1:ざっくりとした全体の印象など

 今回の勉強会を終えて、主催者としての印象をまず述べると、次のようなものです。

 方法論としては一定の効果が期待できる(手応え・発展性ともにあり)、
 しかし、現在のいちばん大きな課題である地域社会の不安を解消するには、科学知識のやり取りだけでは、限界がある。

 より上手に科学知識を伝える方法があれば、より正しく、望ましい知識のやり取りが行われ、結果として、多くの人が正しい科学知識を持つことができるようになる、という事が可能であったとします。
 (方法論としては、ある程度は達成可能なのではないか、との感触を持ちました)
 しかし、その結果から、現実の社会で得られる効果が、どの程度のものなのか、と考えると、今、蔓延する不安を解消するために必要な全体の、ごく一部分に過ぎないように思います。

 正しい科学知識を伝えられたとして、それが現実社会の中でどのような意味を持つのでしょうか。
 現実社会の中で「科学」の果たせる役割はとても限定的です。
 むしろ、正しい科学知識を持ったとしても、社会の中で、解決不能な部分は、多く残ります。
 もし、不安を解消するための科学知識のやり取りが必要だとしたら、「科学によって解決不能な部分」を視野に含めたアプローチがなければ、効果は得られないのではないか、というのが私の理解です。



 科学は万能ではない、もちろん、その通りです。
 科学的正当性を、科学の側が訴えれば訴えるほど、失望も強まるという、非常に皮肉な結果につながっているように、今、感じています。
 私のベースにあるのは、科学への不信や不正確な知識から、現在の不安状況が巻き起こっているのではなく、科学の現実への無力さが、逆に科学への不信や不正確な知識を呼び起こしているのではないか、という逆説的な理解です。
 (フランス革命の頃、貴族が民衆に憎まれたのは、彼らが権力を持っていたからではなく、権力を失っていたが故に憎まれたのだ、というハナ・アーレントの分析を思い起こしつつ)

 上記のように感じたのは、私が思っていた以上に、参加者の多くが既に「正しい」科学認識を持っていたと言う点に尽きます。
 細部の情報については、不正確なものもあり、行き渡っていないものもあると思いましたが、大枠としての理解は、想像以上に焦点のあった「正しい」認識を、大多数の方が勉強会以前から持っていたように感じています。
 開催地が地方都市の中でも山村に位置する場所であり、多様な人間層にふれあう機会があり、都市部よりもバランスがとれていた、という側面もあるとは思いますが(個人的印象としては、都市部住民層の方が、放射線に関する不安情報が蔓延しているように思っています)、今回の参加者がことさら特殊であるとは、思いません。(また、現在のような状況にいたっては、極端な科学不信の方が、このような会に参加する事は、最初から望めないでしょう。)
 そして、今回の勉強会での内容も、おそらく、多くの方は理解できたと思います。
 しかし、それでいて、皆、不安の色を隠せないでいる。その理由は何なのか、と考えたときに、科学以外の側面を考えずにこの不安に対処する事はできないのではないか、と思うに至りました。

 以下で、詳しく書いていきたいと思います。

 ただ、強調しておきたいのは、これは、あくまで私が勉強会を開いた地域においての、感触です。
 福島県内では、程度の差こそあれ共通する事情があるので、この認識でおそらく通用するのではないかと思いますが、他の地域の事はまったくわかりません。
 また、私は、科学コミュニケーションについては、twitterやネット上で見聞きしているくらいのもので、ほぼ素人です。
 ですので、これから書くことについても、そうした前提の上で、お読み頂けると幸いです。

2:方法として今後も使えそうな部分

 今回の勉強会スタイルでは、科学知識のやり取りの手法としては、有効な部分がいくつかあったと思います。
 勉強会の方式としては、「対話スタイル」を目指しました。
 ただ、「対話」と言っても、集まった人間が三々五々に質問したのでは、人数が4〜5人なら対応できても、それ以上になると収集が付かなくなる事が予測できたので、以下のように事前に準備をしました。
 進行の方法については、小学校などの授業計画で使われる手法のようですが、非常に使い勝手がよいものでした。(@okami_sakanayaさんの助言です)
 

