スティーブ&ボニー (9)

街中に戻ってから、車から降りることもなく、それぞれの車は分かれた。私たちはスティーブとボニーの家へ。鍵のかかっていない玄関から家に入ったあと、私は部屋で休むことにした。日本との12時間の時差があるこちらで午後に入ると、日本は深夜になる。その時間になると眠気で頭がぼんやりしてきてしまうのだ。かといって、ぐっすりと眠れるというわけでもない。ベッドの上で眠りの入り口までいっては引き返すような時間をしばらく過ごした後、キッチンへ向かった。ぼんやりしたままの頭で、昨夜夕食を食べたデッキからステップをおりて、芝庭を歩く。庭の片隅には小さなかわいらしい畑があり、ハーブが何種類か、それからほんの少しの野菜が植えてある。畑の反対側にある大きな木には、秘密基地のような足場が幹の途中につくられていて、そこから反対側の木へ向かってローブが張られている。ロープには滑車付きのブランコがついていて、上からロープを伝わって滑り降りて遊べるようになっている。スティーブが孫のために自分で作ったんだ、とボニーが言っていた。

庭をひとまわりして家の中に戻ると、スティーブが待っていた。これから、民主党の集まりに行くけれど行くか、と尋ねられたので、もちろん!と返事をする。すぐ近くの公園で開かれているけれど、歩いて行くにはちょっとだけ遠いので車で行こう。集まりと言っても、公園にテントを張って、その下に食べ物を持ち寄って、来たい人がふらっと来て話すだけの集まりだ。なんの制約もないし、司会進行があるわけでもない。ただ、食べ物をつまみながら候補者や来た人が話すだけなんだ。今日はもう終わりかけの時間だから、人も少ないかもしれない。説明を聞きながら車で数分移動して、目的地の公園についた。大きな川のまわりに木が生い茂り、遊歩道が整備されている。駐車場の正面には東屋が見え、そこにテントが張られ、人が集まっているのが見える。どうやらあそこらしい。スティーブが近づいて、知り合いらしい人に小さく挨拶をして、私を紹介する。日本から来たお客さんだ。日本と言えば、とスティーブの知人が、今日は日本人が来ているんだ、と向こうを向いて、誰かを呼び始めた。こんなところで日本人に会うなんて。向こうから、日本人の風貌をした70代半ばから後半くらいだろうか、老夫婦が近づいてくる。初めまして、初めまして、と日本語と英語で挨拶をする。日本人といっても、私は日系2世で、ああ、彼女は若い頃にアメリカに来た1世ですが、と流暢な英語で話した後、私の名前はフクダ・タカシです。彼女は、アキコ。私たちは、この近くに住んでいます。と付け足した。私も自分の名前を名乗り、握手をする。スティーブが、自分たちが主催する会議に参加して話してもらうために、彼女は福島から来たんだ、と英語で説明する。ああ、福島…、と言った後、フクダさんは、言葉を探すように口ごもって、長く日本語を話していないから言葉が出てこない、と苦笑いしてそのまま流暢な英語で話し始めた。自分たちは、このすぐ近くに住んでいるけれど、今日、ここに来たのは本当に偶然で、今ま�� �一度も来たことがなかった…。気がつけば、民主党の候補者と思しき女性もすぐそばにきて話に耳を傾けている。スティーブとも初対面のようだ。フクダさんともスティーブとも握手をして自己紹介をする。スティーブは、自分はNAVYにいたんだ、と言う。彼女は間髪を入れずに「あなたの貢献に感謝する」と答えた。アメリカでは軍隊従事者にはそう応えるのが、政治的に正しいとされる作法なのだろう。スティーブの自宅にあった彼女の写真入りのリーフレットを思い出した。次の下院議員選挙に立候補予定らしい彼女のそのリーフレットには、「 "WE THE PEOPLE" MEANS ALL PEOPLE, NOT JUST A SELECTE FEW. 」(注:意味は、"私たちアメリカ合衆国国民は"が意味するのは、すべての国民であって、わずかな選ばれた人間だけのことではない。アメリカ合衆国憲法前文は WE THE PEOPLEから始まる)と赤地に白い文字で大きく書かれていたのを思い出していた。彼女も私たちの輪に入って熱心に耳を傾け始めた。

