不確実性を生きる、幅を生きる

2015年3月『5 Designing Media Ecology』という自主制作雑誌の「3・11後の科学と生活」という特集で、東京大学佐倉統さんからインタビューを受けた記事を久しぶりに読み返した。

インタビューそのものは2014年年末だったのではないかと思うけれど、当時から私の言っていることは変わっていない。

この前段には、科学がどんな風に役に立ったか、どんな風に測定をしてきたか、といった技術的な観点を含む話を4ページ近くに渡って話している。そして、その結果をどう扱うか、という話の最終段でこう話す。

「測って安全であることがわかったら、みんな正しい認識を持つようになって事態は収まる」と考えている人って多いと思うんですね。だけど私はそれは絶対違うと思っていて、ある程度の相場観を理解・共有していても「でも嫌」という人はいるし、線量が低くてもガンになると思っている人もいる。それはずーっと、居続けるんです。だけどそれも、あなたの考えと私の考えは違う、というある程度共通の言葉を見つけ、そういう互いの距離さえ確保できれば、一緒にやっていけるわけです。日常ってそういうものじゃないですか。みんながみんな同じ認識を持っているわけじゃないけれど、ある程度の許容範囲内に収まれば「あいつはまあ、違うからな」とみんな線を引くわけですよね。それで充分だと思うんです。結構違うことを言っていても、まあまあそうだね、という感じで。
 自分の主張を他人に押しつけようとするのは、科学的に正しかろうが正しくなかろうが、どちらにしてもよくない。それだけの話なので。私もエートスの活動をしていて、啓蒙的に末続の人を正しい方向に導く、みたいに思われるのはすごく嫌なんですよ。みんながみんな正しいほうが気持ち悪いじゃないですか、逆に言ったら。

それが限りなく白に近くとも、グレーゾーンはグレーゾーンだ。不確実性のグレーゾーンのなかを生きることは、ネガティブ・ケイパビリティ、「つまり、いたずらに事実や合理を追い求めないで、不確実な状況や謎や疑いのうちにとどまっている能力」(レベッカ・ソルニット『迷うことについて』左右社、11ページ)を獲得していく道のりなのかもしれない。白黒つけることは、そこでは、粗野な暴力ではあっても、能力とも知恵ともみなされない。

迷うこと、ためらうこと、逡巡すること、たたずむこと、思案にくれること、答えのない問いの前をめぐること、それらは、人びとの叡智であり、vigilanceなのだ、と、私は言い続けていたし、これからも言い続けるだろう。