と異なれば、無視し敵視するという、典型的な党派的態度であるようにしか思えない。

私自身は、一貫して福島県内からの自主避難者の支援は一定程度行われるべきだと思っているし、そう言ってきた。(個人的な意見としては、除染対象区域と指定された区域からの避難は行政区分としての合理性を有するし、また除染が終わるまで、ないしは仮置き場がなくなるまでの期間の避難は支援されてよかったと思っている。) そして、長泥の実証事業に全面的に賛成というわけではない。(だが、かといって反対を広言するほどでもない。私は所詮、利害も葛藤も負うことのできない「外野」である。) その上で、上記のSNSで見かけた反対派の意見は、人道的、倫理的に承服しかねる論理だと思っている。

最後に、除染土での野菜の栽培の実証実験のニュースを聞いたときの私の抱いた印象は、私にとっては納得できる要望であった。

著書の『海を撃つ』のなかでも紹介したエピソードだ。自分の畑で栽培した野菜を食べて、ホールボディカウンターで内部被曝を測定し、「検出されず」の結果を得た女性の話だ。そのまま引用する。

その結果を見て、彼女は笑顔で私に言った。これでこの土地が安心だと確認できた。自分の暮らす土地で育て、収穫して、食べたキュウリが大丈夫だということは、この土地が大丈夫だということ。これで私はここで生きていける。その自信を持てた。
                   (「末続、測ること、暮らすこと」)
暮らしの中に入りこんだ放射性物質を測定するということは、そのまま暮らしを測定し、評価することにつながる。暮らしに入りこんだ放射性物質の測定結果は、そこにある暮らしと切り離して、数字のみを取り出すことはできないのだ。彼女にとっては、ホールボディカウンターの測定結果は、自分の育てる野菜、その野菜を育てた彼女の土地、延いては暮らしを支える土地そのものへの信頼へとまっすぐつながっていた。
                   (「末続、測ること、暮らすこと」)

土地とそこに暮らす人間とのつながりは、土を耕して生きる人間と、そうでない人間とでは大きく感覚が異なっていることを、私はこの時の経験で実感した。私自身は、耕さない側の人間であるから、彼女がこうして言語化してくれなければ、理解することはなかったかもしれない。その後、注意して地元の人たちの話を聞くようになったが、土を耕す人たちからは、彼女と同じような感覚を持っているのであろうという印象を受ける言葉を幾度となく聞くことがあった。

そこで暮らす可能性がある以上、その土で食べられる野菜を栽培し、安全性を確認し、自分の口に入れたい、というのは、土とともに生きる人びとにとっては、ごく自然な欲求であり、また、ごく自然であるがゆえに、切実な欲求でもある。むしろ、暮らすことを許可しながらも、育て、食べることを禁じる方が不自然である。出荷するかしないかは、行政的な判断の問題となってくるであろうが、自分が栽培した野菜を他の人からは拒否されることの痛みも、土とともに生きる人びとでなければわからない強いものがあることも実感として知っている。

日本の政治行政の常道である「なし崩し」がいいとはまったく思わない。だが、党派性によって論理を都合良く使い分け、また、地元の人の尊厳を深く傷つける言動に対しても同様にまったく承服しがたい。反対派の方たちは、原発に対して反対の論調が圧倒的となった事故後の福島で、なぜこれまで自分たちの言動が広く受け入れられなかったのか、いま一度、顧みていただきたいと切に願う。