そうして、また、光とともに闇も羽化する。

 胸元から下げた写真は二枚、津波で流された孫の遺影である。
 東京からの人が話すたびに、睨み付けるような眼差しで、写真を持ち上げる。
 目の奥に湛えられた深い憎悪。
 口元が動いているのが見える。
 呪詛の言葉か。
 本当に意義があることをしているのか、孫に見せるのだ、と。
 彼の家は立入禁止区域にあり、捜索は許されなかった。
 彼の孫は、生死も定かでないままに、打ち捨てられた。
 その慟哭を、我々のうち誰ひとりとして受けとめなかった。

 会場にいた、彼と同じ町の人に、後から聞いてみた。
 その人は、やや自棄気味に笑いながら、言った。
 「そういう人、たくさんいますから。」

 闇は、こうして培われた。




 





(守るべきものをすべて失った人間は、呪詛と憎悪を拠り所として、かろうじて生きながらえるしかない。
 誰でも、わたしでも、そうだ。)

舳先

 その海は、暗く、深かったか。
 波は引いたか、寄せたか。
 水面から遠く沈めば、静けさに満たされたか。
 われわれは、海上を漕いでいたのか、さまよっていたのか。

 ただただ、舵をとるために。
 漕ぐ手は、誰のために、どこへ向かって。

 行く方は、舳先だけが知っていた。

14時46分

 自宅でぼんやりと、低くにぶいサイレンが遠く鳴るのを聞いていた。
 サイレンが鳴ってよかった。
 もし鳴らなければ、あの日に釘付けにされたまま置き去りになっている私の心の一部は、どうすればいいかわからなかったろう。
 忘れないで。
 なんて凡庸な言葉。
 ついで、忘れるのはよいこと、人は自然に忘れるもの、忘れないなんて土台無理、そんな言葉がいくつも浮かび、ゆらゆらと漂う。
 忘れないで。
 わからない。なにを忘れないでいたいのか、忘れないでいて欲しいのか、それもわからない。
 忘れないで。
 遠いサイレンを聞きながらその言葉を反芻した。

 

 
 一年ほど前の会話。

「 測る必要なんかないっぺ、どうせ大した線量じゃないのわかってるもの。オレ自分で測ったもの、支所で線量計借りて。
 年間追加が1ミリとかいうやつね、ああ、そう、オレはこのくらい。じゃ、大したことないね。
 田んぼ? はあ、やめちまったわ。作ったって食べる人いないもの。
 トラクターも売っちまった。持ってたら未練が残るから。
 孫? 正月にはようやく来たよ。でも、ここのものは何も食べさせねえ。水もペットボトル買ってくる。
 だって、気持ち悪いでしょ、きっと。オレらは気にしねえけど。
 オレらは年だからなんにも気にしないで食べるよ。
 だって測ったって、大した線量出ないんでしょ?
 山菜は食わなくなったな、うちの裏山に山菜いーっぱい出るとこあんの。
 そこちょっと線量高いって言うの、震災のあと、一回もいかねえ。
 タラノキとかいーっぱいあって、見事だった、惜しかったなぁ。いまは食わねえよ、なんだか気味悪いもの。
 オレらは、もう年だから心配しねえけど、でも、将来はどうなるかわかんねえってんだべ?
 煙草のリスクと比べたら、大したことないリスクなんだべ? 知ってるよ。
 でも、将来はどうなるかわかんないんだっぺ。
 いやー、うちの作った米はうまかったぞー。また食いてえなあ。でも、トラクター売っちまったんだよな。
 どうせ孫には食わせらんねえし。
 測れば大丈夫って言ったって、こんなとこで作った米、もらうほうも気持ち悪いべ。
 いやオレらは心配してねえよ。ここで暮らすしかないもの。」


 一年後、彼は、測定グラフを手にした談笑の輪の中にいた。
 それぞれのグラフを手に、隣人たちが、測ればわかる、と口々に話すのを、少し戸惑い気味の表情で聞いていた。
 突然思いついたように、あかるい表情で「誰か、これ身につけて山に入ってみればいいんだっぺ」「誰か、山に行ってみればいいんだべ」、そう繰り返した。
 誰かが「そうだ」と答えた、けれど、それは、彼の心の中の声であったかもしれない。
 裏山の線量が高い、と、まるで興味がなさそうな表情で言った1年前の彼を思い出していた。

 まもなく、彼が線量計回収と配布の手伝いを申し出てくれていることを知った。
 1年前の彼と、先日の集まりでの彼の笑顔を交互に思い浮かべて、泣いた。
 最初嬉しくて、その次に悔しくて、その後にまた嬉しくて泣いた。
 失ったものの大きさに比して、なんというささやかな恩寵。
 それがなにものにも代えがたい喜びと希望であることを悔しさと共に噛みしめながら、泣いた。

