3:科学知識での不安解消に関する限界

勉強会での具体例

 具体的に書いてみます。

 勉強会の中での講師の先生の説明で、原発からの放射性ヨウ素の飛散が、南方向(いわき市方面)でも高い比率を示していることがわかった、と言う解説がありました。
 会場がざわついて、質問が出ました。

 「いわき市は、ヨウ素剤が配布されていたのだけれど、それを飲んだ方がよかったということか。」

 先生の回答をおおよそ書くとこんな感じでした。(私の記憶に基づく記述のため不正確な部分があるかもしれませんが、それは、私の理解能力に帰するものです。)
 ※後で文字起こしして差し替えるかもしれません。

 ヨウ素の飛散については、絶対量ではなく、セシウムとの比率の問題。これまで考えられていたよりも多かったというだけで、現在、わかっている、甲状腺への最大被曝量は35mSvで、ヨウ素剤の服用は、結果的ではあるけれど、必要なかった。
 日本人は、そもそもヨウ素の摂取量は多く、ヨウ素剤の服用がなくても、甲状腺被曝による発がんの危険性は低い。

 会場は、理解して納得しました。
 しかし、全体的に「もやもや」とした感じが強く残ったように思います。
 おそらく、この「もやもや」は、先生の説明に納得ができなかった事によって生じたものではありません。
 私の理解では、「ヨウ素剤の服用が検討されねばならない状況へ置かれた事への不満」 あるいは、「ヨウ素剤服用をしなくてもよかったのは〈結果論〉であり、適切な対処が取られていたとは思えないということへの不満」です。
 先生の言う事は理解できた、だけど… こんな感覚です。
 これらは、科学的知識うんぬんでどうこうできる問題ではありません。


 続いて、別の質問が出ました。
 「自分は、酪農家の手伝いをしている。今、牛肉の暫定規制値は 500Bq/kg と決められているけれど、福島県では福島基準ということで、50Bq/kg という基準で出荷制限がかけられている。49BqならOKで51Bqなら不可というほど、測定器は信用できるのか。」

 回答としては、測定器の検出誤差の話になりました。(ここも私の記憶に基づくので不正確です。後で文字起こしで差し替える可能性アリ)

 測定には、必ず誤差がある。
 しかし、検出の精度をあげようとすればするほど、精度に乗数をかけた時間がかかることになり、非常に効率が悪い。
 誤差がある事を知って、その中で、どこかで線引きをすることは、必要。

 説明は、伝わったと思います。
 けれど、「もやもや」した感じが質問者には残ったように思います。
 質問者は私の友人でした。たぶん、彼は、線引きの理不尽さを訴えたかったのではないか、と思います。
 さらに言えば、このような理不尽さを自分たちだけに強いられているという、もうひとつの理不尽への不満です。
 しかし、これも、科学知識でどうこうできる問題ではありません。


 もうひとつ、別の質問です。子供がいると言う若いお母さんでした。
 「うちの畑(家庭菜園)でとれた野菜を子供に食べさせて、将来的に本当に大丈夫なのでしょうか」

 同じ地域であるなら、市場に出荷されているものと家庭菜園もほとんど同じと思うので、市場出荷のものと同じ程度と理解すればよいのでは

 
 説明は理解したと思います。
 この質問の前に、低線量被曝の健康リスクの説明もしてあり、それに対して強い疑問を抱いている印象ではありませんでした。
 このお母さんは、会の最初から不安の表情がとても強く、私はずっと気になっていました。
 こうして、こういう勉強会に参加するくらいだから、正しい知識を持ちたいと思っているのでしょう。
 質問をして、回答を得た後も、彼女の表情は不安なままでした。
 どういえば、彼女の不安は晴れたのだろうか、と考えます。

 たとえば、講師の先生が「大丈夫!」と言えば不安が晴れたのか。
 あるいは、「不安ならこの地域の野菜は食べないで、西日本などの安全な野菜ばかり食べるようにするとよいですよ」と言えばよかったのか。
 あるいは、一つ一つの野菜の汚染度を簡単に確認できる機器ができて、それで食べる食品全ての汚染度を確認できれば、不安は晴れるのか。

 多少の変化はあるかも知れませんが、根っこにある不安を晴らすには、いずれも違う気がします。
 彼女の不安は、「汚染」された現実に対する不安であり、汚染の中で子育てをしなくてはならなくなってしまった事への不安であり、さらにその奥底には、元の環境を返して欲しい、という、誰しも持っている叶わぬ願いがあるのではないかと思います。
 これも当然、科学知識うんぬんの問題ではありません。

考察

 これらのやり取りと、会が終わった後の全体の雰囲気から、科学知識のやり取りは、おそらく良好であったにも係わらず、どこか言葉が届いていない印象を拭えませんでした。
 (これは、私だけではなく、手伝いをしてくれた人も同様の印象を持っていました)
 その原因は、科学だけでは、この問題が解決しないことに、皆、薄々と、あるいは、はっきりと気付いているからだろう、という点にあると思います。

 たとえば、保健物理学会「専門家が答える 暮らしの放射線Q&A」というサイトがあります。
 放射線防護の専門家が、暮らしの中における放射線の不安への具体的な質問に答えてくれています。
 非常に実際的で、回答も誠実で、信頼できる、と私は思っています。
 しかし、これを、実生活で、放射線への不安を持つ友人へ私が教えるかというと、ほとんどの場合、教えないと思います。
 それは、ここでの回答が、不安の核心にある部分を満たすものではない、と感じているからです。
   
 不安の核心にある部分は、科学ではない部分によって呼び起こされたものです。
 汚染された現実、放射性物質飛散によって身体的危険にされされたショック、国の対応への不満、さらに報道によって心理的に「汚染」が拡大されていくという現実、自分たちだけが不利益を蒙っているという感覚、また放射線への対応を巡って既存の人間関係が分断されていく事へのショック、経済的損失、将来の展望への不安などなど。
 これらの部分は、科学知識のやりとりによって解消することは不可能です。

 科学知識で解消できない部分の不安や不満を、科学用語や科学理解で解消しようとしていたのではないか、というのが、今、私が感じていることです。  
 自分自身の勉強会に関して言えば、「入口」の読みが甘く、「出口」の設定をもう少し深くするべきだったのではないかと思っています。
 つまり、「入口」の現状認識の部分について言えば、多くの人は不安は持っているけれど、科学知識の欠如のみによるものではない、という事まで読み取れていなかったという点。
 「出口」のねらいや、予想される反応の部分について言えば、科学の限界を知り、その先について考える、というアプローチが必要であったのではないか、という点です。
 
 しかし、一方で、私が科学知識が必要だと思うのは、それが、放射性物質への現実的対処としては限界がありながらも、最も有効であると、自分自身は思っているからです。