スティーブ&ボニー (13) いまはいい友達

あたりが薄暗くなりはじめる頃、歓談していた一同がバラバラとリアクターに向かいはじめた。コンサートがはじまるようだ。銀色に輝くリアクターのアルミニウム管を背景に、仮設のステージが設置され、グランドピアノが置かれている。黒い衣装に身を包んだ男女混成のコーラスグループが壇上に立っている。会場では、これから歌われる曲の歌詞が書かれた小冊子も配られた。私のすぐそばにはボニーも座っている。スティーブが私のそばに来た。これらの歌は、原爆の開発のことを寓意的になぞっていった歌詞であるようだ。だが、政治的な内容ではないし、戦争を賛美するような内容ではない、と説明してくれた。彼は、私が広島出身であるということから、気を使ってくれているのだろう。歌詞を眺めてみるが、語彙がやや特殊で、文法も省略などを多用してある比喩的な表現が多いようで、一見では意味が取りにくく感じられた。聖書の記述にあるような、やや劇画がかった詩的な表現であるように見える。

コンサートがはじまる前の挨拶に立ったのは、スティーブだった。このコンサートのスポンサーは、スティーブであるとのことだった。どうりで熱心に私にコーラスを聞くように勧めてくれたはずだ。アメリカでは、公共からのサービスに期待するのではなく、住民からの自発的な寄付活動が重んじられるという話を聞いたことがあったが、こうしたイベントでも、個人の寄付によって企画が成り立つということに驚いた。男性の指揮者が壇上にたち、挨拶をする。すぐにピアノの演奏がはじまり、歌声が響きはじめた。リアクター前のこの「ホール」は、広い天井と背後にあるアルミニウム管が絶妙の音響設備の役割を果たし、コンサートにうってつけの場所になっているのだと言う。これまでも何度かコンサートを開き、好評だったのだとスティーブは言っていた。彼らしい気遣いで、こうした場所でコーラスを楽しめるというのは非常に不思議なことではあるけれど、と付け加えていた。確かに、うるさくない程度に音がよく響いている。歌っているのは地元のコーラスグループとのことで、プロのように上手とはいかないが、よく練習はしているのだろう。プルトニウム生産するリアクターの前で、原子力の開発を寓意的に歌詞化したコーラスを聞くのは、なんとも言えない気分ではある。曲の流れに従って、原子力の歴史に思いを馳せてみる。シカゴ大学の高名な物理学者フェルミによって、はじめて小型の実験炉による連鎖的な核分裂反応、臨界状態を起こすことに成功した。その成功を受けて、ここハンフォードサイトで大型の原子炉が作られることになった。大学での実験がそのまま大量破壊兵器につながったことを、フェルミという人はどう考えていたのだろう。物理学の発展がそのまま核兵器の開発につながった、それは歴史的必然なのかもしれないが、そこで科学者は自分の役割をどう考えていたのだろう、と先ほどの坂東先生の会話を思い起こしていた。ここで生産されたプルトニウムは、遠く離れたアメリカ合衆国 南部のニューメキシコ州のロスアラモス研究所に運ばれ、そこで原子力爆弾が製造された。ニューメキシコ州の砂漠での核実験を経て、広島と長崎への原爆投下が行われることとなった。核兵器投下の報を聞いた時、ここで働いていた人は、どう感じたのだろうか。いや、原爆の開発は極秘プロジェクトであったから、彼らの大多数も自分たちがなにを作っていたかは知らなかっただろう。ただ、祖国の勝利のための軍事プロジェクトに従事している、その高揚したきもちだけで彼らは原爆を生産したのかもしれない。

