スティーブ&ボニー (14)

コンサートが終わり、用意されていたバスに乗り込んで、私たちは帰路についた。空いている席を探していると、見たことのある顔が窓際の席に座っている。クリス・クレメントだ。ICRPの科学秘書官だ。今回、私がここに来ることになった元凶の一人。隣の席が空いていたので、座ってもいい?と声をかける。もちろんさ。彼はいつものように快活に答える。すっかり夜闇に包まれた道を、バスは来た時とは逆向きに南下していく。ところどころ街灯や建物に灯っていると思われる明かりが見えるほかは、視界は暗闇だ。

私とクリスとの付き合いは2012年からになる。2011年福島で原発事故が起き、ICRPの科学秘書官、つまりは事務局を勤める彼は頻繁に来日することになった。2011年から年に3回(2017年からは年2回)のペースで開かれてきたダイアログセミナーも、そのすべてに参加しているし、それ以外の会議に呼ばれる機会も多く、日本の滞在日数は延べで一年近くになると言う。私たちは、福島の近況を話した。近頃こんなことがあって、共通の知り合いの近況がこうで。とは言っても、そのペースでクリスは来日しているので、あらためて話さなくてはならないほどの近況報告もそうあるわけではない。でも、いつも大勢と一緒にいるので、こうやってクリストふたりだけで話したのは、もしかすると初めてだったかもしれない。そういえば、これまで彼の年齢も尋ねたことがなかった。私にとってクリスは、少し年長の、いつも朗らかで前向きなナイスガイ、そして、私が知る中でいちばんの美食家だ。美食家と言っても、高級な料理ばかりを好むというわけではないけれど、それが見知らぬ街であっても、なぜか、彼は美味しいものは食べられる場所をみごとに嗅ぎつけるのだ。そのことに気づいて以来、「美味しいものを食べたければクリスの後ろに付いていけ」を、私の密かな鉄則としている。もし外国の見知らぬ街で口に合う食べ物が見つけられなくても、クリスについていきさえすれば、美味しい食べ物にありつけるはずだ。今回も、それを頼みにアメリカにやってきた。クリスさえいれば、どれだけ食文化が合わなくても、とりあえず食べられるものにはありつける。もっとも彼も多忙な人なので、こっそり彼の後ろをつけていく機会もそうあるものではなく、私の「鉄則」が本当に正しいかどうか試したことはないのだけれど。

ぽつりぽつりと福島について会話しながら、暗がりが広がる窓の外を眺める彼の表情がどことなく寂しそうに見えるのに気づいた。くまのプーさんを思わせる風貌の彼は、私たちの前ではいつも冗談を言い、ユーモアあふれている。いま、彼は、青い目で静かに窓の外を見やっている。ああ、彼はこんな表情もするのだな、と思いながら、考えていた。彼らが福島から離れる時が近づいているのだ。

ICRPという組織は、国際的組織とは言われるが、国連などの公的な国際機関とは違い、専門家ボランティアによって支えられている民間NGO団体に過ぎない。専任の事務局は、クリスと2〜3人の事務員だけだ。組織の目的は、学術的な知見に基づいて信頼に足る放射線防護の世界共通のガイドラインとなる「勧告」を作ることで、現地活動は、福島の原発事故以前は一度も行ったことがなかったし、またそのための態勢も持たなかった。ダイアログセミナーのような現地活動を行うことは、ICRPにとってもその長い歴史のなかで初めてのことであり、極めて異例だったのだと言う。民間NGO団体とは行っても、歴史ある組織だ。なかには保守的なメンバーも少なからずいる。本来の活動を踏み越える新たな活動に対して、全員の賛意を得られたわけではなかった。だが、原発事故という事態の重大さと影響の大きさを鑑みて、専門家としての責任を果たすということで、積極的なメンバーが後押しする形で、ダイアログセミナーを続けることが可能となっていた。だが、事故から時間が経過するに従って、いつまで福島だけ特別扱いしてかかわり続けるのかという声が大きくなっている、という話が私の耳にも入ってきていた。会議のなかでそうした議論が巻き起こり、クリスたち福島の活動に熱心なメンバーは苦しい立場に置かれている、という話も聞いていた。それもやむを得ないことだ。事故直後の数年までならまだしも、もう5年以上が経過しているのだ。それでもきわめて異例であったと言っていいだろう。ICRPの本来の目的は、被災地支援活動ではないのだから。そう遠くないうちに、彼らは福島の活動から離れざるを得ない。事故直後の混乱期をともに経験し、何度となく被災地を訪問し、何人もの顔見知りができたクリスにとっても、福島は思い入れのある場所となっていて、離れることは寂しさがあるはずだ。

私がダイアログセミナーの運営に巻き込まれるようにかかわるようになってからクリスともやり取りするようになったが、彼らは、現地の人びとの意志と考えを尊重するという立場を一度たりとも崩したことがなかった。専門家とも呼ばれる人たちにもいろいろな人がおり、自分たちの研究にしか興味がない人、あるいは、自分の意見を地元の人間に押し付けようとする人も少なからずいるのだが、クリスとのやり取りでそうした姿勢を感じることはまったくなかった。外国からやってきた専門家としての節度を持って、どこまでも現地の人びとの生活に寄り添う、彼らはそういうスタイルだった。その控えめな姿勢が、混乱荒れ狂う原発事故後、嵐の海に浮かぶ小舟のような、ささやかな安定を生み出していたことを、私は知っている。私たちは、彼らを笑顔で送り出してあげるべきなのだろう。

