スティーブ&ボニー(18) 「恐ろしいのは人間です」

 夜闇に沈むハイウェイをヘッドライトとテールライトが流れていく。ときおりライトに照らされて浮かび上がる運転席のボニーの表情は、いつもと変わりない。油断なくしっかりと前方を見据え、ハンドルを握る。光の流れに身を沈ませながら、先ほどのソドムとゴモラの宴席のことを考えていた。

「600ミリシーベルトでもいいと思うね!」と叫んだ、50代前半くらいと思われる、赤みがかった明るい茶髪の白人男性の、マイクを握った時の高揚した表情。まるで、ついに言ってやったぜ、と言わんばかりの得意そうな顔。そういえば、彼は、初日のランチョンセミナーで、栄光の核開発の歴史について説明したプレゼンテーターではなかっただろうか。年間600ミリシーベルトの被曝許容量というのは、放射線の健康影響についてまったくなんの知識もなかった時代でもなければ、尋常な数値ではない。彼には家族がいるだろう。もしかすると孫だっているかもしれない。自分の子供や孫をそんな環境で暮らさせたいと彼は思うのだろうか。いや、世の中にはそれを是とする人もいるかもしれない。だが、仮にそれを彼が是としたところで、人びとがそれを受け入れることはまずあり得ないだろう。

「自分の身が守られている」という感覚は不思議なものだ。疫学的に健康影響が確認されているといういくつかの目安の数値とはまた別に、一般のたいていの人は、それを比較によって判断する。たとえば、近隣の地域との比較、事故前との比較、あるいは、おなじ国のなかでの全般的なリスク状況との比較。アレクシェーヴィッチの『チェルノブイリの祈り』の中には、ソ連崩壊時に起きたタジキスタンやキリギスの内戦を逃れて、放射能汚染された立入禁止区域に住む人の証言が収められている。民族自決の嵐が吹き荒れた1990年代、ソ連を構成していた共和国のいくつかでは内戦が起き、民族浄化など凄惨な状況に至った。そこから命からがら逃げ延びた人が証言する。

だから、私はここじゃこわいと思いません。土地や水がこわいなんて考えられない。恐ろしいのは人間です。あそこでは、人間は一〇〇ドルだして市場で銃を買うんです。
      アレクシェーヴィッチ『チェルノブイリの祈り』(岩波現代文庫

目の前で人と人が殺し合う、自分も自分のまわりの人間もいつ襲われ、殺されるかわからない、そんな状況と比較すれば、あるとしても長期的な確率論的なリスクの増加に過ぎない放射線汚染地域での静かな暮らしの方が、はるかに「安全」であると思われるのは、当然であるように思える。だが、これは相対的な比較の問題だ。逆の例を考えてみよう。同じように身の安全が確保されており、快適で豊かな暮らしができる場合、放射線リスクの高い別の場所での暮らしが、よりよいものだと感じられるだろうか。おそらくは、たいていの人は、そうは思わないだろう。もし、「よりよい」と感じるとしたら、そこでの暮らしになにか放射線とは別の理由で、魅力を感じるからだ。祖先が暮らしていたというのが理由かも知れない。友人がいるからかも知れない。風土や景色が魅力的であったから、あるいは仕事がある、食べ物が美味しい、忘れられない思い出がある…。理由は人それぞれ、無数にあるだろう。

だが、600ミリシーベルトに達するような場所が、他の場所と比べて暮らす価値があると判断する人がこの世にそうそう存在するとは想像出来ない。もし、それでも彼が、そうした場所が暮らすに値すると考えるなら、その理由は、おそらく、放射能原子力そのものが彼にとっては魅力だからだ。職業的な理由なのか、もしかすると、彼は原子力の持つ「力」そのものに魅せられているのかもしれない。その理由は定かではないが、彼はリスクの話しをしているようでありながら、実は、かれの偏愛ともよべる嗜好を露わにしているに過ぎないと私には感じられた。そして、彼と嗜好を共有する人間は一部には存在するだろうが、世の多数になり得ないだろう。

昼間、ジャックが見せてくれた、彼のパソコンに保存してあった映像を思いだしていた。それは、イギリス軍かアメリカ軍が、1950年代ないしは60年代に地上核実験を行った時の記録映像だった。砂漠とおぼしき場所の白黒映像が映し出される。画面には長い塹壕が掘ってあるのが見える。画面からさほど離れていない場所で、閃光が走り、強烈な爆風が塹壕の上で吹き荒れる。砂嵐で画面は真っ白になった。しばらく経って、爆風が収まり、視界が開けると、おもむろに塹壕からは多くの兵士が出てきた。彼らは、打ち上げ花火の成功を祝うかのように笑顔で雑談している。私は目を見開いた。爆発後、せいぜいが10分後程度だ。周囲には、まだ残留放射能が濃厚に漂っているはずだ。爆風が強烈に吹き付けるほどの爆心からは至近距離。兵士たちが浴びている被曝量が、無視できるほどの低いレベルであるとは到底考えられない。彼らは、それを知らない。