A 事前準備

  ・勉強会の対象を選ぶ

  →元もと面識のある関係性の中での開催を企図。お互い顔見知りの方が発言しやすく、雰囲気もよいだろうと。結果的に成功。

  ・現状の認識

  →主催者が同じ地域に属する人間であったので、地域の事情に即した企画が可能であった。

  ・事前アンケート配布

  →地域の事情がより詳細に把握可能となった。

B 進行方法

  ・勉強会の入口と出口の設定に基づいて進行を計画

  →資料に載せた「企画案」の「4勉強会内容具体案」の「■ねらい」「■地域の実態」「■予想される反応」が該当。

  ・進行を意識したアンケート質問の設定

  →「■地域の実態」⇒「■予想される反応」へ導くための、具体化プロセスとしてアンケート設問を考える。


  ・アンケート結果に基づいて進行表を作成

  →あらかじめ出てくるであろう質問をピックアップし、進行の中へいれておく。
  ※講師の先生の資料の事前準備、円滑に進行を進めるために非常に有効だった。また、主催者側から先生へぜひ解説をお願いしたい項目をあらかじめ要望としていれておく事によって、情報のミスマッチを最小限に抑えることができた。

C 勉強会内容

  ・冒頭に参加者全員が自己紹介

  →名前と今回の勉強会に期待すること、などを述べてもらった。互いに放射線についてどのような姿勢なのか、何を考えているのか、会場内で共有できて、非常によかった。


  ・アンケート結果を紹介しながら進行

  →他の人が何を考えているか、というのは、参加者にとっても非常に関心が高い。こちらも自己紹介同様、非常に有効だった。


  ・司会が講師と聴衆の間を橋渡しする

→講師の説明を聴衆が理解できていないと感じたら、逐次質問、言い直して講師に再確認。逆に会場の質問がわかりにくいものだった場合は、整理して再質問。その結果、理解の齟齬は少ないものだったと思う。

上記の方法で、得られた結果

 ・会場内で、質問が自発的に出るなど、聞きたいことが聞ける雰囲気になった。
 
 ・講師と会場の間に、司会が適時介入することによって、理解の齟齬は最小限に抑えられたと思う。
  会場は、聞きたいことが聞け、講師は、言いたいことが言えた、という状況に近いと感じる。

 ・知識のやりとり、という面では、かなり効果的であったと思う。

問題点

 ・講師の先生の準備の手間。

  会場からのイレギュラーな質問にも対応するために、今回、水野先生は160枚に及ぶスライド資料を事前準備されていた。こういう勉強会は、本業の合間にお願いするものであり、過大な負担がかかるものになると、講師の引き受け手自体が見つかりにくくなる。
  事前準備の過程でも、何度もメールで事前確認をお願いして、お手間を取らせてしまった。

 ・進行役の問題。

  今回、進行役を務めた私は、以前からずっと水野先生のツイートを拝読しており、先生の仰りたいことのポイントは事前にほぼ掴めていた。また、地元の人間であることから、地域の人の様子にも詳しかった。加えて、自称「ホーシャノー検定科学篇1級合格者」を自認する程度には、放射線問題についての状況を把握していた。これらの要素をすべて兼ね備えていたから、円滑な進行ができたと思うが、どこででもこの条件を満たす進行役が見つかるかどうかは、難しいところと思う。

 ・参加者の反応

  聴衆は、おそらく講師の先生の説明をよく理解していたし、自分の聞きたいことも聞け、また、先生の側でも説明したいことは説明できた という面で、かなり有意義な会であったと思う。
  だが、主催者から見て、勉強会終了後の、参加者の満足度は、悪くはないものの、よいものであるとも思えなかった。

