リアリティショーとしての復興

リアリティショーに出演していた女性が、SNSでの誹謗中傷を原因として自死をしたのではないかというとても痛ましい事件が起きた。(死因については公表されていないので、推測によるものである。)

リアリティショーという言葉は初めて知ったが、一般参加者の生活の様子を番組として編集して流すというものであるそうだ。1990年代に一斉を風靡した「進め!電波少年」が導入したのではないかと思われるが、電波少年の企画に対しても大きな議論があったように記憶している。ただ視聴者の好評のうちに、現実と番組企画、リアルとフィクションの垣根を意図的に破壊し、かつ混同させる制作手法をめぐる議論はかき消えていったのではなかっただろうか。視聴者が自由に感想をネット上で述べ、かつ、本人に対してもリプライを送ることができるSNS時代になって、このリアリティショーのはらむリスクが出演者に襲いかかったのではないかと思う。(「電波少年」でも出演者となった芸能人が後日談として精神的なきつさを語っていたのを覚えている。)

このニュースを見ながら気づいたのだが、東日本大震災とその復興も、ひとつのリリティショーであったのではないか、ということだ。というのは、繰り返し書いているが、SNSで語られる福島復興と現実の状況の乖離、一方で、その乖離をなにがなんでも無視しようとするSNS世論がずっと不思議でならなかったからだ。SNS上にうかびあがる福島復興にかんする言説空間を、宮地尚子氏の「環状島」概念にしたがって、仮に「SNS福島環状島」と呼ぶことにする。

思えば、SNSは現実のあらゆる出来事をリアリティショー化してしまう機能をもつのだろうと思う。どのようなできごとであれ、そこにSNSを通じて発信者が存在すれば、たちどころに多くの視聴者を得ることができ、視聴者は感情移入し、あたかもその現実を共有し、おなじプレーヤーであるかのように感じ、しかし一方で、安全地帯から楽しんで鑑賞することができる。東日本大震災の場合は、震災規模が大きかったこと、世情の関心が非常に高かったことから、多くの「視聴者」を得ることができた。また、ボランティアとして現実に足を運んだ人も多数いたため、発信者の数も膨れ上がった。そのため、最初の頃は情報交換ツール、情報共有ツールとして機能していた側面も大きく、おそらく2014年頃にかけては、リアリティショーとしての側面と、現実に役立つ情報交換ツールとしての側面が並存していたと考えられる。

だが、2014年頃から、すなわち、世間一般の関心が薄れ始め、また、ボランティアとして定期的に現地に足を運ぶ人の数が激減した頃から、急激にリアリティショー化したように感じる。他方、その頃になれば、被災地の現実の状況は複雑化しており、SNSで公開で情報を共有したり交換したりすることが不可能になっていた。また、現実に動いている人たちのつながりは構築されてきていたので、SNSを経由したつながりを求める必要もなくなったという点もある。こうした複数の要素が絡み合って、2014年頃からSNS福島環状島が現実とは異質なものとして生まれ、それはどんどん膨れ上がり、現実をさえ凌駕していくこととなった。

この考えを思いついたのは、私に対するSNS上での発言について、友人から「あの人たちは、安東さんのことを生きている人間だと思っていないと思う。〈コンテンツ〉かなにかだと思ってる気がする。」と言われたことが印象に残っているからだ。SNSで、私の現地の活動について批判的に言及する人は、実際のところ、現地活動の様子をほぼ知らないのが実態である。せいぜいが年に一回程度足を運んで共通の知人から話を聞く程度、そして、私たちの現地活動はきわめて少ない人数でまわしているため、実際の状況を把握しているのはわずか数名だけである。その人たちはSNSを使用していないか、使用していても現地の人たちに影響が及ぶのを避けるため、全員が実際の活動については一切発信していない。