 (彼は、おそらく、遠くないうちにD-shuttleを身につけ、自分自身で山へ出かけるだろう。)


 4年。


 

引き波

 あなたの皮膚はうすく、肌は白く、滑らかだった。
 それが、長い病人暮らしからのものであることを知ってから知らずか、人は褒め、自分の手の荒れていることを言った。
 少しまぶしそうにその言葉を聞き、あなたは「なにもしていないからね」と返した。
 もし、もういちど、ふたたび、その手を掴むことができたならば、決して放さない。

 帰ってこないな、無理だべな、あそこは無理だ、帰らねえべ。
 向き合うふたりが、まるで独り言のように、半ば頷きあいながら同じ言葉を繰り返すことを、少しばかり訝しく思い、なぜですか?と問うた。

 津波で、目の前で、身内が流されちまったのよ。
 たまたま体調がわるくて、仕事休んでたんだと。
 そしたら、ちょうどそれもたまたま、身内が遊びに来てて。
 わがは、庭の木だかなんだか掴んで助かったんだけんちょ、もう一方の手で、身内の手掴んでたの、引き波が強くて堪えきれず、放しちまって、そのまま流されて、それっきりだと。
 一週間後くらいだったかな、見つかったのは。
 はぁ、泥だのなんだので、探すのも容易でなかったっけ。
 忘れられないべね、見たくもねえべ。

 
 その手のなまなましい感触を、その後悔の深さを、やり切れなさを、わたしは知っている気がした。
 もし、ふたたび、があるとしたら。
 けれど、やはり、引き波は強く、わたしの腕は持ちこたえることができないであろう。

 かつて集落があった場所には、草が生い茂り、その脇を、重機が走る。
 今日も海も穏やかで、光は明るい。
 9月の風は、かろやかに、過ぎてゆく。
 あなたの皮膚はうすく、肌は白く、滑らかだった。

 それ、そら、それ、そら、それらが。
 緑にさす日は、あかるく軽やかに、影と光を揺れ揺らし。
 あなたが望んだものはなんだったのだろう、と、ふいに思い、その「あなた」が誰のことかわからず、困惑しながら、私は、誰だかわからないあなたのことを考えつづける。
 時は流れる。
 あなたの見た夢をおもう。
 あなたの愛したものをおもう。
 あなたの過ごした時をおもう。
 あなた、あなた、という言葉を連ね、あなたが誰だかわからない。
 私は、あなたを失ったのか、それとも、あなたをただ夢想しているだけなのか、どちらともわからず、空を見上げる。
 時は流れる。
 モンスーンに入る前に、青は少しくすんで、鳥の鳴き声をたたえ、そらは、それらを映し、静まっている。

 ねえ、あの人たち、ほんとに帰れるの?

 帰りの車中、年齢に比して、(けれど、彼女にはよく似合った)舌足らずの喋り方で、唐突に尋ねられ、言葉に詰まった。
 その問いには、なんの意図も悪意もなく、ただ心に浮かんだ疑問をそのまままっすぐに言葉にしただけであったことがわかったから。
 私は、いくつか言葉を繋ぎ、状況を説明し、「とても難しい状況だ」と伝えた。
 同行のもう一人が、説明を補足した。
 私たちの説明が、どの程度伝わったのかはわからない。
 説明のあと、一呼吸おいて、やはり同じように邪気なく、彼女は答えた。

 いろいろ、考えちゃうね。
 私が考えたから、どうなるってわけじゃないんだけど。

 ふたたび私は言葉に詰まり、口を閉ざした。
 彼女の言葉は、誰もの心の大勢を占め、けれども、なすすべがないゆえに、そのまま口に出すことをためらっていた言葉であったから。

 あの人たち、ほんとに帰れるの?と尋ねられたとき、私は、本当はこう言いたかった。
 私も、それを知りたい。皆、それを知りたい。ただ、それだけを。
 私が考えてもどうなるわけじゃない。どうにもならない。そんなことはわかっている。けれど、それでも、わずかでもの悪あがきができれば、そう思っているんです。
 しかし、これらの言葉は、率直な彼女の問いに対して、あまりに回りくどく、言い訳がましい、と私には思われた。
 誰かが言っていた。
 
 「目標はなにもありません。
 今を楽しむことだけを考えています。」

 その場所だけが、エアポケットのような空白につつまれ、空白のまま、墜ちてゆく。
 仮の住まいの薄い床の上に立ち、目眩しながら足下から沈んでゆく感覚を抱いたのは、夢ではなかったろう。
 無重力であるのに、どうしようもなく、身体が重い。