(読書メモ)『災害の襲うとき』被災地への眼差し

ビヴァリー・ラファエルの『災害の襲うとき』は、いちいちメモをとりたいところが多く、ほとんどすべてのページに付箋をいれてしまっているようなありさまだ。(先日のノートで、ラファエルをアメリカの研究者と書いてしまったけれど、オーストラリアの研究者だったようだ。訂正。) なぜ研究者でもないソルニットがあれだけ詳細な分析をかけたのかがずっと謎だったのだけれど、ラファエルをはじめとした先行研究によるところが大きいのだろう。私は、本の好みとしては論文調の硬い文体が好きなので(逆に口語調の文章は苦手で、途中で集中力が切れて最後まで読み切れたことがない。)、ソルニットよりもラファエルの著書の方が読みやすいのだが、ソルニットのような読み物として一般にとって読みやすい形で研究者の先行研究にオリジナルの調査を加えて書く、という方法もあるのだな、と感心している。

私がずっと考えているのは、以前から書いているように震災のあとのいささか異様であった盛り上がりについてだった。なぜ、こんなに気になるのかは自分でもよくわからないのだが、自分に起きた出来事を把握して起きたいと言う欲求がもともと強いことと、どこまでが必然で、どこまでが避け得たものなのかを見極めることによって、自分の過失割合を知りたいというのが大きいのかもしれない。過失割合によって、どれほどの自責感を持つべきかがつかめるし、また次の対策も考えられる。あるいは、対策はなかったのだから、次はケセラセラ、運命を天に任せるしかないな、と割り切ればいいと思えるかもしれない。(私は結論が出るまでは、人一倍どころか人五倍くらいはねちこく考え続けるのだが、結論が出た後の割り切りが異様に早いため、第三者から見ると怖い人に見えるらしい。)

『災害の襲うとき』は先に書いたようにあちらこちら頷くことばかりなのだが、「災害による死別は公共性がきわめて強い」という指摘の箇所もなるほど、とうなったところだ。

その死別がいつ、なぜ、どのようにして起こったかについて、少なくともおおよそのことは、誰しも知っている。だから遺族に対しては一般からの多くの同情と支援が集まり、死者を出したこと以外にはその災害によって直接被害を受けていない場合でも、配慮や保護の手が集中することになろう。(168ページ)
一般からの同情と支援はまた一般からの期待をともなうものである。遺族はけなげに対応することを期待され、また彼らがこうむった喪失は、他の被災者たちの喪失とその大小を比較検討される。遺族は型どおりにふるまうことを期待され、期待どおりにも悲嘆を表出することを望まれることが多い。このような一般からの期待は、遺族の自然な対応の仕方とは大いに異なっていて、その結果さらにストレスをつのらせることにもなりかねない。(略) そして一般からの期待でもう一つ問題になるのは「時間」である。つまり遺族たちは「もう当然立ち直っている頃だ」という期待を、あからさまに見せつけられることが多いのである。(168ページ)

「災害の公共性」と、その性質がもたらす第三者からの眼差しは、東日本大震災福島原発事故でも大きな問題となった点だ。これを災害後の二次被害のひとつと呼んでも差し支えないだろうと思う。SNS文脈でいえば、「マスコミ」がこうした「型どおり」の切り取りを被災地で行ったというのが定説なのだが、実のところ、マスコミもSNSも同じであった。私の実感としては、2012年くらいまではSNS上には被災地からのすべてではないにせよ、多種多様な声が溢れており、そのなかには「自然な対応の仕方」に近いものもあった。だが、そうした「自然な対応」の声は、SNSという不特定多数の場で晒すにはあまりにナイーブなものであり、多くの喧騒に傷つき、そうした声はすぐに聞こえなくなってしまった。(おそらくその人たちはトラウマ受傷をしたであろうと思う。) その後、残ったのは、SNS文脈で受け入れられやすい、マスコミの求める「型どおり」とは違ったタイプでの「型どおり」の声で、それらが大勢をしめることとなった。だが、これらは、マスコミやSNSといった媒体の問題ではなく、被災地に集まる非被災地一般からの同情と期待がもたらす帰結であり、外からの眼差し、期待と内からの発信が交差する場では、必ず発生する事象であるといえよう。震災後、SNS社会となり、外からの眼差しも内からの発信も増すことになったため、その現象は、かつてより大規模になり、より多くの人の目に触れるようになった。だが、現象そのものは本質的に変わりはないと考えてよいだろうと思う。

ただ、現代特有の、あるいは日本社会特有の要素なのかどうか気になるのは、「一般からの期待」にそぐわない反応を行う被災者に対して強いバッシングが起きたことだ。期待通りの対応を行う被災者に対しては、過剰な共感と身びいきが行われる一方で、期待通りの対応を行わない被災者に対しては、氷のような冷たさでその存在さえ無視するか、そうでなければバッシングというのは、社会病理とさえ思える極端な反応であるように思える。これは、今のところまでのラファエルの分析にはない箇所である。