ねむりひめ

 木の香りが漂う、真新しく、丁度の整えられた、落ち着いた雰囲気の家。
 いちばん日の当たる見晴らしのよい部屋のベッドで、彼女はねむっていた。
 チリひとつ落ちていない清潔な家と同じように、ベッドも彼女も清潔そのもので、脇に置かれた機器類やガーゼ等がなければ、ただ深い昼寝をしているのだと、そう思ったろう。
 母親は、彼女の名を呼び、色白のやわらかな頬にそっと触れる。
 24時間介護が必要な状態なんですけれど、半年前にやっと退院できたんです。
 穏やかに、母親は言い、父は来客用に珈琲を立てている。
 私は、こんなに愛らしい子は、今までに見たことがない、と思いながら、身じろぎひとつしない彼女を見ていた。
 珈琲と、用意してくれていた近隣で美味しいと評判のケーキをいただきながら、この家に流れる空気と同じように、穏やかな、少しゆっくりしたペースで会話がすすむ。
 小児脳腫瘍なんです。2歳の時に発症して、それから、ほとんど病院に入りっぱなしで、やっと落ち着いて退院できたんです。
 いま、おいくつなんです?
 8歳なんです。
 喋ったりはできないんですけれど、調子が良いときには、車いすに乗せてあげて、日光浴したり、庭に行けるといいなと思っていて。
 ふっくらした頬は、まだ幼児というのにふさわしく、その肌のきめ細やかさと白さは、日にさらされないからだということを、私は知っている。
 以前、病棟で見かけた、子どもたちの姿を思い出していた。
 そこで見かけた親たちとおなじような表情をして病室に通い詰めた時もあったろう。
 けれど、目の前にいる両親は、微塵もそんな影は感じさせず、いま、ここにあるのは、ただ、あかるく、おだやかな。
 私は、彼女を心の中で、ねむりひめ、と呼ぶことに決めた。

 彼女のねむるベッドは、ひかりにつつまれている。

 海の見える住宅は、わずかに傾き、床にビー玉を置けば、どこまでも転がってゆくのだと言う。
 風もなくおだやかな日は、波濤も聞こえず、目を上げれば、深く湛えられた青と水平線。
 空と海のまじるところ。

 少女のさざめきのような会話に加わりながら、同窓会が、年金が、娘が、息子が、という言葉に、この人たちは母と同じ世代と気づいた。
 失ったもの、失った人たちのことを間に挟みながら、何気なく会話は続けられる。
 (失われたそれらが、みずからの半身であるかのように。)

 震災があって、わるいことばかりじゃなかったわよね、と、やや唐突に、彼女が言った。
 私は、先ほども、まったく同じ言葉を聞いたばかりだと思った。
 農家屋の上がり框に腰掛けながら、フィリピンの台風被害に触れ、どうにか助けられないのか、と語った後、彼女は「震災があって、わるいことばかりじゃなかった」と言ったのだった。

 その言葉に至るまでの、彼女らの経験を、私はおぼろげに伝え聞くばかりだ。
 お世話になった人に、どうやってお返しをすればいいのだろう、と問う彼女に、私は、通り一遍の言葉しか返せなかったろう。
  
 それがどのような形であれ、人の暮らしは続けられるべきだ、続けられなくてはならない。
 私にとって、これが、ひとつの信仰告白であり、祈祷文であるとするならば、祈りにささやかな形を与えてくれた事象を、奇蹟とよんでもゆるされないだろうか。
 それが、少しばかり大仰であったとしても、ただひとつの祈りによって、日々を堪える、そのような時間を過ごした者が、仮にあったとして。

 

 天に近い頂から、色に染まるこの季節に、あなた方に人々の声を届けたいと思った。
 朽ち果てていく家屋の香りとともに、置き去りにされ放置されたままのあの日のままの景色とともに、刻銘にきざまれたあなた方が引いた境界線の跡とともに。
 じきに忘れるから、あなた方は、きっと、忘れてしまうから。
 だから、忘れさせないように、記憶に刻みつけてもらうために。


 道をゆく。
 平坦な道をゆく。
 どこにも、ゲートなど存在しない、道をゆく。
 道は、つながっている。
 この先には、街がある。
 人々の暮らしている集落がある。
 鄙びた、うつくしい村がある。
 あの場所まで、つながっている。
 どこまでも、どこまでも、つながっている。
 そんな夢を見る。
 今も見る。

 

 
 あなたが突然いなくなってしまったと言うから、私は、出し忘れた恋文を片手に持ったまま立ち尽くしている。
 本当を言うと、恋文は、まだ書いてさえいなくて、いつの日かとびきりのを書いてやろうと、そんなことを思っては密やかな楽しみにしていたというのに。
 書いたところで、あなたは読みもしないし、関心を抱くこともなかっただろうけれど。

