■点描

 縁側のない部屋、南側に大きく開いたサッシからは、明るい光が差し込む。
 角度を低くした陽差しは光うすく目に眩しい。その一条一条が、庭の樹木の葉にあたり、しろい光が散乱する。
 家主不在の間、雑草が生い茂り、荒れていた庭も、今はすっかり元のように手入れされている。
 緊急時避難区域解除後帰還した、わずか約九百二十人の一人である彼女は、警戒区域出身であり、親族の多くが居を追われ、自身も避難生活を長く送った。


 ええ、だけど、ほら、マンション暮らしなんて、私、初めてだったでしょう?
 別荘暮らしって言うのかしら、そんな感じで、案外楽しんで、申し訳ないくらい。
 ご近所に、素晴らしく美味しいお菓子屋さんがあったの。
 お客さんが来るたびに、そこのケーキを買って出すのが楽しみだったんですよ。

 家財一切おいての避難生活中、買いそろえた家具を持ち帰り、荷物が増えたという室内で、楽しそうに買いそろえた経緯を語る彼女に屈託はない。
 
 うちの親族で、いちばん線量が高いのは、実家のあたりね。
 あの辺は、10マイクロ超えてるわね。
 私もこの間、一緒に一時帰宅の申込みしていたんだけど、まさにその日、あの大雨の時で、すっかり用意していたんだけど、中止になっちゃって。

 子供の頃のひそかな冒険を語るように、少し悪戯っぽい表情の彼女の実家の佇まいを思い出す。古びた石垣、集落を見通す街道沿い、二町歩あるという田、毎年30kgご相伴に与った。

 ほら、石垣があるでしょう、後ろに山もしょってるし。
 除染って言っても、ねぇ。どうなるのかしら。難しいんじゃないかしら。

 そして、思い出したように彼女は朝日新聞を持ち出してきた。彼女が示した「プロメテウスの罠」と題されたコラムには、いかに政府が無策で、住民対応を軽視していたかということが書かれている。見出しには「防護服の男」とある。私はそれを斜めに読み通し、「ネットで数値は発表されていたんですけれどね。数値だけは。だけど、何の対策も取られなかったんですよね。」と答えた。
 彼女は、少し非難を帯びた、けれど明るいはきはきとしたままの口調で言う。

 まったくどうしてそんな事になったのかしら。

 私も、同じように繰り返す。「まったくどうしてそんな事になったんですかね。」

 仏間となっている隣の和室の祭壇には、骨壺が入っていると思われる真新しい風呂敷包みがひとつ、おかれている。会話しながら、ああ、あれは避難中に亡くなった親族の骨壺なのだ、と気づき、このお骨は納骨される場所もないのだな、と、そんな事を考えていた。

 でも、南相馬の人、相馬の方では評判が悪いらしいんですよ。

 東電の賠償仮払い金の話になったときに、ふいに彼女が言い出した。

 相馬も、津波の被害がひどいでしょう?
 線量が高い地区もあるし。だけど、全然補償金って出ないのよね。
 そしたら、南相馬の人達、仮設に入ってる人達が、補償金が入ってそのお金でパチンコにいったりするわけよ。
 そうすると、相馬の人達はやっぱり面白くないと思うの。

 緊急時避難区域に仮設住宅が設置できなかった南相馬市では、隣接する相馬市で避難生活を送る人も少なくない。

 ほら、仮設に入っている人にしてみれば、することもないし、先行きも見えないし、パチンコでもしてなきゃやってられないってところもあると思うのよ。
 だけど、いざ手空きの時間が出来たときに、パチンコしかする事がないっていうのも、寂しいものよね。

 失われた日常と見えない未来のはざかいで彼らは宙ぶらりんのまま、ただ時間をつなぐために時間をつなぐ。その無為な時間は、確実に何かを蝕む。それでもなお、時間は、つながらなければならないのだと。

 福島でも、仮設に入る人、なかなかいなかったわねぇ。
 私、近所に出来た仮設を夕方数えて回ったのよ。

 彼女は少し自慢するように言う。

 全部で35軒の中、たったの3軒だったわね。すぐに入ったのは。
 避難所からなかなか出たがらないみたい。
 結局、私みたいな年金生活者ね、すぐに仮設に入るなりアパートに入るなりしたのは。
 だって、月々必ず入ってくるアテがあるもの。
 若い人ほど、避難所からなかなか出られなかったり、大変だったみたいよ。

 そう、ひばりあんもちってご存知?

 そう言って彼女は、台所から小ぶりな白い求肥に包まれた饅頭を出してきた。

 原町銘菓って言えばこれだったんだけど、作っていた石田屋さんっていうお菓子屋さんが潰れてなくなっちゃってたのを、最近、別のお菓子屋さんが復活させたのよ。
 だけど、ずいぶん、食べ応えがないというか、上品になっちゃって。

 一口にはやや大きいその饅頭を口に含む。こしあんの上品な甘さが広がる。

 南相馬から来たって言ったら、みんな、それは親切にしてくれたわ。
 私みたいに苦労してない人は、それはそれは、申し訳なかったけれど。
 だけど、それも最初の何ヶ月、それくらいが限度ね。
 やっぱり、だんだん互いに負担になってくるものね。
 どこかで、切り替えなきゃ。


 庭先では、老犬が右に行ったり左に行ったり、彼には、左目の眼球がない。
 眼球の腫瘍を患い、過去に一度摘出したものが、避難先で再発し、再手術したという。腫瘍が神経を圧迫し、一時は痙攣が止まらず、安楽死を考えたが、獣医の勧めで踏みとどまり、今はすっかり元気になっている、と言う。が、よく見ると、後ろ足を、わずかに引き摺っているように見える。
 すっかりご馳走になって、辞する。
 帰路、近隣の幹線道路を、頻繁に大型トラックが行き来する。現場帰りの工事業者のワゴン車で、道路は賑わう。近所の公園の土は、樹木の根元まですっかり丁寧に入れ替えられ、真新しくなった。人が足を踏み入れた形跡のない公園の遊具の前に立ってみる。いつまで、これらの遊具は、不在の来訪者を待ち続けるのだろうか。もうじき、木々もすっかり落葉する。