私に向けられた敵意については、いくつかの要素があると考えられる。(自分自身が一時期、なかば意図的とはいえ、荒い言葉遣いをしていたことは自覚しているので、それに対する反感については甘受するとして、ここではそれは除外する。) ひとつめには、女性であるということ。また、専門性や肩書きをもたないということ。そうした「雑魚キャラ」が調子に乗って、身の程を弁えない振る舞いをしている、これは罰しなくてはならない、そういう意識である。ふたつめには、これまでの個人的な関係の軋轢によるもの。これは対人関係が存在する場面であれば誰にでもあることであろうし、これ以上の言及はしない。そして、みっつめが、今回思いついたリアリティショーの出演者という側面だ。リアリティショーの視聴者にとって、感情移入して楽しんでいる物語を「雑魚キャラ」の出演者が妨害することが我慢ならない、そうした感覚を抱いたことによるものではないかとも感じるのだ。

リアリティショーとして機能しているSNS福島環状島では、現実のことよりも、リアリティショーとしての設定の方が優先される。外から支援に来たスーパーヒーロー科学者を頂点とし、そこにデマに苦しむ一般福島県民がおり、彼らを助け、また視聴者はともに悪のデマ発信者と戦うという構図が設定されており、視聴者はそれ以外の構図を求めない。そこで、出演者に過ぎない人間が、「それは本当の問題ではない」「実際は違うのだ」と演出を邪魔しはじめれば、視聴者にしてみれば邪魔で仕方ないであろう。これは、あまりにひどい言われように私が反撃を試みようとした時に返って来た、過剰とも思える反応からもうかがわれる。相手が私に対して行ってきたのと同じことをお返しにしてみようとしたのであるが、その人たちは、無垢な自分たちが突然いわれのない強烈な敵意に晒されたかのように騒ぎ立てていたことがある。それまでも十分に理解不能ではあったが、それにしても、その反応の過剰さを奇異に感じていたのだが、おそらく、それは「コンテンツ」に過ぎない私が、安全地帯にいるはずの視聴者に対して反撃をしかけるという、リアリティショーとしてありえない行動に出たことに対する反応であった、と考えるとすんなりと合点がいく。

この復興のリアリティショー化の大きな問題は、今回の女性出演者の悲劇的な展開の背景と同じように、ほとんどの視聴者が現実とリアリティショーの区別がつかなくなることだ。むしろ、毎日眺めているリアリティショーこそが確固とした現実で、自分の肩入れをする出演者こそが真実を語っており、自分こそが真実の状況を把握しているのである、と確信を抱くようになる。それ以外の発信者の情報は虚偽か、信頼に値しない、とさえ感じるようになる。

そして、厄介なことにそれが現実世界にも伝播し始めるのだ。2017年頃からだろうか、現実に出会う人でも、SNS福島環状島の世界観しかもちあわせない人に遭遇する機会が増え、困ったことになったと思っていた。特徴的なのが、強い敵愾心と、自分の世界観以外は認めない、対立する相手を排除しようとする排他的な価値観、そして、SNS上の同志に対する過剰なまでの仲間意識だ。一方、現実世界は、多様である。スーパーヒーローが福島を救ったなんてこともないし、科学者や専門家の認識だけが正しいわけでもない。さまざまな局面でいろいろなプレーヤーがおり、それぞれが正しいことを言えば(すれば)、間違ったことも言う(する)。そして、正しいか間違いかということさえ、状況に応じて変わってくるし、のちにならなくてはわからないことだってたくさんある。そうしたなかで、顔を付き合わせて、同じ現実を共有するあり方を考えていかなくてはならないのだが、SNS福島環状島の強固な一面的な価値観しか認めない人たちは、すり合わせや妥協をしてくれず、ただ違う価値観の人間を排斥しろ、と主張する場面が非常に増えたのだった。

これをこうして記しておくのは、SNSが存在し続ける限り、現実のリアリティショー化はこの先も起きるであろうし、そのことによって現実へも大きな影響を及ぼすであろうことを指摘しておきたいからだ。「ネット上の問題」ではない。これは、すでに「現実の問題」なのだ。