翌朝から会議がはじまった。朝7時半からホテルで打ち合わせだ。あいかわらず時差ぼけは治らず、夜中に目が覚めて、そのあとはほとんど眠れないまま、朝を迎えた。会議の運営作業があるスティーブも早くから準備があるから、私と一緒に出発した。会場は、空港近くのホテル。昨日のリアクターの見学ツアーに出かけるときの集合場所だ。会場に一歩足を踏み入れるなり、ギョッとしてあたりを見渡す。寒い。まさか南極にきたわけでもあるまいし、この寒さはどういうことだろう、とあたりを見渡すが、他の人は気にする様子もなく平然と歩いている。どうやら、冷房が全開で入っているようだ。だが、季節は9月も後半。冷房がなくとも、外も暑いというほどではなく、現にスティーブの家では窓を開け放つだけで、冷房は使っていなかった。だというのに、この冷房の入り具合はいったいどういうことだろう。サンダルの足先から急激に全身が冷えていくのを感じながら、打ち合わせ会場の部屋に向かった。パネルディスカッションのメンバーで顔合わせをするのだ。事前に長文の論文メールを送りつけてきたアメリ環境省と戦っている人がいるはずだ。丹羽先生がメンバーにいるからどうにかなるだろうけれど、とこわごわと会場に向かってそれらしき人たちがいるテーブルで挨拶をして席に座った。打ち合わせ場所は、宴会場にもなる広い部屋で、えんじ色に模様の入ったカーペット敷きの床に、丸テーブルがたくさん並べてある。テーブルには、テーブルクロスがかけられ、天井からは装飾された照明が垂れている。なんだか、日本で言えば昭和の時代を思わせるひと昔前のデザインだな、と思いながら眺めていると、急に白人の男性から「久しぶり!」と声をかけられた。がっちりとした体格で、温厚そうな四角い顔はなんとなく見覚えはあるけれど、誰だっけ。「ほら、オーストラリアで会った…」 ああ、トニー! 咄嗟に名前を思い出せてよかった。一年前、オーストラリアの放射線防護協会の集まりに行った時に� ��私を招聘してくれたトニー・フッカーだった。あなたも来ていたの。僕は、君の発表があるセッションの司会だよ。気づかなかった! 去年のオーストラリアの時と同じような内容の発表をする予定なの。楽しみにしているよ。私は、敵地で味方を見つけたように、ほっとした。昨年のオーストラリアでも同じような発表をして、オーストラリア放射線防護協会の人たちには、とても好評をもらえたのだった。会場がアランのような人ばかりだったらさすがに心細いのだけれど、少なくとも、最低一人は私の話したい内容を理解してくれる人がいる。打ち合わせの内容もなによりも、そのことに私は心からほっとした。

打ち合わせは終わったものの、会場の寒さはあいかわらずだ。そもそも、学術会議に呼ばれてきたものの、自分の出番以外は、私にとってはほぼまったく興味を抱けない内容ばかりだ。さて、寒さに震えながら、これからの時間をどう過ごしていけばいいだろうか。とりあえずは、お昼まではここにいないと、お昼ご飯にありつけない。車での移動が前提となっている街なので、会場の外もふらりと歩いて時間つぶしができるような様子ではない。会場脇の片道二車線ずつの広い道路では、車がゴーゴーと走り抜け、歩いていける場所にお店がありそうにも見えない。かといって、この寒さの中で時間が過ごせるとは思えない。せめて靴下を履いてくるべきだった。おろおろしていると、スティーブが、ヤスヒロがいる。英語に困ったら、彼に助けてもらうといい、と声をかけてきた。スティーブについていくと、コーヒーブレイク用の飲み物が用意されたスペースに、男性にしては小柄の日本人と思しき男性がいる。初めまして、と日本語で話しかけると、初めまして、と見事な大阪イントネーションで返ってきた。いや、日本人と話すのは久しぶりですわ、と彼は話す。えーっと、ちょっと待ってね、あかんな、日本語しばらく話しとらんから言葉が出てこん。彼は、大阪出身だけどもう20年以上日本には帰っておらず、親戚とも付き合いがないという。以前は、インテルに勤めていたこともあるのだという。それを聞いて、ここからシリコンバレーはそんなに遠くないことを思い出した。それにしてもここ寒いですね。そうなんですわ。ほら、あれがいりますわ、あの、ほらズボンの下にはく、もも…、もも、なんとか。と言いながら、彼は片足ずつなにかを履いてみせるジェスチャーをする。ああ、ももひき! そうそう、ももひきですわ! 最近の日本では、ももひきという言葉はあまり使われなくなってるんですよ。そうですか、最近の日本の様子はさっぱりわからんから、すっかり時代遅れになってしまいましたな。彼はおどけ� ��様子で言う。

私は、昨日、公園で出会ったフクダさん夫婦を思い出していた。彼らもまた日本とのつながりを絶っていた。アメリカにやってきた時代も経緯も違うけれど、このヤスヒロさんも、日本とのつながりを絶って、遠く離れたここで暮らしている。同じ町に住みながら、まるで離れ宇宙のように彼らは互いに交流することもなく、というよりも、むしろ互いの存在を、かつての自分の属した文化を避けながら、元日本人のアメリカ人として暮らしている。彼らにとっての日本とはどのような存在なのだろう、とふと思った。ヤスヒロさんは、日本語よりは遥かに流暢なアメリカ英語で機関銃のようにまわりの友人たちと冗談を交わしている。ほな、なにかありましたら、お手伝いしますんで、言ってください!と彼は友人たちと会場に向かった。