プリーモ・レーヴィ 『改訂完全版 アウシュヴィッツは終わらない

これが人間か『夜と霧』『アンネの日記』に並ぶ古典的名著、『アウシュヴィッツは終わらない』の改訂完全版。強制収容所から生還した著者が、人publications.asahi.com

『休戦』を読み終わって、続けて、同じように自宅の書棚に長く並べてあったままの『これが人間か』に手を伸ばした。『休戦』は、冒頭部分、アウシュヴィッツから解放直後の描写で凄惨な箇所はあるものの、全編を通して読めば、帰還までの困難の多い旅路を美しい筆致で内省的に描いてあるので、頁を繰る手が重くなるといった箇所はなかったのだが、『これが人間か』は収容所内での暮らしを描いているので、内容だけを取り出せば重苦しい。だが、レーヴィの筆致の賜物で、「読める」のだ。収容所内で人間であろうとし続け、ともにいる仲間のことをも人間であるとみなそうとする強い意志を持ち続けたレーヴィのこの筆致でなければ、到底読むことのできない内容であろうと思う。あらゆる人間性を剥奪された、おおよそ人間とは呼びがたい状況に置かれた「仲間」を、なおそれでも人間であるとみなそうとした彼の強固な意志がなければ、人間としての品位を残しながら、これほど収容所内の凄惨な状況を描きないと思うからだ。文体のすばらしさにも驚くが、これを文学作品として描きえたことが、なによりの驚きだ。同じ強制収容所の体験を描いたフランクル『夜と霧』は描き方としてまだ想定できる。具体的な描写は、どぎついものはあまりなく、当時すでに40代で精神科医として十分なキャリアも能力ももち、一定の人生経験を積んだフランクルだからこそ、過酷な経験を読者が耐えれる程度に、彼の思考と言葉に書き換えてある。だからこそ、『夜と霧』はこれほど多くの読者を得られたのだろう。レーヴィの書き方はそれとはまったく異質だ。そこにあったこと、起きたこと、出会った人のことを丁寧に著述してあるのだ。

全編を通じて読み応えがあるが、特に、ダンテの『神曲』を作業中のフランス人に苦心して伝えようとする箇所は、胸を打たれる。収容所で失われた「人間性」への渇望と衝迫が、胸に迫って伝わってくる。フランクルの著書にも書かれているが、恒常的な飢餓、肉体的な苦しみも凄まじいものであったが、それにも増して、尊厳が奪われたことの苦痛が書かれていることは強く印象に残る。そして、最後に、生死を分けた要因のひとつとして描かれるのが、精神のありようだ。これも、フランクルの著書にもはっきりと書かれている。引用箇所は、『これが人間か』の末尾に付された、若い読者からの質問への回答の一部だ。本書の内容を読み終えてから、この箇所を読んだわけだが、息を飲んだ。

全体的に見るなら、この過去は、私を豊かで、確かな人間にしてくれた。(略) つまりあの出来事を生き抜き、後に考え、書くことで、私は人間と世界について多くのことを学んだのだ。
しかしこうした前向きの結果はわずかな人にしか訪れなかったことを、すぐに付け加えておこう。(略) 私が生きのび、無傷で帰還できたのは、私の考えでは、幸運によるところが大きい。おそらく人間の魂への関心を決して絶やさなかったことや、単に生きのびるだけでなく(大多数はこうした考えだった)、体験し、耐え忍んだことを語るために生きのびるのだ、というはっきりした意志を持っていたことが、私を助けてくれたのろう。そして、最も苦しくつらい日々にも、仲間や私は、物ではなく人間だ、と考える意志を執拗に持ち続け、こうすことによって、多くのものに精神的な難破をもたらした、完全な屈服状態と道徳的堕落をまぬがれえたことが、役に立ったのだろう。
                       (「若い読者に答える」)

同じく戦時下のヨーロッパを生き延びたユダヤ人、パウル・ツェランブレーメン文学賞受賞講演の時の言葉を思い出した。この言葉は、震災後、頭の中ですり切れるくらいに思い出していた。

言葉、言葉だけが、失われず残りました、そうです、あらゆることに関わらず。しかし、言葉もくぐらねばなりませんでした、自らの当て所無さを、恐るべき沈黙を、死をもたらす饒舌、幾千の闇を。起こったこと、さまざまな出来事を、言葉はくぐり抜けていきました。そして再び明るみへ出たのです、あらゆることに「豊かにされて」。 (パウル・ツェランブレーメン文学賞受賞講演」)

フランスに最初に訪れたとき、フランス人の友人がどこか行きたいところがあるか、と事前に尋ねててくれたので、パウル・ツェランの墓に行きたい、と頼んだ。彼は、ずいぶん苦労して調べてくれたようで、パリ郊外にある墓地に連れて行ってくれた。パリ近郊にはいくつかこうした公共の整備された公園墓地があり、著名人の墓地がならぶ区画は観光スポットのように案内地図もあるそうだ。だが、ツェランの墓地はそうした著名人が埋葬された豊かな区画ではなく、墓地の管理人に尋ねてさらに探し回ったあげくに見つけることができた。その周囲には放置されたままのような墓石も少なからずある寂しい様子のところで、彼はひどく怪訝がっていた。自力であればとても見つけることはできなかったろう。パリに無数にある美術館でも観光地でもなく、ツェランの墓に行きたいと希望した私を友人はずいぶん珍しがっていた。


付箋だらけにしたビヴァリー・ラファエル『災害が襲ったとき』の最後に、次のような文章が書かれていることも想起される。

過去の災害体験の集積・統合と来たるべき災害への適応を集約する最大のテーマは、おそらく「希望」であろう。(略)臆病よりもむしろ勇気、人間同士の思いやり、それに圧倒的なストレスから立ち直る力など、災害に対する人間の対応への力は強いものがあるから、災害体験から学び得たことは、この希望をもつという能力を確実に強めてくれるに違いない。災害に見られる個人と社会の愛他的な反応や、階級や人種の壁を超えた強烈な同情心は、確かに人類がもつ資質のうち最善なるもの、最強なるものを象徴している。それは未来への希望につながるものである。(ビヴァリー・ラファエル『災害が襲ったとき』「結びーー人間とカタストロフィ」)

PTSDやトラウマ経験を克服した人間がしばしば、特筆すべき人間的な深さを見せるのだという。これらの記述は、そのことによるものなのかもしれない。フランスの友人たちは、ベラルーシから福島事故を経て、足掛け25年以上は原子力被災地にかかわり続けている人もいる。これは、職業上の理由だけではない。なぜか、強く惹きつけられるのだ、だが、彼らの誰もその理由がわからないのだという。もしかするとそれは、原子力被災地に住む人々がトラウマを経験し、それを乗り越える過程(その過程はおそらく長期にわたって続く)に見せる人間的な深さが、彼らを引き付けるのかもしれない。私も、ベラルーシを訪れた時に、あれほど強い意志を眼差しにたたえた人たちを見たことがない、と感じた。その印象は、いまも変わらない。
レーヴィの言葉は、こうしたことを語っているのかもしれない。