2020/03/31 パンデミック雑感3

欧米での感染拡大おさまらず、日本は新型インフルエンザ特措法にもとづく「非常事態宣言」を出すか出さないかやきもきしているといったところ。もっとも出したところで、欧米のようなロックダウンといった私権の制限はほとんど行うことができないような条文にはなっているらしい。けれど、欧米で先行して行われているロックダウンのイメージが大きいものだから、非常事態宣言が出ると、勘違いした人たち(公的機関、首長等を含めて)が外出禁止を破ったものには罰則を、などと言い出しそうな雰囲気ではある。今日の段階でも感染者1250、死者32にすぎないインドが先週ロックダウンを発令。続報を見ていると、国内に多くいる貧困層が職を失い、彼らは言葉通りその日暮らしのため、すでに飢え、逼迫した状況になっているようだ。都市に稼ぎに来ていた出稼ぎ労働者が公共交通機関が封鎖されているため、食べ物もない中大挙して徒歩で故郷へと戻っているともあり、ロックダウンによる弊害の方が大いのではないかと思われる。とはいえ、感染拡大が本格的にはじまったらはじまったでカオスであるだろうし、如何ともしがたい情勢のように見える。イランやISでは、コロナウィルス対策としてメチルアルコールを飲み、数百人単位の死者が出ているとも伝えられている。どのような世界に行き着くのか、まったく読めない。

ネット上では、情報を周知する呼びかけなども行われているけれど、今回はSNSでの情報を拡散する動きには基本的に加わらないつもり。原発事故の後は熱心に行ったけれど、今回は原発事故の時よりも難易度が高いと思われることがひとつ。もうひとつは、SNSは感情的な軋轢を生み出し蓄積する作用が強いので、結局、発信すればするほど感情的な軋轢の渦に巻き込まれるのではないかとの感覚をここのところずっと持っているから。放射能は、細かな作用機序やエネルギーの性質にまで遡れば話は別として、扱いそのものは単純であるし、知識的にも大枠ではほとんど確定しておりそんなに難しい話ではなかった。感染症は、放射能の扱いよりもはるかに高度になるし、このウィルスの未知の要素も大きいので、情報のアップデートに素人が対応できる気がしない。ただ、「ウィルス」という基本概念については、ほとんどの人がすでに感覚的に理解しているため、概念的な部分から一般に周知する必要があった放射能に比べれば、ウィルスの性質さえわかれば一般への理解はそんなには難しくないかもしれない。

放射能の論争をずっと見て来て思うのは、もはやこれは感情の問題になっている、ということ。互いに罵り合い続けた結果、それぞれが感情的な鬱憤を抱えてしまって、それが事態を修復不可能にしている。ほうぼうから「ゆるせない」という言葉が行き交っていて、この言葉を見るたびにどんよりと沈んでしまう。

とりわけ、左派のなかで、放射能を強く忌避する反原発層と一定の科学的理解をベースに考えようとする層との亀裂が非常に大きなものになっているように見える。身内であったからこそ、互いへの憎悪は非常に強いものがあり、あちらがああいうならばこういう、と言わんばかりで、一定の科学的理解をベースにする層の中には、放射能忌避層への反発からほとんど科学原理主義になった人さえいるように見受けられる。

それ以外にも、感情的に対立する相手が批判するから自分は味方をする、といった行動原理で考えを決めている人がSNSのなかでもとても増えた気がする。放射能問題に絡んでいたクラスタにはその傾向が顕著に思われ、それだけ激しく論争を続けたということでもあるが、途中からはただの好き嫌いの問題になっているようにしか見えず、フェアな考えをしていると思っていた人までどんどん好き嫌い原理に引きずられた見解になっていくのを見るのはとても残念ではある。先日、辻大介氏の論考に以下のような記述を見かけて、そのとおりだなと思った。

現在、残念ながらネット上にあふれているのは、もっぱら敵を「論破」しようとするディベートのほうだろう。建設的なディスカッションをおこなうためには、相手に対する反発感情は抑制しなければならない。だが、ディベートはむしろ感情に訴えかけて、オーディエンスを「味方」に巻きこんだほうが、勝ち負けの判定に有利にはたらく。それもまた、ネット上でよく見かける光景だ。

ネットによる分極化は、こうした感情の次元をフックにして生じるのではないか、と私は見込んでいる。というのは、先の全国調査データを分析すると、安倍政権の支持・不支持だけでなく、安倍首相が好きか嫌いかについても、ネットの分極化効果がより明瞭な形で認められるからだ。一方、憲法改正などの政策的イシューにかんしては、あまりはっきりした分極化効果は見られない。それは、今のところ憲法改正などの政策論議が、私たちの感情の琴線にふれるところが少ないからではあるまいか? (「ネットは社会を分断しない」? ―― 楽観論を反駁する 辻大介 / コミュニケーション社会学

SNSのこうしたメカニズムが解消されない以上、コロナウィルスの知識啓発に関しても、原発事故のあとの放射能問題と同じような感情的な軋轢を増幅させていくだけになるのではないか、という懸念が拭えない。今回は、放射能の時以上に、直接、生命への影響が出ること、また生活への影響もより広範な範囲で甚大になることを考えると、その感情的なうねりもどのようなものになるのか、少しばかりぞっとするようなきもちでいる。

パンデミックの世界は、放射能と同じようにグレーゾーンをどう生き抜くか、という話ではあるものの、社会への影響とリスクの見極めが、さらにはるかに難しいように見える。過去のパンデミックに比べれば、弱毒性ではあるものの、高齢者や既往症のある人にとっては、それと並ぶかそれ以上の強毒性のウィルスになる。おなじ社会のなかでリスクの大きさがここまで極端に違ってしまうと、どこに判断の基準を置くかを定めるのは至難の技となる。人権に配慮する社会であれば、基準は弱者側に置くことになるが、問題は、おそらくこれが長期化することだ。長期化するうちに、ウィルスの毒性に対しては強者であった人が経済的な面で弱者になっていくことも頻々にあるだろう。こうなると、いったいどう優先順位をつけて誰を先に救うのがいいのか、優先順位の舵取りをするのはとんでもなく難しくなる。

こうしたとき、舵取りをするものが信頼に足る振る舞いをすれば、最後は義理人情で通していくことも可能だろうが、この国では、到底それは望めないだろう。為政者が最善を尽くした上で、それでも残る不利益は皆でなるべくわかちあおう、それでも不利益を大きく被る人には人々の連帯を、と呼びかけるのが定石ではあるだろうが、それができる政治家が日本にいるとは思えないのだった。