スティーブ&ボニー (10) キャラバンは砂漠をゆく

家に帰ると、ガレージには先ほどの集会で会ったスティーブの知人がいた。ボニーと話しながら、テントを片付けようとしている。どうやらテントはスティーブの所有物のようだ。Tシャツに半パンのラフな格好をした栗色の短髪の背の高い男性は、スティーブとボニーと親しそうに話しながら家の中にも入ってきた。そして、昨日と同じデッキの上で夕飯を一緒に食べていくのだという。地元のワインを勧められて一緒に飲みながら途中で気づいたが、彼は、スティーブとボニーの息子であるらしい。よく見ると、顔もスティーブに似ている。親子で熱心な民主党支持者であるということのようだ。サラダが主体のさっぱりとした夕飯を食べながら、スティーブは先ほどのフクダさん夫婦の話を少し興奮気味に話しているようだった。息子さんはとても興味深そうな表情をして、ときおり私の方を見ている。スティーブの息子の英語は両親のものよりは少し聞き取りやすいものの、やはり私には聞き取るのが難しく、親子の気兼ねなさでくだけた早口で話すものだから、昼間の疲れと時差ボケとワインとであっという間にぼんやりしてしまった私には、会話の内容はほとんどわからなかった。ただひとつ、スティーブとボニーには彼を含めて三人子供がいて、みんなこの近くに住んでいる、ということだけはわかった。それから、スティーブの息子も、スティーブと同じようにとてもやさしい眼差しをしていること。

ベッドに入って数時間眠ったあと、疲れていたのに、夜中の12時を過ぎるとぱっちり目が冴えてしまい、明け方までまた寝付けず、ぼんやりした翌日を迎えた。起きてキッチンで、カプセル式コーヒーメーカーで自分でコーヒーを作る。ボニーが昨日のうちに使い方を教えてくれた。コーヒーも紅茶もカセットを変えて、自分で飲みたい時にいつでもこれで作ればいいから。コーヒーを飲んでいると、ボニーがやってきて、朝ごはんを食べる?と昨日と同じように簡単な朝食を出してくれる。昨夜の残りのおかずと野菜とたくさんのフルーツ、それから薄いパンケーキ。腰を落ち着けているときは、いつも編み物をしている。かといって、気にしていないわけでもなく、食べ終えてお皿があくと、もっと食べる?と声をかけてくれる。おなかいっぱい、ありがとう。ボニーとスティーブのもてなしは、こんな感じで、気を配ってくれてはいるけれど、必要なことだけをするとあとは放っておいてくれる。あまり話しかけてくることもないけれど、話すことがあれば、お互いに通じない英語で一生懸命教えてくれようとしてくれる。私にとっては願ってもない理想的なもてなしだった。これが、饒舌だけれどこちらに無関心なアランの家だったりすると、どれだけ滞在先での時間がどのようなものになったか、想像するだけで恐ろしい。

昨日の読みかけのTri-City Herald の記事の続きを読む。ハンフォードの核廃棄物の処理の問題についての小さなコラムがある。記事は書く。来年度ぶんの予算はついたが、1945年に日本に落とされた原子爆弾の原料生産にはじまる大量の核廃棄物は、ハンフォード敷地に大量に残されている。それらのクリーンアップ作業は、残念ながら25年遅れている。10月1日から執行される予算年度の予算がついたのは喜ばしい。これらのクリーンアップを完了させるのは、国家防衛のためにハンフォード事業を開始した連邦政府の責任である。だが、毎年、下院ではハンフォードの予算を巡って戦いが繰り広げられている。地元代表者以外の議員にとっては、クリーンアップは急ぎのものと思われていないようだ。だが、タンクの不良などから環境への漏出もすでに認められている。完了前に災害が起きたらどうするのか。オバマ政権と同様にトランプ政権も予算を削減している。これだけ減らして、どのようにして地元コミュニティと締結した法的拘束力を持つ約束を果たせるというのか。民主党であれ共和党であれ、地元選出の議員は党派を超えて、クリーンアップを進める予算をつけるよう連邦政府に強く要求し続けなくてはならない。読みながら、ハンフォードの核廃棄物問題が、福島の廃炉作業の近い将来と重なって見えてきた。その先に将来につながる成果があるとも思えない廃棄物処理は、どの国にとっても有望な投資先ではない。差し迫った危険性があったり、予算が潤沢であるうちはいいが、関心が薄れれば真っ先に削られることになるのだろう。そして、その問題を気にし続けるのは、地元に住む人間だけになる。10年後の福島の地元新聞にもこれとまったく同じ記事が載ることになるのかもしれない。

夕方からは、その廃棄物の生産元となったハンフォードサイトのBリアクターを見学することになっている。見学ツアーの集合場所に向かうために車に乗ろうとした時に、スティーブが私に声をかけてきた。リョーコ、この人は日本にいたことがあるんだ。私たちの隣人だ。見ると、電動車椅子に乗った恰幅の良い白髪の白人男性が、駐車場のすぐそばにいる。初めまして。彼も笑顔で挨拶をする。彼はもう90を超えているんだ。でも、いまもかくしゃくとしている。彼も海軍にいて、日本にいたことがあるんだ。日本のどちらに? ヨコスカだよ。日本はとてもいいところだった。良い思い出ばかりだ。とても楽しかったよ。日本は、今はとてもいい友人だ。彼は、とても90を超えているとは思えないしっかりした口調で話す。90を超えているということは、終戦直後の占領軍として日本に進駐していた頃の一員かもしれない。彼のまわりを日本の子供達が、ギブ・ミー・チョコレートと走り回ったのだろうか。彼のにこやかな笑顔に、日本に来てくれてありがとう、とも、楽しんでいただけてよかった、と言うのも妙な気がして、ただ笑顔で応じた。昨日のアランとの車中の会話を思い出していた。勝者の余裕だなと、ふと思った。かつて私たちは敵同士だった。そして、彼らは勝ち我々は負け、そしてなんにせよ、私たちは今はいい友人なのだ。