3:科学知識での不安解消に関する限界

勉強会での具体例

 具体的に書いてみます。

 勉強会の中での講師の先生の説明で、原発からの放射性ヨウ素の飛散が、南方向(いわき市方面)でも高い比率を示していることがわかった、と言う解説がありました。
 会場がざわついて、質問が出ました。

 「いわき市は、ヨウ素剤が配布されていたのだけれど、それを飲んだ方がよかったということか。」

 先生の回答をおおよそ書くとこんな感じでした。(私の記憶に基づく記述のため不正確な部分があるかもしれませんが、それは、私の理解能力に帰するものです。)
 ※後で文字起こしして差し替えるかもしれません。

 ヨウ素の飛散については、絶対量ではなく、セシウムとの比率の問題。これまで考えられていたよりも多かったというだけで、現在、わかっている、甲状腺への最大被曝量は35mSvで、ヨウ素剤の服用は、結果的ではあるけれど、必要なかった。
 日本人は、そもそもヨウ素の摂取量は多く、ヨウ素剤の服用がなくても、甲状腺被曝による発がんの危険性は低い。

 会場は、理解して納得しました。
 しかし、全体的に「もやもや」とした感じが強く残ったように思います。
 おそらく、この「もやもや」は、先生の説明に納得ができなかった事によって生じたものではありません。
 私の理解では、「ヨウ素剤の服用が検討されねばならない状況へ置かれた事への不満」 あるいは、「ヨウ素剤服用をしなくてもよかったのは〈結果論〉であり、適切な対処が取られていたとは思えないということへの不満」です。
 先生の言う事は理解できた、だけど… こんな感覚です。
 これらは、科学的知識うんぬんでどうこうできる問題ではありません。


 続いて、別の質問が出ました。
 「自分は、酪農家の手伝いをしている。今、牛肉の暫定規制値は 500Bq/kg と決められているけれど、福島県では福島基準ということで、50Bq/kg という基準で出荷制限がかけられている。49BqならOKで51Bqなら不可というほど、測定器は信用できるのか。」

 回答としては、測定器の検出誤差の話になりました。(ここも私の記憶に基づくので不正確です。後で文字起こしで差し替える可能性アリ)

 測定には、必ず誤差がある。
 しかし、検出の精度をあげようとすればするほど、精度に乗数をかけた時間がかかることになり、非常に効率が悪い。
 誤差がある事を知って、その中で、どこかで線引きをすることは、必要。

 説明は、伝わったと思います。
 けれど、「もやもや」した感じが質問者には残ったように思います。
 質問者は私の友人でした。たぶん、彼は、線引きの理不尽さを訴えたかったのではないか、と思います。
 さらに言えば、このような理不尽さを自分たちだけに強いられているという、もうひとつの理不尽への不満です。
 しかし、これも、科学知識でどうこうできる問題ではありません。


 もうひとつ、別の質問です。子供がいると言う若いお母さんでした。
 「うちの畑(家庭菜園)でとれた野菜を子供に食べさせて、将来的に本当に大丈夫なのでしょうか」

 同じ地域であるなら、市場に出荷されているものと家庭菜園もほとんど同じと思うので、市場出荷のものと同じ程度と理解すればよいのでは

 
 説明は理解したと思います。
 この質問の前に、低線量被曝の健康リスクの説明もしてあり、それに対して強い疑問を抱いている印象ではありませんでした。
 このお母さんは、会の最初から不安の表情がとても強く、私はずっと気になっていました。
 こうして、こういう勉強会に参加するくらいだから、正しい知識を持ちたいと思っているのでしょう。
 質問をして、回答を得た後も、彼女の表情は不安なままでした。
 どういえば、彼女の不安は晴れたのだろうか、と考えます。

 たとえば、講師の先生が「大丈夫!」と言えば不安が晴れたのか。
 あるいは、「不安ならこの地域の野菜は食べないで、西日本などの安全な野菜ばかり食べるようにするとよいですよ」と言えばよかったのか。
 あるいは、一つ一つの野菜の汚染度を簡単に確認できる機器ができて、それで食べる食品全ての汚染度を確認できれば、不安は晴れるのか。

