Life is tough.
仮設住宅での健康状況悪化の兆候が出ているとの報告を聞きながら、ついに来るべきものが来たか、と、2011年夏頃にtwitterで交わしたいくつかの会話を思い起こしていた。
チェルノブイリのデータから考えれば、放射能そのものよりも、生活環境の変化による被害が大きいのは明らかであるのに、なぜそのデータが生かされないのか、と、私はその時苛立っていた。
二年が経過し、現在は兆候に過ぎないこれらも、さらに数年経てば、平均寿命の変化と明らかな疾病率の上昇として、誰の目にも明らかになるだろう。
そんなグラフが脳裏をよぎった。
(「ほうら、みてごらん」という台詞が喉元まで出かかるが、あまりに馬鹿げた言葉であることに気づき、呑み込む。)
その後の車内で聞いたのは、仮設住宅のみならず、避難対象外の地域においても、同様に健康状況悪化の兆候がデータとして出始めているということだった。
一瞬、虚を突かれたが、ただちに納得したのは、「孫には食わせらんね」という、この二年ほどの間に飽きるほど繰り返し聞いた言葉が重なったからだった。
もともと稼ぎのために作っていたわけではない。子や孫の喜ぶ顔だけが楽しみで作っていたものが喜ばれなくなれば、もはや作る動機など存在しない。
生活様式の変化だけではなく、精神的な生きがいも失われた高齢者の健康状況が悪化することは、火を見るより明らかだ。
(われわれが、守ろうとしているのは何なのか? なにかを守るために、より大きなものを犠牲にしていないか? 弱者を守るふりをしながら、より弱いものに負担を押しつけているのではないか? それは取り返しのつかないものであるにも関わらず?)
お年寄りたちが集まった、小さな集会所で、私は、ジャックに、この話をした。
彼は、それはきわめて困難だけれど、生活環境がよくなるように、こんな形で少しずつ改善していくしかない、というようなことを言った気がする。
私は、彼に、だけど、と、言葉を返した。
お年寄りには、事態の回復を待つ時間がない。事態の回復を待つうちに、彼らの寿命は終わってしまう。
それを聞いた彼は、なにかを察したようにきっぱりと言った。
それは仕方のないことだ。これは戦争と同じだ。社会に大きな変化が起きれば、社会的な弱者にしわ寄せがいく。それは特に高齢者だ。チェルノブイリでも同様なことは起きた。回復に向かうのは、次世代の話だ。
私は、言葉を失い、彼に言うべき台詞を探した。
少し混乱した頭のまま、いくつかの台詞が頭を駆け巡る。
ジャック、だけど、だけど、その高齢者は、私の目の前にいるこの人たちで、私の義父母で、私の親戚で、近所のおばあちゃんやおじいちゃんで、統計の数字じゃなくて。
それを待たずに、彼は続ける。
だから、あなた方が今こうして地域のお年寄りたちを励まし続けているのは、とても重要で、大切なことなのだ。
そう、それは、わかっている。そんなことは知っている。
だけど、ジャック。これは、統計の話ではなくて、歴史の話でもなくて、今ここで起こっていることで。
そう言おうとして、頭に浮かんだすべての言葉を呑み込んで、一言だけ告げた。
人生って、楽じゃないね。( Life is tough. と訳された。)
ジャックは、いつものように正面から答える。
そう、だけど、諦めずに、前に向かって進んでいくしかない、そうだろう?
私は、言いたい言葉をすべて呑み込んで、OK、OKと、笑顔を作って答える。
そうだね、ジャック。あなたは正しい。
あなたは、きっと、すべてわかって言っている。
これが、現実であることも、どのような痛みを伴っているかも。
それでいて、出来事を歴史の俎上にのせ、現実を動かそうとしている。
私が呑み込んだ言葉をすべてぶつけても、あなたは、あのとき、私が初めてあなたと会ったときと同じように答えたろう。
時間は、戻らない。
決して戻らない。
戦うしかない。
あなたには、それができるんだから。
そう、ジャック、あなたは、ただしい。