2020/04/13 『休戦』を読みながら

プリーモ・レーヴィの『休戦』を読みながら、日を過ごす。この本は、ずいぶん前、震災よりももっと前だから10年以上前に、図書館が蔵書整理した時のリサイクル図書として持ち帰り自由になっていたものをもらってきた。ほとんど一度も開いた形跡もないのだけれど、なぜリサイクルになっていたのかはよくわからない。いわき市はあちこちに図書館の分館があるので、いわき市全体で所有していればいいということで、整理に出されたのかもしれない。

世界の共通経験と呼ばれるものはあまり多くはない。世界の誰と話しても、その時のことが共通の話題になる、というような経験のことだ。違う文化圏の人との会話では、この共通のネタを探すのが結構難しいのだけれど、第二次世界大戦はこの共通経験として会話できる数少ない話題だ。あの時、どうだったか。もちろん直接経験した世代の人と話すことはほとんどないけれど、親、祖父母の世代の話としては、どこででも話すことができる。そして、各国、あるいは民族によって、同じ出来事でありながら、それぞれまったく違う経験となっている。日本は否応なく敗戦国であることを理解するし、被害/加害がしばしば逆転することもわかる。イタリア系ユダヤ人であるレーヴィの経験した第二次世界大戦は、またまったく違う。

長い間、もらってきたまま放置しておいたのは、なんとなくアウシュヴィッツに関連する著書であるなら、そこからなにか教訓めいたものを感じなくてはならないような無意識の思い込みがあって、気が引けていたからだったのだと思う。先日読んだ宮地尚子さんの著書にもレーヴィのことが少し触れてあって、そうかこういう読み方もあるのだな、と思ったからだった。理知的で、どことなくユーモアがあって、出会った人たちの描写も生き生きとしていて、そこから無理に教訓めいたものを引き出す必要もなく、読書として楽しめている。なるほど、これが「記録文学」か、と今更ながら感心しているところ。明日中には読み終えたい。

今回のパンデミックも、この先の長きに渡って世界の共通経験として語り継がれることになるのだろう。その時に重要になるのは、どのような物語を共同体として共有できるか、なのかもしれない。出来事そのものの事細かなデータが集合記憶として残ることはない。現在進行形の時には数字が事細かに語られるが、ことが過ぎ去ってしまえば数字はあっという間に忘れ去られる。原発事故のことを思い出してみるといい。あの時に熱心に語られた数字を記憶している人がどれだけいるだろうか。いわば、共同体の情動の記憶として物語られるものだけが、集合記憶として共有されることになる。その集合記憶は社会の紐帯、もしくは亀裂となる。とすると、パンデミック収束後の趨勢は、その社会がどのような物語を共有することができるかにかかっているのかもしれない。いま現在は、死者数をもって各国の対策の成否を語られているが、後々重要になってくるのは、あの時、どれだけ苦難に助け合いながら立ち向かうことができたか、励ましあったか、誇り高く、そして賢く振る舞えたのか、慈しみあうことができたか、そうした物語を共有のものとして生み出せるかで、それが、社会としてこのパンデミックを克服できたかという指標になるのかもしれない。