■わるいゆめ

 悪夢を見た朝は、いつまでも、居心地の悪い感触が抜けきらない。
 あれは夢、これは現実、そんな事はわかっている、しかし、いつまでも、そのあわいに漂っている。
 不意に現実感が脱落し、宙ぶらりんに吊されているような感覚、悪夢はそれに似ている。

  仮置き場だけで、4〜5億ですってよ、
  そんなら、そのお金、一軒ずつに分配して、他のとこに住んでもらった方がいんじゃないかと、オレも最初は思ったんですよ。
  だけど、考える事は、みんな一緒。
  先祖代々の土地があるんですよ。
  じいちゃんや、ひいじいちゃん、ずっと前から暮らして来たんですよ。

  植木屋さんならわかってると思うけど、松なんか線量が高いわけですよ。
  だから、線量下げようと思ったら、この松、切っちまえ、という話になる。
  だけど、その松、ひいじいちゃんが植えた松だったりするわけです。
  嫁さんからしてみたら、子供と松、どっちが大切なんだ、という話になったりして。
 
 私は、農家の家先に植えられた松を思い浮かべる。
 自分で植え、手入れもずっと自分でしてきた松は、樹形もよくはなく、たとえば、名のある庭園や、街場の古い商家や社寺にある松とはまったく趣を異にする。
 洒脱な暮らしに憧れて植えられたその松は、逆に、鄙びた景をいっそう鄙びて見せさせるものであり、そこに何らかの価値を見いだすのは、その松と共に暮らしてきた人間しかいない。
 私は、その暮らしを知っている。
 その暮らしの織りなす綾を、美しくもなく、偉大でもなく、むしろ、卑小ともよぶべき、けれど、連綿と繋がれてきた、その暮らしを、知っている。 
 そこに、どのような賛辞も似つかわしくない。
 それらは、ただ、続けられることによってのみ、讃えられてある。

  だけど、ここで、暮らしたいじゃないですか。

 彼の言葉を引き取るように、私が言うと、身体を斜めに傾けたまま、欠けた前歯を覗かせて、はにかむような表情で、彼は小さく笑って頷いた。
 もしかすると、涙ぐんでいたのかも知れない。
 いや、それは気のせいだ。
 涙ぐんでいたのは、私の方なのだから。