8月6日深夜、ウラン型原子爆弾リトル・ボーイを積んだB29戦闘機「エノラ・ゲイ」は日本の南方、北マリアナ諸島テニアン島にある基地を飛び立った。テニアン島は、その前年1944年夏の日本軍の敗北によって、アメリカ軍の支配下にあった。連日、テニアン島から日本本土へ向けて爆撃機が飛び立った。出撃したのは、アメリカの若者たち。もしかすると、それは私が今日ここに来る前に挨拶をした退役兵の若かりし頃だったかもしれない。8月6日午前8時広島上空、好天、視界は良好。上空から、広島の景色がよく見える。山に囲まれた狭い平地、北側の山から流れ込む太田川の支流が枝分かれし、三角州を構成した狭い平野。太田川の支流は、そのまま瀬戸内海へと流れ込む。その日、空は晴れ渡り、海もきっと凪いで、穏やかに銀色の光を受けていただろう。8時15分。作戦決行の障害はない。原爆投下。飛行機は、急旋回して向きを変える。彼らはその後の爆発を目撃したろう。キノコ雲と青い空のコントラストを彼らはどう感じたろう。その下になにが起きたか、わずかでも想像をしてみたろうか。いや、ここで作られたプルトニウムは、広島のリトルボーイに使用されたものではない。長崎だ。私は、コーラスが佳境にはいるのを聴きながら映像を長崎上空に切り替える。広島の時と同じようにテニアン島の基地を飛び立ったB29「ボックスカー」は、当初、北九州の小倉へ向かう。小倉上空、視界不良。靄がかかって目標が視認できない。しばらく上空をさまようものの、視界は晴れず、目的地を変更。長崎へ向かう。長崎上空、曇天。視界不良。しばらく待機するものの、目標が視認できる気配はない。あきらめかけたその時、一瞬、雲の切れ間が開けた。長崎の街が見える。山に狭まれた細長く広がる市街地はおもちゃのように小さく見える。投下。旋回、爆発を見届ける。その時、彼らの目に映ったキノコ雲は、美しかっただろうか。その下に流れた多くの血と叫びは、上空高くの彼らには届かなかった。コーラスは繰り返す 。主よ、憐れみたまえ、よるべなきこの魂を。憐れみたまえ。憐れみたまえ。主は、いったい誰を憐れむのだろうか。みずからの消滅に気づくこともなく死んでいった人びとか、そのような兵器を善意のもとに使命感をもって開発した科学者か、技術者か、それを投下した若き兵士たちか、あるいは、原爆投下後の世界を生きなければならなかった人びとか。ふと視線を動かすと、スティーブが自分の席からちらちらとこちらを見やっている。彼は心配してくれている。大丈夫。I'm O.K. I'm all right. 表情に出さないまま、心の中でつぶやく。コーラスは、神の恩寵を請い、讃えるフレーズが続く。何度となく考えたことがある。仮にこの原爆投下がなければ、原発事故のあとの状況も大きく違ったのではないか、と。これさえなければ、私たちは、これほど多くのものを失うことはなかったのではないか。あるいは、原子力が兵器としての開発よりも先にエネルギー源として発展していたならば。だが、いずれも起きなかった現実だ。私たちは、原子力大量破壊兵器として生み出され、現実に原爆投下という形であまりに多くの人びとを殺傷したのちに、それを平和利用へ転用した世界を生きるしか選択がなかった。憐れみたまえ。物語がここでは終わらなかったことを。その後も世界は続き、この災厄の後始末を何度となく引き受けなくてはならないことを。

コーラスは終わり、会場は笑顔で拍手を送る。私は、時差ボケの影響もあったかもしれないが、時空を浮遊してきたかのように、いつまでも思考が定まらなかった。投下してきた若いパイロットたちのその後の人生を思った。彼らの多くは、原爆投下による被害の大きさを、地上の地獄の惨状をずっと後に知ったろう。パイロットの多くは、亡くなるまでずっと原爆投下の正当性を主張し続けていた、と報道などで聞いていた。無理もない。自分が引き起こしたあれほどの惨状が、戦争終結において無意味なものであっただなんて、耐えらえるはずがない。彼らが生き抜くために、これが無意味な殺戮ではなかったという物語は必要だったろう。個人が負うにはあまりに巨大すぎる災厄にかかわりあってしまった彼らの魂こそ憐れみたまえ。

ティーブが私のそばにやってきた。コーラスはどうだったか、と尋ねる。とてもいいコーラスだった。本当にここの音響は不思議ね。彼は少しほっとしたような表情をして、そう、こんな場所でコーラスだなんて不思議かもしれないけれど、自分も最初はびっくりしたんだ。このコーラスグループは地元の小さな団体で、でもあちこちで定期的に演奏活動をしているんだ。指揮者は自分の友人で、と、一生懸命説明をしてくれようとしている。私は、昼間の退役兵をもう一度思い起こした。大丈夫。私たちは、いまはいい友達なのだから。