2020/04/11 パンデミック雑感5 経済と生命のバーター

経済活動と国民の生命がバーターになっているかのような議論をみながら、これもまた原発事故の後に起きた議論とそっくり同じだなと思いつつ、条件の違いを加味し、考えている。つまり、原発事故の場合は、よほどの高線量でない限りは放射能の健康リスクは遷延的なものであり、いわば抽象化された「いのち」であったのに比して、今回はただちに直接の健康と生命にかかわってくる、目の前に差し迫ったリアルな「生命」の問題となる。

マクロな観点でみれば、経済活動の抑制と人命とがバーターに近い関係になるにせよ、それが「バーター」とまでみなせるようになるには、身体の安全性が一定程度確保されることが条件となる。身体の安全性が一定程度確保されない限りは、そこに選択の余地はない。たとえば、エクアドルのように路上に遺体がごろごろと放置されたような状態で、あるいは、スペインやイタリアのように体育館などが遺体安置所となり大量の遺体が安置され、あるいは、ニューヨークのように墓地への埋葬がまにあわず集団埋葬されるような状況において、経済活動と生命がバーターとすることは、まず考えられないであろう。パニック状態の病院で医師や看護師が次々と感染し、100人を超える医師が死に、通常の医療活動は完全に麻痺し、あちこちの家庭で病院に収容しきれなかった患者が自宅のベットで死んでいる。その横で平然と経済活動を続けられる人間社会は、人間が人間である限りにおいて、どのような政体の社会であっても、存在しないはずだ。現代社会であろうとも中世であろうともそれは変わりない、と私は確信している。

一方で、ひとたび致死的な未知の感染症パンデミックを起こした以上、そのリスクをゼロにすることはできない。ある程度の上乗せされたリスクとともに当座は生きていかざるを得ない。

経済と生命とをバーターにかけられるようになるには、このふたつの条件を満たすことが前提となる。社会における身体の安全性が一定程度コントロール可能な形で確保されていること、そして、一定程度のリスクを認めること。この条件が整ってはじめて、「一定程度」をどこに置くのかと言う意味で、経済活動と生命のバーターを考えることが可能になる。

日本における議論は、こうした前提条件を踏まえない極論が多く見られ、それがしかも知的エリートと呼ばれる人の間にまで蔓延しているように見受けられる。

原発事故の直後、原発直近地区に出た避難指示が入院患者を無理に移動させることになり、多くの死者を出す凄惨な事態に至った。非常に痛ましく、一報を聞いたときの愕然としたことはいまも思い出される。だが、このとき、他の選択があったのかと言われると、私には「あった」とは言えない。たとえば、地震津波の被害がなく、原発事故単独の事故であれば、やりようはあったと思う。もしくは、事故が起きたときの周到な避難計画があったならば、少しはマシだったかもしれない。だが、現実にそうした状態ではなかった。間近に事故機が見える病院で、原発の爆発音も聞こえ、放射線量が急上昇するなかで、患者を避難させない、という選択肢があり得たのか。患者が避難しないということは、すなわち、介助者や医師、看護師、薬剤師なども病院にとどまることを意味する。あらゆるインフラも物流も止まったなかでそれが可能であったとは思えないのだ。こう記すのは、このときの避難指示に関して怒り狂っている当時の政府関係者の文章を目にしたからだった。では、あの時、どうすることが可能だったのか。本当にそれが可能だったのか。私には、その関係者が真剣に検証し、考えた上での結論であるとは思えない。

かるがるしくなにかと生命のバーターなどと言い出す人は、きわめて制約の大きな選択と非常に限られた短い時間のなかで判断せねばならないことと、長期的な観点で周到に考えておくことの区分がそもそもついていないのではないか。また、そこでくだされる苦渋の判断の重みも理解できていないのではないか。そんな浅薄な考えで国民の生命を左右する施策を打ち出しているのではないか。しばしばそう言ってやりたくもなるのだった。