2020/03/23 パンデミック雑感

新型コロナウィルスの政府のうちだす対策について、政府が明確な指針や基準(そしてそれによる影響に対する政策的フォロー)を打ち出さないことによる混乱が指摘されはじめている。これは新型コロナウィルス対策だけではなく、自民党政権以降の福島の原発事故対応でも一貫して続いてきた状態であることに気づいてもらえるといいのだけれど、と思いながら眺めている。

日本の官僚機構は、決められた内容をこなすことや事務処理に関しては、優秀である一方、専門性をまったく考慮していない組織体制と人事システムによって、長期的、そして専門性や、複雑な利害が混み合う問題に対しては、ほぼまったく無力でその場限りの場当たり的な対応しかとれない構造になっている。省庁のなかで完結する問題なら多少はマシだけれど、省庁をまたぐような問題については、落とした箸を拾う程度の問題でも、なぜか巨大ビルを移築するかのような話になってしまう。省庁間の縦割りや硬直化した組織の問題は、官僚個人が気づいたところでどうにもならないものなので、個々の責任というわけでもない。ただ、官僚機構は、一般的に(日本に限らず)保身と責任回避をその根幹的な性向として持つものなので、そこに生きる個々の人間もその振る舞いを自然なものとして身につけることになる。そういう意味で、個々がまったく関係がないというようなものでもないとも思う。

いずれにせよ、こうした官僚機構の構造的な問題に対応するには、政治的な差配が重要になるが、現在の政治はさらに輪をかけて、保身と責任回避のみに注力しているので、結果として、長期的・複層的・専門的な対応が必要となる課題ほど、場当たり的な目先対応がとられ、先送りされるという状況が続いている。それに対して危機感を覚える人が、「政治判断」を訴える場合も、往々にして単層的かつ場当たり的な視野しかもっていない場合が多く、結果として先送りとどちらがより酷いことになるかという、惰性のチキンレースのようなものである。

そうこうしているうちに、混乱に耐えかねた、あるいは危機感をもった国民のなかで相反する動きが起き、両者は対立し、言い分は収束せず、収拾不可能な状態になる。本来は政策的な責任を持つべき政府が明確な指針とそれにともなう対策を打ち出さないから混乱が深まっていくのだが、そうした大問題に言及することは忌避され、個々の態度や心構え、考え方の問題へとすりかえられていく。(「国民性」だと言われることが多いが、なぜそうなのか、不思議でならない。) 目先の小さな問題が起きる背景に、さらに大きな問題が潜んでおり、その大きな問題を動かさない限りは、目先の問題はずっと改善しないし、いったんその小さな問題が改善したかのように見えても、同種の別問題がまた起きることになるのだが、そうしたこともほとんど触れられない。大問題は長期にわたる放置の結果、通常、複雑に込み入っており、一朝一夕の対応で改善できるものではない。長期的視野と幅広い観点、そして柔軟性をもちながら、改善できる方向を模索していく以外に道筋はないのだが、大問題の存在に気づいた人も、その複雑性を解きほぐして改善していこうと考える人間は、驚くほどに少ない。大抵は、驚くほど拙速で狭小な対策を提言し、結局はさらなる問題を上乗せするだけの結果になる。

世界的パンデミックの影響は、今後の政治、経済、安全保障を含めた世界秩序を大きく変えていくだろうけれど、みずから変わる力をもたず、外圧によってしか変われないこの国は、過去と同じように、なし崩し的な、主体性なき変化の渦にのまれるのかもしれない。