封鎖都市の記憶

屋内退避区域、または、2011年4月21日以降には緊急時避難準備区域と呼ばれるようになった区域は、おおむね東京電力福島第一原子力発電所から半径20〜30km圏になる。日本政府は、不測の事態が発生した時に自力で避難することができる健康な成人のみそこに居住してよい、とした。とはいえ、社会インフラも物資の流通も途絶したそこでは長期にわたって、日常生活を営むにあたって普段は意識することのない、あらゆる機能が損なわれることになった。当初続いた1ヶ月間の屋内退避という指示もまったく無理があるものだった。人間が屋内にこもりきりで生活するなど、数日間が限界だ。町全体で一ヶ月も屋内に退避し続けるなんて到底可能なことではない。家に籠もった人間ばかりでいったいどうやって暮らしを支える多くの機能を守り続けられるのか。

あの頃、あの町は、いつもどんよりとした曇り空の下にあって、奇妙に静まりかえっていた気がする。けれど、あの町のあの奇妙な静けさ、押し黙るような居心地の悪さは、その場のその空気を経験した人にしか伝わらない。その後、この奇妙な政府指示は2011年9月に解除されることになったが、人びとはなかなか戻らず、また放射線への恐怖心も、その線量に比して、他の地域から比べても突出して高く残ることとなった。その理由は、半年もの間、あの町を覆った強いられた静けさからもたらされたものであるに違いないのだけれど、経験していない人に理解されることはほとんどなかった。線量が低いのにこの町で不安感が強いのは、測定をし続ける人間がいるからだ、なんていう声も外からは聞こえてきた。あの町のあの時、あの空気を知らないのに。あれは「封鎖都市」だった。周囲からの交流を止められ、あらゆる都市機能と生活活動が停滞し、人びとは目を伏せ、声を潜めて会話する。人影を見ればギョッとする。そんな場所だった。外野の放言に、封鎖都市がどんなものなのか知りもしないのに、人間なんて無責任なものだわ、と肩をすくめる。

人っ子ひとりいない住宅地で夕焼けを見ていた。やっと除染が終わった真新しい公園の砂は誰も足を踏み入れた形跡がない。子供の声なんて久しく聞いた覚えがない。ほとんど人のいない町なのにスピーカーから演説を流しながら車が走っていく。「ぼくたちの町は、ぼくたちの町は、ダメになってしまいました…コメが、コメが作れなくなってしまったんです。ぼくたちの、ぼくたちの浪江は…」 強制避難指示の出た隣町の名前をあげながら、その声の主は泣いているのだろうか、震えるような声で大音量をかけながら走って行く。この町にも人はいないのに。声の主を確認したくて家から走り出たけれど、もう車はどこかへ行ってしまっていた。選挙シーズンでもない。その声の主はいったい何のために車を走らせたのか、ただ心の内を誰かに訴えたかっただけなのだろうか。

ようやく子供の声をあちこちで聞くことができるようになったのは3年も過ぎたころだろうか。ああ、人が暮らすというのはこういうことなのだ、と、心底ほっとした。

子供には不要不急の外出を控えさせるよう、というニュースの文字を見ながら、あの町が封鎖都市だったあの頃を思い出していた。