■さざ波

 いつもの犬のおばさんが、いつもの野良仕事の格好で、いつもの背負子を背負って、うちの前を通っていく。
 (7年ここに住んでいるが、未だに名前を知らない。雰囲気が、犬に似ているので、「犬のおばさん」と勝手に呼んでいる。)
 唐突に顔を上げて、「いや、このサザンカ見事だこと」 と、こちらに向かって、声を上げた。
 話しかけているのか、あるいは、ただ、声にそう出したかったのか。
 見れば、垣のサザンカの花弁は、いまにも、こぼれそうにひらき、いろを滴らせている。
 「いや、見事だごと」
 もう一度、確認するように言って、犬のおばさんは、いつもの畑に向かう。
 (おばさんの畑の場所さえ、知らない。)

 なにもかにも、変わらない。
 ほんとうは、何も起こらなかったのではないか。
 この切迫感も、焦燥感も、一人、わたしの思い込み、あるいは妄想であり、現実は、揺るぎなく、そのままに続いているのではないか。
 一瞬、そんな風に思ったあと、線量マップを思い浮かべ、消滅した港町を思い浮かべ、無人となった街を思い浮かべ、そう、これは、やはり現実なのだと、思い返す。
 
 寄せては返し、寄せては返す。
 さざ波のように、押しては引き、引いては押し。

 砂利浜の汀、白波とともに波間にたゆたっていた鳥は、あれは、なんという名だったろう。
 あの時、なぜ、私は海の写真ばかり撮り、町並みの写真を一枚も撮らなかったのだろう。
 退屈な、どこにでもある、当たり前の、つまらない、海辺の住宅地の景色を。
 そこを歩く、人の姿を。

 あの時、なぜ、私は、退屈な国道六号の写真を、一枚も撮らなかったのだろう。
 変化のない、見所も取り柄もない、ただ、そこに、人の暮らしがあるだけの、あの道沿いの写真を。

 寄せては返し、返してはまた寄せる。
 通奏低音 モトノクラシニモドリタイ
 誰もが思い、誰もが口に出さない。
 喧騒に掻き消される。