ハンフォードツアーへの集合場所には、バスが4台ほど待ち構えていた。名簿に従ってバスに分乗する。まわりはアメリカ人が大半なようだが、ヨーロッパからの参加者もいるようだ。ドイツ語のような言葉も聞こえてくる。私を今回の会議に引っ張り込んだICRP科学秘書官のクリス・クレメント、それからジャック・ロシャールの姿も見える。彼らとは別のバスなので、簡単に挨拶だけして、それぞれのバスに乗り込む。発車したバスは、昨日と同じ道を辿って北上をはじめた。地元の人が、道中リッチランドとハンフォードについてのガイドをしてくれるという。マイクを握った白人の4、50代くらいの男性が話しはじめた。

マンハッタン計画以前、ハンフォード一帯は、ネイティブ・アメリカンと少数の白人入植者が住んでいただけだった。1942年にアメリカ政府が核兵器開発を進めるマンハッタン計画を決定してから、開発にあたっての適地探しがただちにはじまった。条件はいくつかあった。広大な敷地があること。大量の水が入手可能であること。開発に必要な電力供給が可能であること。近隣に都市がないこと。安定した地盤であること。ハンフォード一帯はその条件を満たした。先住者たちは90日以内に立ち退きを迫られた。(バスの解説ではあまり触れられなかったが、240人ほどいた先住者たちは、ネイティブ・アメリカンはもちろんのこと、白人入植者もほとんど補償もなく追い出されたのだと言う。) 最初の原子炉となったBリアクターの建設は1943年10月に開始され、翌年9月には操業を始めた。建設開始から操業開始までの期間はわずか11ヶ月。これは、世界の原子炉建設の歴史のなかでもっとも短い記録であると言われているそうだ。原子炉建設と並行して、サイトで働く人たちのための街づくりも行う必要があった。ハンフォードサイト建設が始まった時点で、居住可能な家屋はわずか19戸しか存在しなかった。対する労働者は、16,000人になると予測されていた。設計者は、90日以内に街の設計を終えることを求められた。ここからが驚きなのだが、これだけ短期間の設計であったにもかかわらず、街の設計にあたっては、居住空間の快適性とコミュニティ作りが十分に配慮されていた。当時のハンフォートサイトは、軍事機密プロジェクトで、作業員たちは閉鎖環境で暮らすこととなる。そのため、サイトから自宅に戻った時に、十分くつろげるように、家屋は窓も大きくとり、周辺には緑を植え、ご近所との交流がしやすいような生活用の通路も設計された。自然な街にあるように行き止まりの袋小路まで組み入れられたと言う。家屋も画一的なものではなく、世帯のサイズにあわせてバラエティの富む設計が行われ、配置も工夫された。そ� ��らの住居は、アルファベットの頭文字を順につけられ、アルファベット・ハウスとして、現在も保存されて残っているのだという。こうして設計された街は非常に快適で、暮らしやすいものとなった。また、コミュニティつくりに配慮した設計のおかげもあり住民同士のつながりも良好で、この街では現在でも在宅時も外出時も施錠しないことが普通なのだと言う。1943年3月にはじまった住居工事は、7月末には一部が居住可能となり、1944年の早い時期に1,600戸のアルファベットハウスができあがったのだという。(これだけでは、労働者全員の住居には足りず、追加のプレハブ住居も建築された。) 当時の建設費用はすべて連邦政府の予算で行われ、電球のひとつにいたるまで国から支給されたという。戦後、1957年から60年にかけて住居の払い下げが行われ、街もワシントン州の一般都市となった。この後から、都市開発も行われるようになっていく。1971年には、ハンフォードサイトにおける核兵器生産事業はすべて終了した。その後は、軍事産業だけでなく、そこから派生した化学産業や環境事業のほか、コロンビア川の豊かな水を利用した灌漑農業、ワイン生産などが盛んになっている。現在、リッチランドを含めた周辺都市は発展が著しく、ワシントン州のなかでもっとも人口が増加した、また暮らしぶりも豊かな地域になるのだという。

という解説を、早口のアメリカ英語でガイド役の男性はしていたのだと思う。1時間以上はかかっていると思われるバスの中で、私の英語力で聞き続けるのはしんどく、途中からは窓の外をずっと眺めていた。見れば見るほど、西部劇の風景だ。どこかから馬にまたがった砂漠のガンマンが現れないだろうか。私たちが乗っているのがバスでなく荷馬車であれば、さながら砂漠を行くキャラバンだ。笑顔で談笑する研究者たちを載せたキャラバンは砂漠を進む。歴史上もっとも残酷に人びとを殺戮した武器を産んだ場所に、世界で最大規模の汚染された核廃棄物を抱えるその場所に。