 私たちが訪れると、最初に出る言葉は、こんにちは、でも、久しぶり、でも、元気だった?、でもなく、次はいつ来るん?
 私が物心ついたときから、ずっと同じ、繰り返されてきたやりとり。
 その質問に、うっかり適当な時期を答えてはいけない。
 あなたは、決して忘れないで、その日を待っているから。
 子供の頃は、次は冬休みね、次は夏休みね。
 そう答えた。
 大人になってからは、時期は言わない。
 こう答える。
 また来るね。またきっと来るね。また来るからね。
 あなたは、頷く。
 釈然としないのか、あるいはお構いなしなのか、表情からは窺えない。
 
 会ったところで、あなたはこちらに関心を払うそぶりもない。
 お土産に持ってきたかわいい女の子の写った写真集を広げ、いつものサッカーボールの形をしたお饅頭を頬張る。
 時折、ふっとなんの気まぐれか、壁に貼られた写真を指さすこともある。
 この間、ここに連れて行ってもらったのね。
 お誕生日だったの?
 こちらの問いかけに、答えるだけの会話。

 
 あなたにとって、私は何者だったのだろう。
 いや、たぶん、何者であっても構わなかったのだろう。
 必然か偶然か、与えられた関係性の中で、私たちは互いを認識し、それとして振る舞った。
 私が誰であったとしても、何者であったとしても、あなたにとっては、与えられた関係性を構築する存在のひとりである、ただそれだけに過ぎなかったろう。
 そして、そのことにより、私の存在を肯定し、あなたの歴史の中に組み込んだ。
 それが、私にとって、どれほどの救いであったか、あなたは知る由もない。

 あなたがいなくなって、私は、少しばかり途方に暮れている。
 それでも、生活はなにも変わりはしない。
 日々の細々に追われ、私は恙なく平穏無事に暮らしていくだろう。
 その居心地の悪さを今はまだ実感できないでいる。


  

 

 アナスタシアは、あの時、こう言った。

 あなた方の故郷を愛し、故郷に戻りなさい。
 除染をして、戻り、そこに住み続けなさい。

 その言葉は、会場の日本人、おもに被災地に住む人びとには、おそらく少しばかりの共感と、多くの違和感をもって受け止められたろう。
 そのようにすることが可能であるならば、どれほど、話は簡単であるか、と。

 アナスタシアの言葉を聞きながら、私は、昨秋訪れたベラルーシのセレツ村の文化会館で聞いた話を思い出していた。
 買い物袋を抱えて集ってくれた、かますびしいほど元気な女性たちは、避難した人びとについて口を揃えて言った。

 避難先で健康を害して亡くなった人が、多い。
 特に、壮年、働き盛りの男性は、みな死んでしまった。

 いかほどの人数なのかは尋ねなかった。
 私たちにとっては、姿も形も浮かばぬ、彼ら死者たちは、彼女たちにとっては、同じ経験を共有し、生活を接し、同じ街で日々を共にしてきた人びとである。
 死因は、心臓病などが多い、と聞いたが、それ以上は、尋ねる気になれなかった。

 みな死んだ、と彼女たちは、繰り返した。

 ソ連邦崩壊の経済的大混乱も、影響を与えているであろうから、すべてを避難の影響であると結論づけるのは、あまりに早計だ。
 しかし、地から離れた人間は、弱い。
 大抵の人びとは、失った以上のものを得ることはできない、そして、できなかった。
 アナスタシアの言葉は、そうした残酷な現実をふまえた上である、ということを、会場のどれだけの人びとが理解しただろうか。
 故郷に残った、戻った人びとは、失った以上のものを、おそらく一部においては勝ち得、さらに得るための努力を、いまなお続けている。
 失ったものは、失われたままに。

 戻るも戻らぬも、個人の選択、と言いながら、私のうちには、アナスタシアの言葉が、響き続けている。
 あるいは、もはや手遅れである、との思いとともに。

 故郷に戻りなさい。
 故郷を愛し、住み続けなさい。

 

Life is tough.