もうひとつの映像は、同じように核実験を見つめる将校たちの映像だ。将校たちがいるのは、塹壕ではない。兵士たちとは違い、彼らは爆風も届かない距離で、双眼鏡を手に核実験の様子を眺めている。双眼鏡を目に当て、まんじりともせずにじっと遠方を見つめている彼らが、双眼鏡を顔から下ろし、手を打って破顔した。笑顔で握手をする。どうやら核実験は成功したようだ。兵士とは違い、彼らは知っているはずだ。広島と長崎でなにが起きたか。人びとがどのように無残に死んでいったのか。そして、放射能が人体にどのような影響を及ぼすのか。当時はその影響の全容はわからずとも、少なくとも、高線量の放射能が人体に大きな影響を与えることくらいは知らないはずがない。それでいて、彼らは、爆風のあたる至近距離に兵士を置き、自分たちは遠く離れた安全地帯からそれを観察し、その成功に破顔した。彼らは正気なのか。正気なのだ。年間600ミリシーベルト放射能でも構わない、という彼が正気であるように、この将校たちも、物事の分別を弁え、家庭を持ち、家庭では子供たちが健やかに育つように、老いた祖父母や両親が、不自由なく暮らせるように心配りし、あるいは、友人知人の不幸には心痛め、世の中が平穏で多くの人びとが幸せで暮らせるようにと祈ったりもするのだ。

私は、爆風を浴びた兵士たちのその後の人生を思い、そして、1人の女性のことを思いだした。アンゲリーナ・ワシーリエブナ・グシコーワソ連放射線医学者だ。急性放射線障害治療の第一人者とも言われた彼女は、『チェルノブイリの祈り』の中でも、チェルノブイリ事故の初期消火にあたった消防士たちを治療する献身的な医師としてその名が登場する。放射線医学者でソ連の科学アカデミー副総裁でもあったイリーンが、事故当時のことを記録した『チェルノブイリ:虚偽と真実』にも、有能で、経験豊富な頼もしい同僚医師として描かれている。急性放射線障害の健康影響の閾値の目安を作ったのは彼女であると書かれた記述もどこかで読んだことがある。

急性放射線障害とは、短期間に非常に強いレベルの放射線を浴び、ただちに健康影響が現れることである。浴びた放射線の量によっては、致死的なものとなる。グシコーワは、急性放射線障害治療の第一人者と言われるほどの臨床経験を持っていた。チェルノブイリ事故の患者の治療にあたり、『チェルノブイリの祈り』で消防士の妻が感謝の念を捧げるように、患者の苦痛をやわらげるためにできる限りの尽力をしたようだ。だが、彼女のその豊富な臨床経験を支えた、その患者たちはどのようにして生み出されたのか。チェルノブイリ事故によるものだけではない。ソ連の核開発にともなって起きたであろう無数の被曝事故もあったはずだ。核開発の機密性ゆえほとんどが表に出ることがなく、そして、この先も歴史の闇に葬られたままとなるであろう被曝事故にあった無数の人びとを、ソ連放射線医療にあたったグシコーワをはじめとする医師たちは目撃してきたはずだ。被曝事故は、偶発的なものも、もしかすると作為的なものもあったかもしれないが、おおよそ安全性への配慮が欠落した状態で、「未必の故意」とも呼べるものも多数あっただろう。無邪気な過失ではない、作為的とは言えないかも知れないが、それが起こることを予期しながらもとれる手立てをあえて打たないで、その結果当然のものとして発生してしまった被曝による患者たちを治療する医師というのは、いったいどういった感覚を抱くものなのだろうか。そして、その治療結果をもとに、被曝量に応じた急性被曝障害の臨床像、致死率を描いたあの図表を、彼女らはどんな思いで作ったのだろうか。福島の原発事故のあと、何度となく急性被曝障害の図表を見た。それらは、その存在さえ明るみに出ることがなく死んでいった人びとの墓標であるのかもしれない。私は、そこまで考えて、もうあの図表を無邪気に、科学的知見の成果だと思って見ることはできないだろう、と思った。そこに、ぴったりとはりついている核開発の歴史にともなう名も無き多く の死者たちの姿を思い浮かべずにはいられないだろう。600ミリシーベルトでも構わない、と言った彼は、当然のこととしてこれらの犠牲者たちのことを知っている。その影を振り払うために、彼はあのように叫ぶ必要があったのか。いや、これは、私のいつもの考えすぎかも知れない。

つれづれに考えるうちに、ボニーの自宅に帰り着いた。車中では、いつものようにほとんど会話しなかった。ボニーが無口な人で助かる。明日は、私の発表の日だ。すっかり疲れて、そのままベッドに入って休むことにした。