フクダさんは話を続ける。私は日系二世で、両親が日本からアメリカに渡ってきた。戦争が起きる前は、サンフランシスコの近くに暮らしていた。近所のアメリカ人とも仲良くしていたし、自分はアメリカ人だと思って学校にも行って暮らしていた。ところが、戦争が起きてから、日本人は敵国だということで、自分たちはアメリカ人じゃないと言われ、収容所に入れられてしまった。ここまで聞いて、スティーブと候補者の女性は、首を横に大きく振って、ため息をつきながら言う。ああ、アメリカは間違いをおかしてしまったんだ。申し訳ないことをした。フクダさんはその言葉を受け流して、そのまま話を続ける。狭い場所に押し込められたこともショックだったけれど、親しくしていた友人たちの態度まで変わってしまったことがとても悲しくて、悔しくて、ショックだった。それまでは、なにひとつまわりのアメリカ人と変わらないと思って暮らして来たのに。私は四人兄弟の末っ子で、一番状況を理解できていなかったと思うけれど、上の兄はアメリカ人であることを示すために軍隊に志願すると言って、母が必死に止めていた。あの時の母の憔悴した様子はとてもよく覚えている。母もせつなかっただろうと思う。戦争が終わったあとは、こんなにひどい思いをしたのは、自分がアメリカ人でなかったせいだ、日本人だったからだと思って、日本にかかわるすべてのものを捨ててアメリカ人になろうとしてきた。日本語も一切話さなかったし、日本人との付き合いもしてこなかったし、日本のことはぜんぶ忘れて、とにかくアメリカ人になろうとしてきたんだ。そして、そういう嫌な思いもあるから、政治も大嫌いで、政治からもずっと距離を取って来た。こういう集まりも本当に一度も足を運んだことがなかった。それなのに、今日、本当にどうしてなんだか、ふっと足を運んでみようかという気になって…。横にいた奥さんも、同じように頷いている。

戦前から、太平洋に面したアメリカ西海岸の都市には、海を越えて渡って来た日本人が暮らしていた。彼らはアメリカ合衆国の市民権を合法的に得ており、正当なアメリカ合衆国民であった。だが、第二次世界大戦が勃発してから、在米日系人への風当たりは厳しくなり、次第に市民権の制約などが行われることになった。やがて、戦争がいよいよ激しくなると、「敵国民」として各地に設けられた収容所に強制的に収容され、それまでに築いて来た財産も没収されたと言う。戦後かなり時間が経ってから、当時の政策に対して連邦政府からの謝罪が行われ、政府も公式に政策の誤りを認めたはずだった。しかし、それは戦後30年以上を経て生まれた私の記憶にさえ残るくらい時間が経過してのちの出来事だ。

私はじっと目の前のフクダさんを見つめながら話を聞いていた。長い期間話されることのなかったさびついた日本語、異国の言葉となった母語。日本人であるというアイデンティティを捨てることによって、アメリカ人としてのアイデンティティを獲得しようともがき続けたのが、彼の長い戦後だったのかもしれない。だが、彼の名前は明らかにそのルーツが日本にあることを示しているし、また、風貌も紛うことなきアジア人、日本人から見ればひと目で日系人だとわかる。そして、彼のそばにいる奥さん、彼が結婚相手として選んだ女性もまた日本人であった。捨て去ろうとしても捨てきれなかった彼の日本人としてのアイデンティティへの思いがそこにあるように思え、私はやるせなかった。勝利に湧く戦後アメリカで、敗者の屈辱を彼は噛み締めて生きてきた。与えられた屈辱から逃れる代償に彼は故国のアイデンティティを捨てた。勝者の国で敗者として長い戦後を生きた人がここにいる。対する私は、彼に敗者の汚名を負わせた故国に戦後30年を経て生まれ、敗者としての自覚を持たずに敗戦国で育ち、いまここにこうして立っている。

移民大国であるアメリカには世界中のあらゆる地域から来た移民が暮らしている。大抵の移民は出身国ごとにコミュニティや組織を作り、自助努力社会アメリカで助け合いながら生き抜こうとするのだという。だが、在米日本人だけはコミュニティを作らないし、作ってもあまり大きな組織にならない。それは、戦中の日系人排斥運動が原因だという。この時の経験から在米日系人は目立たないで暮らすこと、日系人であることを隠すことを優先するようになったのだという。

候補者の女性は、途中で何度か口を挟もうとしたが、これまで溜めてきたなにかを一気に吐き出そうとするかのように途切れなく語るフクダさんの言葉を遮ることはできず、途中からは、頷きながら聞いていた。彼女の書く "WE THE PEOPLE " の一員として認めてもらうために人生のほとんどすべてをかけて来た人が目の前にいるということに、彼女は気づいているのだろうか。

