スティーブ&ボニー (15) 「オルマニーへのまなざし」

受付をしていなかったことに気づいて、会議室前のスペースに作られたカウンターへ向かった。発表者向けの受付へいくと、「ああ、あなたが! ようこそ!」と係の人たちが笑顔で迎えてくれた。傍らからスティーブが、主催の関係者と思しき人たちに私を紹介する。運営に携わっている人たちは、原子力の技術者といった面持ちで、研究者という雰囲気ではない。きっとスティーブと同じように民間企業に勤めている人たちなんだろう。車椅子に乗った白髪の女性もいる。彼女がヤスヒロのパートナーだ。彼女は、いまはリタイアしているけれどなんとかという会社にいたんだ。きっと経営に近いポジションにいた人なんだろう。アランと同じような暮らしぶりの良さを感じさせる彼女の様子を見ながら、そう思った。それにしても、関係者もそうだが、会場全体を見渡しても、平均年齢がずいぶん高いように見える。白髪の人も目立つ。

会場では、プログラムが始まったようだ。スティーブは記録係で、会場の後方で三脚に載せたビデオを構えている。一度は会場には入ったものの寒さに耐えかねて、私は途中で外に出た。そうでなくとも興味がない話題なのに、凍りつくような室内でとても聞いていられない。建物の外に出て、日差しにあたって体を温める。しばらく外にいると体の冷えも薄れて、硬直していた筋肉がゆるんでくるような気がする。今日は、こんな風に亀の甲羅干しよろしく、冷えるたびに外に出て体を温めるしかないのかもしれない。そう決めて、会場から出たり入ったりをおろおろ数十分おきに繰り返しているうちに、昼食の時間になったようだ。会議室から人が移動している。お昼には、ランチョンセミナーが開かれることになっている。やれやれ、ようやく昼食にありつける。サンドウィッチのようなものをめいめい手にとって、セミナーの開かれる会場に向かった。しかし、このサンドウィッチの味はどうしたことだろう。なにをどうすればこんな味付けになるのか、というよりも、そもそも「味付け」という概念が存在しないのかもしれない、味覚としてどう表現すればいいのかわからない、ぞんざいな味がする。私の味覚では、どうにも食べ物と認識するのが難しく、口の中で噛んでのみくだす気にもなれない。体は冷え切っているのに、食べるものも食べないのでは、明後日の発表の前に倒れてしまうかもしれない。私は、コーヒーブレイクの時に並んでいるクッキーやチョコレートと思しき食べ物でカロリーを補給すべきだと判断した。

ランチョンセミナーの会場では、前方にスクリーンが表示され、白人の男性による発表がはじまった。どうやら原子力開発の歴史をテーマとしているようだ。スクリーンには、原子力の開発に携わった研究者の写真と業績が順に映し出されていく。レントゲン、ベクレル、ハーンといった、私でも名前くらいは聞いたことのある人たちが並んだ後、最初に実験用原子炉の稼働に成功させたフェルミがあらわれ、発表にぐっと力が入る。そして、オッペンハイマーマンハッタン計画を主導した物理学者だ。「原爆の父」とも言われる。発表者は、目を輝かせながら、熱を込め、身振り手振りをまじえて、彼の業績を語る。会場も熱心に見入っている。そして、スライドには、キノコ雲の写真が映し出された。そこで表情を曇らせる人はどこにもいない。そう、これも、彼らの核開発史の一幕にすぎないのだ。いや、むしろ、クライマックスシーンと呼ぶべきなのか。ここで会場から拍手喝采が起きなかったことが不思議なくらいだ。そして、その後に原子力の平和転用がはじまる。栄光の核開発史の後日譚のように、その歴史は淡々と付け足された。会場の高揚した雰囲気に違和感を感じながら、ランチョンセミナーをなんとか最後まで聴き終えた。日本では、原子力の平和利用を金科玉条とし、兵器としての原子力とエネルギーとしての原子力が同一視されることがないよう注意が払われている。だが、ここでは、そうした区別がまるで無意味であるかのように、無邪気なまでに両者はひとつづきの地平に並んでいる。兵器としての原子力と発電エネルギーとしての原子力は、ひとしく、輝かしい核開発史の地平に並べられるのだ。これが核開発国の歴史観なのだ。