 多少の変化はあるかも知れませんが、根っこにある不安を晴らすには、いずれも違う気がします。
 彼女の不安は、「汚染」された現実に対する不安であり、汚染の中で子育てをしなくてはならなくなってしまった事への不安であり、さらにその奥底には、元の環境を返して欲しい、という、誰しも持っている叶わぬ願いがあるのではないかと思います。
 これも当然、科学知識うんぬんの問題ではありません。

考察

 これらのやり取りと、会が終わった後の全体の雰囲気から、科学知識のやり取りは、おそらく良好であったにも係わらず、どこか言葉が届いていない印象を拭えませんでした。
 (これは、私だけではなく、手伝いをしてくれた人も同様の印象を持っていました)
 その原因は、科学だけでは、この問題が解決しないことに、皆、薄々と、あるいは、はっきりと気付いているからだろう、という点にあると思います。

 たとえば、保健物理学会「専門家が答える 暮らしの放射線Q&A」というサイトがあります。
 放射線防護の専門家が、暮らしの中における放射線の不安への具体的な質問に答えてくれています。
 非常に実際的で、回答も誠実で、信頼できる、と私は思っています。
 しかし、これを、実生活で、放射線への不安を持つ友人へ私が教えるかというと、ほとんどの場合、教えないと思います。
 それは、ここでの回答が、不安の核心にある部分を満たすものではない、と感じているからです。
   
 不安の核心にある部分は、科学ではない部分によって呼び起こされたものです。
 汚染された現実、放射性物質飛散によって身体的危険にされされたショック、国の対応への不満、さらに報道によって心理的に「汚染」が拡大されていくという現実、自分たちだけが不利益を蒙っているという感覚、また放射線への対応を巡って既存の人間関係が分断されていく事へのショック、経済的損失、将来の展望への不安などなど。
 これらの部分は、科学知識のやりとりによって解消することは不可能です。

 科学知識で解消できない部分の不安や不満を、科学用語や科学理解で解消しようとしていたのではないか、というのが、今、私が感じていることです。  
 自分自身の勉強会に関して言えば、「入口」の読みが甘く、「出口」の設定をもう少し深くするべきだったのではないかと思っています。
 つまり、「入口」の現状認識の部分について言えば、多くの人は不安は持っているけれど、科学知識の欠如のみによるものではない、という事まで読み取れていなかったという点。
 「出口」のねらいや、予想される反応の部分について言えば、科学の限界を知り、その先について考える、というアプローチが必要であったのではないか、という点です。
 
 しかし、一方で、私が科学知識が必要だと思うのは、それが、放射性物質への現実的対処としては限界がありながらも、最も有効であると、自分自身は思っているからです。
 


 

4:今後の展開について

 今回、勉強会の前に、一般参加者を交えて、コンクリートブロックを用いた放射線の遮蔽実験を行いました。
 これが、非常に、有意義、かつ楽しいものでした。
 少し距離を置いて、冷ややかな目で眺めてみると、放射性物質が飛散した現実の暮らしの場で、放射線を防ぐ実験をしているわけですから、「楽しい」と言うと不謹慎な気もしますが、実際に楽しかったのです。
 この感覚は、参加者共通の感覚であったように思います。
 どうすれば、効果的に放射線を遮蔽することができるのか、実験を効率よく行う事ができるのか、参加者が自発的に次々とアイデアを出していきます。
 必要な作業も、皆が、自発的に考え、分担し、作業があっという間に進んでいきました。
 作業後には、参加者揃って(もちろん講師の水野先生も含めて)、和気藹々、記念撮影をしました。

