心的事実によって構築される世界

ホックシールド『壁の向こうの住人たち』は、「ディープストーリー」すなわち、「その人にとって真実と感じられる物語」を聞き取り、分析の対象としている。

2015年あたりから顕著になったSNSでの論調はこれに近いのかもしれない。「ディープストーリー」は、心的事実とも呼び変えることができるだろう。それは、個々の人間にとっては紛れもない「事実」そのものである一方、芥川の『藪の中』ではないが、同一の経験をした人間であったとしても一致するとは限らず、むしろ一致することの方がまれである。しかし、個々の経験者にとっては、揺るぎない、唯一絶対の個別的「真実と感じられる」経験である以上、誰かの経験とすりあわせをすることも容易ではない。ましてや、一方的な発話を発信スタイルとするSNS、特にTwitterではとりわけ個々の心的事実が収拾不可能な状態で顕在化しやすい。そこに、「かくあるべきだ」「かくあってほしい」という願望がないまぜになり、どちらがより事実であるかの覇権争いをはじめることとなる。それぞれの経験は、それぞれにとって絶対的なものである以上、すりあわせは本人がその意志をもたない限りは不可能だから、そうならざるを得ない。対立した心的事実は混じり合わず、そこに、なんらかの意図をもって誘導しようとする論調も重なり、結果として、現実になにが起きていたのかは、混迷のうちに沈み込んでいく。

そう思ったのは、2015年以降の福島関係の論調は、2014年までの情報で更新が止まってしまったままが大勢を占めるようになったと感じたからだ。当初は不思議でならなかったが、そのうち、安全派、危険派と呼ばれる双方の主張を見ていると、どちらもまったく同じ主張をしていることに気づいた。ともに「安全/危険」デマに苦しめられ、被災者は圧迫され、国/行政/マスコミはどちらかに加担し、誰も助けてくれなかった。と双方が、まったく同じようにうりふたつの主張をしているのだ。その様子を驚きながら眺めていたが、これは双方にとって同じように経験した(と感じられた)心的事実であることに気づいた。どちらも嘘を言っているわけではないだろう。ただ、それぞれにとっての心的事実を述べているに過ぎない。だが、おそらく、それが個々にとって唯一絶対の事実であるならば、折り合うことはまず不可能であろうし、しばしば現実に起きたことを総体的に見たものとは、違う世界が浮き彫りになるのは当然と言えるのかもしれない。

誰しも人間である限りは、個々の認識の檻の中から逃れることはできないし、認識の檻から逃れた「客観的な」現実世界を前提とするのもまた単純化しすぎた世界認識であろうとは思う。ただ、それにしてもSNSによって描写される世界像は、心的事実ばかりがあまりに色濃く投影されており、社会の不安定化に輪をかけてしまっているようにも感じる。不確かでうつろいやすく、そして、情動による影響を受けやすい人の心だけで世界が構築されると、このような世界ができあがるという実例を目の前で見せられているようである。

集団的なトラウマ事象となってしまった原発事故のあとに、SNSが隆盛を極めたのは幸いであったのか、不幸であったのか、その影響を人びとはどう評価するのだろうか。現実を現実のありのままに見ることは、もとより人間にとって至難の技であるが、SNS世界の困難さはそれを端的に示しているのかもしれない。