アカデミアへの不信

2020/10/16 追追記
2017年に出ているこの論文のことをなぜ今になって言い出したのかと思われるかもしれないので、以下に理由も書いておく。確かに、この論文の存在は、1年か2年前から知っていた。
ひとつめには、ここ一年ほど必要に迫られて英語読解をする機会が増え、ようやく英語論文が読めるようになって来たという事情がある。アカデミシャンでもない人間が、自分のことを書かれているからと言って、英語の論文を読んで確認してみようなんそう簡単には思わないのは当然ではないだろうか。英語論文を開いて眺めるのに抵抗がなくなる程度に、英文読解ができるようになったので、思い出して確認してみたら、思っていた以上にひどかった、という事情である。だが、眺めることに抵抗がなくなったという程度で、スラスラと読めるほどではない。明らかに意図的なミスリーディングを誘うことを狙った、ひどい出来の論文を一文一文文意を確認しながら読むのは、はっきりと負担である。

ふたつめには、アカデミアの世界というのは、こういうもんだろう、と思っていたのである。事実無根に近い適当なことをそれらしい概念用語ででっち上げて、一般人である調査対象を貶めるような論文を書いたとしても、立派な学術業績として認めるのが、アカデミアというところなのだ、と諦めていた。実際、日本の大学に所属する研究者でこの論文や著者について好意的に言及していたのも複数回目にしているし、これを容認する業界なのだから言っても仕方ない、と思っていた。だから、Twitterで、問題があると思うので大学や雑誌編集部に連絡してもいいのでは、と言われた時は正直に言って驚いた。そういう手段があることも知らなかったし、異議申し立てをする態勢があることが意外だった。
それで思い出してみると、ここ2,3年ほど、日本人外国人研究者のアンケート調査などに協力して来たけれど、毎回、調査対象者には、調査前に丁寧に説明を行い、同意書を取っていた。ということは、対象者への聞き取りも行わないで、思 い込みで適当なことを書き散らしたAya Kimura氏の論文はもしかしてとんでもなく非常識なのではないか、と今更気づいたわけだ。

非アカデミシャンというのは、こういうものである。手続きがどうなっているのか、窓口がどこにあるのか、そもそも自分の抗議そのものをきちんと受け止めてもらえるのか、そういうことさえわからない。だいたい、私はたまたま英語を読めるようになったから確認できたけれど、そうでなければ、未来永劫書かれっぱなしといことになる。こんな感じで、調査対象者が読めないのをいいことに、適当に書かれた論文もかなりあるのではないか、と感じている。
2020/10/16 追記
Twitterで、ハワイ大学に申し立てを送ることができるのではと助言されたので、10/14付けで University of Hawaii の公開されている学長宛のメールアドレスに倫理方針に違反しているのではないかとのメールを送ったところ、先ほど、担当部署から返信があり、当該論文が添付されていた。事態を深刻に捉えており、論文の内容を確認して返事が欲しいとのこと。その後、次のステップに進むとあった。

また、雑誌の編集部が持っているTwitterアカウント宛に、通知をしてくれた方がいて、編集部からも著者に確認を取っているところだ、との返信があった。

この経過は随時書いていこうかと思っている。

というのは、過去にネットでの誹謗中傷にたまりかねて警察に告訴したら、国家権力による言論の自由の弾圧だと、開き直られ、こちらは被害者にもかかわらず、当該被疑者を擁護する人たちからさらにひどい中傷を向けられたことがあったからだ。

今回も、こちらは被害者にもかかわらず、学問の自由の侵害だと開き直られたのでは溜まったものではない。自分の党派性を振り回して、気に入らないと敵認定した相手を、好き放題中傷したり嫌がらせをしたりするために、言論の自由も学問の自由も存在するのではない。それこそ、言論の自由と学問の自由への冒涜である。

日本学術会議の会員任命にあたってのゴタゴタから派生して、研究者への反感も散見されるが、研究者というよりは、アカデミアという権威体制への反感という方が正確なのではないかと思う。

日本学術会議の件は、純粋に手続論的な問題としておかしいのだから、アカデミアがどうであろうとも、法治国家における法に則った制度である以上、手続きはきちんと踏まえるべきだと私は思っている。そういう前提の上で、アカデミアへの反感というのは共感するところがある。というのは、下のような事情だ。

下記リンクは、ハワイ大学のAya Kimura という研究者が書いた論文へのリンクだ。名前からすると日系人であるようだが、私は面識は一切ないし、接触も一切ない。

タイトル未設定 doi.org

この論文のなかには、私が原発事故のあとにはじめた活動について言及されているらしい。「らしい」というのは、この論文は有料であるから(44USD、日本円だと6,000円くらいは取られるようだ)、私のことが書かれているにもかかわらず、お金を払わなければ確認ができないことになっているからだ。

上に書いたように、私のことが書かれているにもかかわらず、本人からは一切連絡がない。なぜこの論文の存在を知ったかと言うと、ネット上で触れている人がいたのをたまたま見つけたのと、知人の研究者で雑談ついでに教えてくれる人がいたからだ。

論文というのは、研究機関や大学に所属していると、所属機関が出版社と購読契約を結んで、所属する研究者は無料で読めるらしいが、私のような一般人は、論文に勝手に書かれても、自分ではそのことを知ることもできないし、しかも、(のちに書くように)ほぼ事実無根の適当なことを書かれているというのに、自腹でかなりバカ高い購読料を払わなければ、事実確認さえできないということだ。

しつこく言うけれど、Aya Kimura氏本人からは、これまで一切コンタクトがない。つまり、彼女は事実確認を当の本人である私には行っていないのである。研究者としていかがなものかと思うけれど、さらに、人づてに聞いた話だが、彼女は、原発事故のあと来日もしていて、福島にも訪れていると言う。彼女からコンタクトのあった共通の知人が、彼女の認識には多く誤解が含まれているように思うから、絶対に私本人にあって確認すべきだ、と強く忠告したにもかかわらず、彼女は聞く耳を持たず、そして、事実確認さえ満足にしないで一方的に書いて公開したのが、上記の論文ということになる。

そして、どうやら、彼女はアカデミアの世界ではそこそこ評価されているらしい。

私の最大の疑問は、この論文を掲載した出版社や査読者を含めて、彼女を評価するアカデミアの方々は、彼女のしていることを研究者倫理としてまっとうだと思われるのだろうか、ということだ。私は、研究機関にも属さない、これまでも属したこともない、したがって、論文を読むことさえできない被災地に住む一般人だ。(自分なりの努力の成果で、なんとか論文を読める程度には英語読解はできるようになったが。)

それなのに、アカデミアの世界の住民であるAya Kimura氏は、本人に反論さえできないアカデミアの壁に守られた特権的な場所で、誤解に基づいた一方的な論文を公開し、一般住民である私を槍玉にあげて批判している。できるはずの事実確認さえ、勧められたにもかかわらず、意図的に無視しておこなっていない。

こうした被災地の住民に対する嫌がらせかいじめかハラスメントとしか思えないことを、アカデミアの名の下に行うことを、アカデミアの世界では倫理にもとるとはいわないのだろうか。「学問の自由」の名を借りれば、一般人に対して好き放題ハラスメントやいじめを行なっていいとでも言うのだろうか。

論文は、どうにか入手できたので、いずれかの場で反論を書いてもいいと思っているが、書いた本人も、それを評価する人たちも、研究倫理という観念を持ち合わせていないのではないか、と疑っている。「学問の自由」を殺しているのは、政権もそうかもしれないが、アカデミアの中の人もそうなのではないだろうか。