フクダさんは、自分のことばかり語りすぎたと思ったのだろうか、だからこういうわけで、日本人とは言っても私は日本との親戚の付き合いもまったくありませんし、日本のことはなにもわからないんです。そう言って、ああ、だけど、彼女は日本の親戚と付き合いがありますから。と奥さんの方を見た。私は、ご出身はどちらなんですか? と英語で尋ねた。彼女は、広島です、といった。私は驚いて、私も出身は広島なんです。今は福島に住んでいますけれど、と言うと、彼女は少し慌てたように、広島とは言っても、自分の住んでいたのは広島の街中からは離れていた場所なんです。あら、広島のどちらですか? 庄原です。ああ、庄原! アメリカでそんな地名を聞くことになるなんて。私の友人にも庄原の人がいます。そう、庄原は広島から離れているから、私たちは原爆の影響もなかったんだけどね。これまでそんな話はしていなかったのに、彼女は急に原爆の話を始めた。私に姉がいるんです。姉は看護婦をしていて、原爆が落ちてすぐに庄原から広島に救援に向かったんです。そこで、残留放射能による被曝を受けて、被爆者なんです。今も90近くになって、広島で元気で暮らしているんですけれど。ああ、お姉さんはお元気なんですね。それはよかった。そう言う私の言葉に被せるように、彼女は言葉を継ぐ。ええ、姉はよかったんですけれど、姉の娘がひとり若くして乳がんになってね、早くに亡くなっているんです。きっと、それは姉が結婚する前に入市被曝をしたせいだと思うんです。彼女は眉間に少し皺を寄せたまま、重大な秘密をわけあうような真剣な表情で話す。やっぱり原爆の影響というのはこんなふうにあるものなんですね。横にいる夫のフクダさんも頷いている。私は黙って話を聞いているスティーブを横目て見た。彼はこの話をどう思いながら聞いているのだろう。これまでの被爆者の健康追跡調査では、被爆二世には被曝と発がんとの因果関係は認められていない。彼女の姪にあたる女性が乳がんで� ��くなったことに母親の被曝が関係している可能性は低いだろう。それは、原子力放射線にかかわる研究者にとってはほぼ常識と言える。だが、スティーブはなにも言わなかった。悲しみをたたえた、でも、見据えるように力を込めた瞳で、じっとフクダさん夫婦を見つめていた。

私は、考えていた。これまでも何度となく同じ会話をした。広島の被爆者の話を聞いたという人から、原発事故の影響を心配する人から、なにげない雑談のなかから、将来こんなことが起こるのではないか、過去にこんなことが起きてしまったのではないか、そんな話を聞いた。そのたびに、私は反駁しようとして、そして、最後は口ごもった。なぜなら、被曝と病の因果関係を否定することがその人たちにとってなんの役にも立たないことに気づいていたからだ。アキコさんのお姉さんの人生を思った。苦難のうちにも平穏だった庄原から原爆投下直後の広島に入り、この世の地獄絵図を彼女は目撃したろう。あまたの、あまりに多すぎる凄惨な死を目撃し、そして、帰郷してからのちは、自分自身が放射能の影響に怯える日々を過ごした。もしかすると偏見もあったかもしれない。きたるかもしれない自分の健康への影響に一抹の不安を感じつつも、結婚し、子供をもうけた。やがて、成人した子供も独立し安定した日々を送っていた。だが、順調に生活していたはずの娘に乳がんが見つかったとの知らせを受ける。なぜこんなことに。自分の被曝以外に理由は考えられない。やがて娘さんは亡くなる。失意のうちに、彼女は娘さんの短い人生の意味をきっと繰り返し振り返ったろう。そこで、その娘さんの死と放射能は関係ないと言うことに、どれほどの意味があるというのだろうか。すでに失われてしまったものの大きさ、そして失われたものとともに過ごした長い長い時間に対して、その言葉はあまりに無力で無価値だ。私はひと言だけ言葉を発した。こういう時に、ほとんど唯一意味があると思われる言葉を。姪御さん、お気の毒でした。

アキコさんは、でも姉は元気ですから、先日も連絡をとって今年もクリスマスプレゼントを送ろうと思っているところです、と先ほどの悲しみを振り払うような笑顔で語った。ほら、ここはハンフォードも近いじゃないですか。もちろんそのことを私たちは知っていたんだけれど、こういう話を人としたこともなかった。どうして、今日ここに来ようと思ったのか、こんな話をすることになるなんて、とフクダさんは不思議そうに繰り返した。私は考えていた。私たちは、ほんとうは今もなお長い戦後を生きているのだ。普段は忘れている、思い出すこともない、気にすることもない。だが、潮が満ちるように、なにかの条件が重なったときに、稀にそれは顔を出す。私は、アキコさんの背後に聳え立つ針葉樹の上を、エノラ・ゲイを積んだB29爆撃機と木と紙でできたと言われる日本の零戦が交差する姿を思い浮かべた。候補者の女性は、いつの間にかいなくなっていた。フクダさん夫妻は、自分のことばかり話してしまった非礼を丁重に詫び、でも話せてよかったです。そう言って去って言った。別れ際の挨拶で、私たちは "See you" とは言わなかった。ただ、" Thank you" そして" Good bye" とだけ。私たちが2度とふたたび会うことがないのを知っていたから。さようなら、日本語でそう付け加えた。

帰りの車で、スティーブは言葉すくなだった。考え込むようにしてから、話しはじめた。驚いた。いままでこの町で彼らはもちろん他の日系人とあの集まりで会ったことはないし、ましてや、広島生まれのあなたが来ているときに広島の話を聞くことになるなんて。こんな偶然があるんだろうか。驚きを吐き出すように、一息で言った後、彼は黙り込んだ。スティーブの驚きはよく理解できた。でも、これは私にとっては原発事故のあと時折あることだった。出来事そのものが訪問者を待っていたかのように、それを目撃するに値する人が訪れるのを待ちかねていたように、私の目の前で過去の出来事と出来事がつながることが何度となくあった。きっと、フクダさんは心の底でずっと待っていたのだ。自分の戦後を語ることができる機会を、語りうる他者の訪れを。