会場にはジャックも来ていた。午前中は、部屋で自分の発表の準備をしていたのだという。この後、話をしないかというので、二人で食堂近くの廊下の椅子に腰掛けた。ひどく寒いんだけれど、というと、彼は、アメリカはどこでもそうだ、いつでもどこでも冷房がんがんなんだ、という。冷房を使わなくなったら、アメリカの発電量は半分くらいで済むんじゃないか、と彼は冗談めかして言う。ああ、そうと知っていたなら、冬用の服装を持ってくるんだった。ところで、と彼は話題を変えて、彼がなにか話したくてたまらないことがあるときにいつもするように、姿勢を前のめりにして話し始めた。昨日、Bリアクターの前で、あなたはあまり気分が良くない、と言っていたよね。そのことを後から考えてみたんだ。よくわかった。あの時は気づかなくて悪かった。彼が、あのやり取りを覚えていて、私たちが別れた後にわざわざ考えてくれていたことに、私は驚いた。けれど、彼はこういう人なのだった。彼は続ける。日本人のあなたがそういう感覚を抱くのはもっともだと思う。ただ、戦争の歴史的な史跡というものは、どこでもナショナリスティックなものだ。たとえば、広島の平和祈念資料館、あそこに訪ねていったとき、外国人である自分にしてみるとやはりナショナリスティックな気配を感じたし、少し違和感を覚えたのは事実だ。広島の平和祈念資料館に対して「ナショナリスティック」と表現されたことに私は少し驚いて、聞き返した。本当に? 彼は本当さ、と頷いた。以前から広島の平和祈念資料館は、原爆被害の側面にばかり焦点をあて、原爆投下へいたるまでの歴史的背景、つまり、日本のアジア諸国への侵略について記述がないのでは、と指摘され、改修が行われるたびに、その内容の展示が増やされていたことは知っていた。だが、それは、日本によって侵略されたアジア諸国からの視点であると私は思っていたのだろう。ヨーロッパ人であるジャックからそう指摘されて、なるほど、あの展示内容はそう感�� �られるものなのか、とあらためて思い起こしていた。平和祈念資料館の展示では、原爆がどれほどの大きな被害を与えたかが資料や証言によって、見学者を圧倒するように示されている。そのことによって二度とこのような悲劇を、世界のどこでも起こしてはならないという理念に基づいているのは確かだ。だが、一方で、原爆投下が人びとにどれだけの苦痛を与えたのか、市民の被害を強調することによって、国民の悲劇的物語として共有し、国家的災厄の経験譚とすることにもつながっていたのかもしれない。そう考えている私に、彼はこともなさげに付け加える。別に、それは日本に限った話ではない。もちろんフランスでも同じだ。それに、先ほどのランチョンセミナーの話だってそうだろう。あの話はとても興味深く、そして、また奇妙だった。原子力の発展の歴史のなかには、あるヨーロッパの女性研究者の業績も大きく寄与している。ところが、先ほどの発表のなかでは、彼女のことには一切触れられていなかった。なぜだかはわからない。だが、あれほど著名な研究者の業績に触れないのは、非常に奇妙だ。

それから、ジャックは、つれづれに彼の昔話をはじめた。フランスの中西部、スイスとの国境近くの田舎町で生まれ育った彼は、大学のためにパリにやってきた。大学に入る前は、絵を描くことが好きで、美術大学に行くことを考えていたのだという。ただ、美術では食べて行くのは大変だろうと気づき、進学直前に進路を変更した。彼が選んだのは、経済だった。なぜ美術から経済に? まったく異なる分野なのに。さぁ、理由は特にない。まわりの友人が選んでいたからなんとなく。大学を出た後は、高校の教員として働いていた。放射線防護の世界に入った理由については、以前、いわきで末続の友人たちと一緒にお酒を飲んでいた時に聞いていた。ひとしきりお酒を酌み交わして、すっかり和んだ雰囲気の時に、ある末続の男性が尋ねた。前から尋ねたかったんだけれど、いったいなんで放射線防護の道に入ろうと思ったんですか? 彼は、グラスを持った手を止めて、真剣な顔をして、一言、答えた。「お金のためだ」 もっと高尚な返答がくるとばかり思っていた一同は、思ってもいなかった答えに手を叩いて爆笑した。学生時代にすでに妻と出会っていた彼は、大学を出てすぐに結婚し、子供もいた。教員の給料は安く、家族を支えるための生活は大変だった。そんな時、知人から放射線防護の職場(CEPN)を紹介されたのだという。彼は、放射線防護がなんなのかも知らなかった。尋ねたのは、ひとつだけ。給料はいくらか。それだけを確認して、彼は転職を決めたのだという。そして、そこから彼の放射線防護の専門家としてのキャリアがはじまった。フランスでは、放射線防護のキャリアパスは多様で、ジャックのように学生時代から専門でそれを学んでいなかった人も含まれている。ダイアログの常連の別のフランス人専門家は、学生時代はヨーロッパ中世史を専攻していたと言っていた。それを聞いて、ヨーロッパから訪れる専門家が日本の専門家とはずいぶん雰囲気が違う理由が納得できたのだった。

大学で美術を専攻することは諦めたものの、ジャックの美術への関心は強いままで、いっときは写真に夢中になっていた。彼は、ベラルーシで取り組んだETHOSプロジェクトの時にもカメラを持参して、村人たちの写真をたくさん撮っている。その写真は、『ナショナル・ジオグラフィック』にも掲載されたことがあり、また、ETHOSプロジェクトが終了する頃に、『Regards sur Olmany』(オルマニー村への眼差し)という一冊の写真集もまとめている。福島の原発事故直後、ETHOSプロジェクトについて調べていた私は、ネット上でその写真の一部を見かけ、そこに映し出される村人の表情に強く惹かれたのだった。その写真を撮ったのがジャック本人であったということを知ったのは、私たちが出会って少し経ってからのことだったが、その写真には、彼がなにに関心をもっているのかがはっきりと映し出されており、私がすぐに彼を信頼することができたのは、その写真のせいもあったのだと思う。人びとの生きざま、暮らしぶり、そして、それへの飽くことのない関心と敬意、私が彼の写真から受け取ったのはそうしたことだった。