■カバン
人通りの少ない住宅地の現場で作業をしていると、通行人が家人の名を呼び、親しげに声をかけてくる。
いぶかしく思いながら、顔を見ると、従兄の奥さんだ。
脇には、お腹の大きな女性、聞けば、娘さんだという。
会うのは、昨年5月、津波で亡くなった親族の葬儀以来だ。
喪服姿の彼女と、待合室で、大変でしたね、と言葉を交わした。
最初の避難先の福島市では、洗濯物も布団を干している人もいない、本当の所はどうなんだろう、みんな不安そうだ、と、彼女は話した。
私は、もういまは、大気中の飛散はあまりないみたいだから、そんなに神経質にならなくてもいいと思う、そんな風に話をした。
ひととおり、会話をした途切れ間に、彼女が、はにかむようななんとも言えない表情で、「私、カバンないの」と言った。
その力ない笑顔の真意を掴みかね、しばらく沈黙した後、彼女は、着の身着のままで避難せざるを得なかったことを思い出した。
喪服の端をつまみながら「これは、近所で買ったの」「食器とかは、もらえたりするから、結構あるの」と彼女は続けた。
私は、言葉に詰まり、ただ「そうですか」とだけ、返した。
「大変だったね」と後からやってきた親族が声をかけた。
「だけど、きっと、大丈夫だよ」と誰かが言う。
その軽い言葉が、あたかも救いの綱であるかのように、それまでとは打って変わって真剣な表情で彼女は言った。
「富岡町、だいじょぶだろか。もどれるだろか。商店街も、前みたいにみんな元にもどるだろうか」
すがりつくような、たたみかけるような、その言葉に、私はひるんだ。
大丈夫ですよ、と喉まで出かかったけれど、どうしても、言葉にすることができなかった。
一呼吸おいて、小さく「今後次第、でしょうけれど、たぶん、大丈夫なんじゃないかと思いますよ」と口にした。
彼女は、自問するように「本当に大丈夫かな、大丈夫だよね」と呟いた。
それが、去年の5月。
福島市の避難先から、いわき市内の社宅に居を移した事は知っていたので、一度、不在宅に訪ね、郵便受けに名刺を入れてきた。
その後は、気にはしていたが、こちらから連絡は取らなかった。
震災前、夫婦でバイクに乗り、突然、自宅まで訪ねてきたことがあった。
車より、バイクで出歩くことが好きなのだと話した。
息子と共同で建てた、自慢の自宅の話を楽しそうにしていた。
ローンは、もうじき終わるのだという。
生垣の調子が悪く、どうすればいいだろうか、と相談を受け、なにか、アドバイスをした記憶がある。
今度、ぜひ、遊びに来て、素敵な家だから、と彼女は言い、2人乗りのバイクで帰っていった。
私たちは、では今度ぜひ、と答えた。
その時のことを思い起こし、今は、あの家は無人なのだ、と、見たこともない彼女たちの自慢の家を想像した。
目の前の彼女は、少し老けただろうか。
従兄はどうしているの、と夫が尋ね、彼女は笑顔で「クスリ飲みながら、がんばってるよ」と答えた。
季節はとうに新緑から、色濃い緑陰の頃に。
あれから、一年。