■リグビダートルの
何年か前に見たドキュメンタリーの話だ。
チェルノブイリの初期消火にあたった消防士の妻を追った映像だった。
その頃、私は「リグビダートル」という言葉も知らなかった。
通常の装備で初期消火にあたった夫は、急性放射線障害で亡くなった。
「線源」となった夫に近づくことを禁じられていたにも関わらず看病に通い、傷んだ夫の身体に繰り返し口づけた妻は妊娠中で、夫が亡くなった後、流産した。
身体が崩壊していく苦痛の中、生まれてくる初めての彼らの子の名を、夫は決めていた、と言う。
ジャック・ロシャール氏に会った時見せてもらった一枚の絵画の写真と、このドキュメンタリーを重ねて思い出していた。
その絵画には、チェルノブイリ事故後の処理の様子が描かれていた。
グレーが基調となった、暗いトーンの画面の中、彼らは、ごく簡素な防護服のみで、担架に飛び散った核燃料を載せ、回収していた。
私は眼を疑い、ロシャール氏は、正気の沙汰ではない、と、首を横に振った。
彼女の夫は、そんな中のひとりであったろう。
その後の自身の身体的不調、経済的困窮、精神的な不調。
いつまでも見いだせない新たな居場所。
いくつかの場面を鮮明に思い出す。
「あの頃、私は、若すぎて、愛がなにかもわからなかった」
それは、結婚後わずかな年月で奪われてしまった夫への愛なのか、あるいは、永久に喪われた、ごく平凡な、そして、続いていくはずであった日常への愛なのか。
映像の終わりの方で、のどかな川沿いの道をさまようように歩きながら、彼女がつぶやく。
「私、どうすればよかったの。これからどうすればよいの。」
それは、根こそぎ〈根〉を奪われたひとの、哀切と言うにもあまりにも痛切な言葉で、胸に刺さって抜けない。
ドキュメンタリー作家の演出であって欲しい、と、心から願う、しかし、それは、おそらく、演出ではないのだろう。
根を持つこと、根ざすこと。
失うまでは気付かないこと。
失われてからでは、永久に取り戻せないこと。
あの映像の後、彼女はどうしたろう。
わずかであってもよい、かりそめであってもよい。
彼女に魂の平穏が訪れていますように、と、祈るように思い出す。