 これは、非常に示唆的なことであるように思いました。
 
 自分自身が、今後、こうした集まりを企画するとしたら、今回とは若干違うアプローチをしてみたいと考えています。
 「放射線問題について専門家を交えて語る会」というくらいのトーンで行くと思います。
 直接的には、放射線問題について語る会であったとしても、背景には、遮蔽実験で見られたような「共同で何かを行う」あるいは「考える」という事を主として考えます。

 少なくとも、福島県内においては、正しい科学知識はある程度行き渡っていると思います。
 科学知識に不信を抱いている人であっても、正しい説明を目にしたり耳にしたりしたことがない、という人は、おそらく皆無と言っていいと思います。
 おそらく、信じられない人(ここで想定しているのは、敵対的に科学を憎んでいるようなごくごく少数の人ではなく、「信じたいけれど信じられない」と言うぼんやりとした不信を抱いている人です)には、信じられない理由がある。
 それは、科学に起因するものではなく、科学以外の要因によるものである。
 そうした現状認識に基づいて、科学以外の要因をも抱き込んだアプローチができれば、と思っています。

 具体的には、まずは、自分たちの抱える不満や不安について吐露する場が必要であるという点です。
 しかしただ単に、「不安や不満を語る会」というのでは、華もなく、発展性もなく、面白くもなさそうです。
 ですから、現下、最大の問題である「放射線」をクローズアップすることによって、会の焦点を合わせ、発展性を引き出す事を考えています。
 放射線問題である以上、正しい科学知識は当然必要ですから、専門家の先生にもお越しいただきたいと思います。
 ただ、科学知識のやりとりだけでは、場が収まらないという点についてはご考慮いただき、私の希望としては、同じ問題を共有する、専門知識を持った隣人として来て頂きければ、と思っています。
 科学のみでは対応できない問題、講師の先生の専門範疇を超える問題については、同じ問題を共有する隣人として、共に悩み、考えていただければ、それでよいのではないか、と思います。
 こうしたアプローチ方法であれば、司会者の適性についても、よりゆるやかな方向で考えられるのではないかと思っています。
 今回、水野先生は共に考える隣人としての姿勢をお持ちになってお越しいただいていたように思いますが、主催側のアプローチ方法が未熟であったため、その方向性を勉強会の中で充分に引き出すことができなかった点は、大きな反省点です。

 そして、今回有効であった知識伝達の方法を交えながら、参加者の手持ちの科学知識をより正しい方向へ導いていくと同時に、不安や不満を吐露し、問題の所在を認識できるようになれば、今後の方向性については、その場から自発的に出てくるのではないか、そんな期待を抱いています。
 そのためには、開催の場については、継続的に顔を合わせる人間関係である事が重要であると思います。
 地域でなくとも、保育所や幼稚園等の保護者会でもいいと思いますし、サークル活動の場でもいいと思います。
 今後、現実的な動きへ繋げる事が可能となる人間関係を構築することによってしか、現状の不安や不満は解消することができないだろう、と私は思っています。
 不安や不満が落ち着いてくれば、社会に蔓延する「(科学に対する)不信」も、自然と少しずつではありますが、収まってくれると信じています。

 こと、福島県内においては、今後の除染においても、共同での作業が必須となります。
 放射線問題は、直接的には科学知識の問題ではありますが、それ以上に、コミュニティの問題であるという事を踏まえ、対応していく必要があります。
 
 ここまでの問題意識を俎上に載せられて、ようやく、一筋の希望が見えてくるのではないか、と思っています。

 私が考えたのは、ここまでです。
 拙い論考、お読み頂き、ありがとうございました。
 勉強会の様子は、映像として記録してあります。(ご協力頂いた@canaboonさんには心から感謝です)
 今後、ご自身で勉強会を企画されてみたいという方には、何かの参考になれば、とご提供するつもりでいます。
 お渡しできる状態になりましたら、告知しますので、おしらせいただければ、と思います。

 少しでも、事態が良い方向へ向かうことを、心から(本当に心から)願っています。

 がんばっぺ、ふくしま。
 がんばっぺ、東北。
 がんばりましょう、にっぽん。