 仮設住宅での健康状況悪化の兆候が出ているとの報告を聞きながら、ついに来るべきものが来たか、と、2011年夏頃にtwitterで交わしたいくつかの会話を思い起こしていた。
 チェルノブイリのデータから考えれば、放射能そのものよりも、生活環境の変化による被害が大きいのは明らかであるのに、なぜそのデータが生かされないのか、と、私はその時苛立っていた。
 二年が経過し、現在は兆候に過ぎないこれらも、さらに数年経てば、平均寿命の変化と明らかな疾病率の上昇として、誰の目にも明らかになるだろう。
 そんなグラフが脳裏をよぎった。

 (「ほうら、みてごらん」という台詞が喉元まで出かかるが、あまりに馬鹿げた言葉であることに気づき、呑み込む。)

 その後の車内で聞いたのは、仮設住宅のみならず、避難対象外の地域においても、同様に健康状況悪化の兆候がデータとして出始めているということだった。
 一瞬、虚を突かれたが、ただちに納得したのは、「孫には食わせらんね」という、この二年ほどの間に飽きるほど繰り返し聞いた言葉が重なったからだった。
 もともと稼ぎのために作っていたわけではない。子や孫の喜ぶ顔だけが楽しみで作っていたものが喜ばれなくなれば、もはや作る動機など存在しない。
 生活様式の変化だけではなく、精神的な生きがいも失われた高齢者の健康状況が悪化することは、火を見るより明らかだ。

 (われわれが、守ろうとしているのは何なのか? なにかを守るために、より大きなものを犠牲にしていないか? 弱者を守るふりをしながら、より弱いものに負担を押しつけているのではないか? それは取り返しのつかないものであるにも関わらず?)

 お年寄りたちが集まった、小さな集会所で、私は、ジャックに、この話をした。
 彼は、それはきわめて困難だけれど、生活環境がよくなるように、こんな形で少しずつ改善していくしかない、というようなことを言った気がする。
 私は、彼に、だけど、と、言葉を返した。
 お年寄りには、事態の回復を待つ時間がない。事態の回復を待つうちに、彼らの寿命は終わってしまう。
 それを聞いた彼は、なにかを察したようにきっぱりと言った。
 それは仕方のないことだ。これは戦争と同じだ。社会に大きな変化が起きれば、社会的な弱者にしわ寄せがいく。それは特に高齢者だ。チェルノブイリでも同様なことは起きた。回復に向かうのは、次世代の話だ。

 私は、言葉を失い、彼に言うべき台詞を探した。
 少し混乱した頭のまま、いくつかの台詞が頭を駆け巡る。
 ジャック、だけど、だけど、その高齢者は、私の目の前にいるこの人たちで、私の義父母で、私の親戚で、近所のおばあちゃんやおじいちゃんで、統計の数字じゃなくて。

 それを待たずに、彼は続ける。
 だから、あなた方が今こうして地域のお年寄りたちを励まし続けているのは、とても重要で、大切なことなのだ。

 そう、それは、わかっている。そんなことは知っている。
 だけど、ジャック。これは、統計の話ではなくて、歴史の話でもなくて、今ここで起こっていることで。

 そう言おうとして、頭に浮かんだすべての言葉を呑み込んで、一言だけ告げた。
 人生って、楽じゃないね。( Life is tough. と訳された。)

 ジャックは、いつものように正面から答える。
 そう、だけど、諦めずに、前に向かって進んでいくしかない、そうだろう? 

 私は、言いたい言葉をすべて呑み込んで、OK、OKと、笑顔を作って答える。

 そうだね、ジャック。あなたは正しい。
 あなたは、きっと、すべてわかって言っている。
 これが、現実であることも、どのような痛みを伴っているかも。
 それでいて、出来事を歴史の俎上にのせ、現実を動かそうとしている。
 私が呑み込んだ言葉をすべてぶつけても、あなたは、あのとき、私が初めてあなたと会ったときと同じように答えたろう。

 時間は、戻らない。
 決して戻らない。
 戦うしかない。
 あなたには、それができるんだから。
 
 そう、ジャック、あなたは、ただしい。

 

みっつめの夏

 喧騒のうちに、ひとつめの夏が過ぎ、ふたつめの夏が去り、みっつめの夏を迎える。
 いまいちど、この一文を思い起こそう。

 「戦争の最初の犠牲者は真実だ」って? そうではない、言葉なのだ。
            (ペーター・ハントケ空爆下のユーゴスラビアで』)
 
 あるいは、プラトーノフ『土台穴』に描かれた、空虚な言葉の世界を。

 言葉の価値を徹底的に毀損することによって、言葉とともにある人間の内面世界をも虚ろとすることがまかり通る先にあるのは、おぞましい世界でしかない。
 それゆえに、言葉は美しくあるべく、思慮深くあるべく、また、誠実であるべく、努めなくてはならない。
 それさえも叶わぬのであれば、ただ口を閉ざし、喧騒が過ぎ去るのを待とう。
 喧騒をくぐり抜け、それでも残る言葉が、ふたたび豊かにされることを祈って。
 (そう、ツェラン。けれど、あなたはセーヌに身を投じた。)